*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【カタカナ語の受容?】

 ある小講演を聞いていたときです。話題がカタカナ語の氾濫になりました。最近は公的な広報でもカタカナ語があれこれ出没していることがお気に障るようでした。例えば,アクセスという言葉は,日本語で出入り,交通手段とか表現できるのに,わざわざカタカナにする必然性もなく,分かりにくいという指摘でした。
 カタカナ語についてはいろんな段階で議論されています。日本語で表現できないものは仕方がないとしても,日本語が使える場合には控えた方がよいというのが,大方の合意でしょう。話を聞きながら,そんなことを思い出していると,突然に新たな疑問が浮かんできました。
 それは,カタカナ語を忌避して抑制することがいいのか,それともカタカナ語が行き交う世界を自在に暮らすために生涯学習に励む方がいいのかという疑問でした。社会教育を頭の隅に置いているせいでしょうか,生涯学習という思考がこの問題を抽出してきました。
 カタカナ語が増えてくるのは日本文化の柔軟性とも考えることができます。かつて,明治の頃には,外来語を漢字によって意訳しました。漢字による新語・造語を作ってくれたお陰で,西洋文化の導入が日本語で可能になりました。今でも,漢字圏ではそれに類した対応をしています。では,その伝統はなぜ生かされないのでしょう。明治の時代と違って,その量が桁違いに多くなり,同時に使用するのもほぼ全国民にわたります。専門家が細々と使う時代とは違うのです。曲がりなりにも英語教育が行き渡って,英語に対するなじみがあることも追い風になっています。何でも貪欲に取り入れてきた活力は未だに健在だと言えます。
 生涯学習が現在社会における情報化・国際化の流れから派生してきた経緯を思い出すと,カタカナ語はまさにその最も顕著な例になります。カタカナ語何するものぞという気概を持つようになることが,生涯学習への意欲になると思わずにはいられません。
 もちろん,カタカナと漢字の表現力には,大きな差があります。元々は商標名であったクラクションは警笛と書けば,その機能が文字通りに理解できます。意味を表すという面では,漢字は見ただけで分かるという利点があります。そのように考えると,生涯学習はただ単に知るだけではなく,そこから新しい言葉を作り出していく所に行き着かなければならないようです。
 新しい言葉を知り,それを日本語に変えていく営みが日本文化の力であったことを思い出したいものです。追いかけるだけでは学習ではありません。そこから新しいものを創造できたとき,学びが生かされていくはずです。生涯学習の気運が社会の力になるまでには,今少しの地道な誘導が必要ではないかと,気づかされた講演でした。

(2002年02月17日)