*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【学校制度の弱点?】

 このコーナーで,先に学校週五日制,家庭二日制について,触れておきました。そこでは制度の改革を「チャンス」であると考えて,これまでの養育を検証し反省し再構築しようという宣言を述べるにとどめました。話は当然のこととして先に進まなければ,タダの看板倒れになります。次のステップは,これまで通りの学校依存というやり方でよいのかという検証,よくないのであればそれは何かという反省を具体的に実行することです。

 学校を考える前提条件として,はじめに「学校とは何か」を規定しておく必要があります。学校は子どもにとって教育を受ける環境システムです。その最も基本的な特徴は「同質性」ということです。教育効率の面から,同一年齢ごとに編成されています。その横並び集団は,同一レベル,同一体験,同一関心,同一理解など,同等の発達段階にあり,集団でありながら単一の教育対象に擬することが可能です。だからこそ,一人の教師が授業を受け持ち,一斉授業という手法が可能になるのです。授業効率の面で選択されたシステムなのですが,もっと広く養育という面から見れば,きわめて特殊なシステムということです。当然に特殊な育ちの様相が現れています。

 このことをさらに演繹していくと,同質性の中での教育は,同質性こそが目標価値となり,お揃いに向けて育てられていきます。だからこそ,過度の同質性に対する反発として個性希求の動きが自然発生したと考えることができます。しかしながら,その個性を大事にしようとする教育は,学校制度の上では論理的に矛盾する目標になります。同質性を基盤とする制度に異質性を持ち込もうとすれば,それは制度を破壊しかねないのです。そのバランスがこれまでの学校運営の手法で可能かどうか,問われようとしています。

 「水は方円の器に随う」という言葉があります。子どもの育ちも環境の形に依存することは容易に推察できます。そこで,これまで同質な環境の中で育ってきた子どもたちが,どのようにその影響を受けているか,いくつか洗い出してみることにします。ただし,ここでの考察は学校教育に対するものではなくて,あくまでも子育ちの環境としての学校という形態に関するものであることを再確認しておきます。


【閉鎖化】:自尊の反逆=他卑横暴
 同質な集団で育つ子どもは,いわゆる温室育ちという側面を持っています。外を知りません。知らないから恐がり,関係を絶ち,あげくは無視しようとします。特に人間関係では,他者は木石と同じと何となく思いこんでいます。同じように生きているということを実感したことがないはずです。人が壊れるのを見たかった,そんな犯罪が起こり始めています。考えれば分かるはずと大人は思うでしょうが,子ども時期に生きている他者は同級生だけという刷り込みを受けているので,衝動的な行動では木石感覚が吹き出してくるのでしょう。
 自尊意識のみが肥大化して,他人の尊厳など取るに足らないものと思いこんでいきます。自分の意に添わないものに対して,平気で暴力を振るうようになります。ストーカーやドメスティックバイオレンスの根元は,中途半端な自尊意識に止まっていることです。異質な他者と共存できるから自尊意識に意味があるという成長の仕上げが滞っているのです。

【簡略化】:安心の暗転=異界不安
 同質な集団で育つ子どもは,お互いに気心が分かり合えて,なんの苦労もなく簡単に仲間づくりができます。ツーと言えばカーと答える仲です。そこではクダクダとした説明は無用で,一言ですべてが理解し合えます。「見たか?」,「見た」,というわけです。言葉を使わずに意思疎通ができるので,やがて言葉が退化します。語彙数が少なくなり,同時に言葉自体の簡略化が進みます。これが今の子どもたちに現れている表現力の低下です。
 学校以外の異質な社会とつながるためには,そこに生きる人となにがしかの気心が通じなければなりません。しかし,コミュニケーション能力が未開発では,どうやればそれができるか見当もつきません。洞察や気配りができないために,人が何を考えているか分からず不安に苛まれます。こうして人間関係が成立せず,孤立し,フリーターというつかず離れずの中途半端な立場しか選べなくなります。

【差違化】:納得の誤謬=不明差別
 同質な集団で育つ子どもは,同質であることが見えにくくなります。そのことを明確化するためには,比較が一番です。誰か生け贄を選んで,その子とは違う自分たちという確認作用を編み出します。元々が違いのない集団ですから,些細な違い,理不尽な言いがかりを根拠としてターゲットを選び出します。それがいじめです。下手に庇い立てすると自分が標的にされるという恐れが傍観者にはありますが,それは誰が標的になってもおかしくないほどの小さな違いだということをみんなが了解しているからです。
 子どもたちが「なぜいじめられのか分からない」と言っていることに留意しなければなりません。ありもしない違いをことさらに取り上げなければならないとき,それは気分次第の言いがかりでしかありません。意味のある比較尺度を持たないからですが,それは同質世界にはあり得ないものです。温かさは冷たさがあるから存在できるのです。知的な関心が乏しいのも,本物の違いを実感的に見たことがないせいです。異世代交流の意味を再確認すべきです。

【停滞化】:価値の封印=安楽感性
 同質な集団で育つ子どもは,その集団特有の居心地のよい価値観を作り上げていきます。真面目に努力するといった大人に押しつけられる価値を拒否することで,安逸な価値を選んで振りかざそうとします。ですから,真面目に努力しようとする仲間内からの造反は,寄ってたかって潰しにかかります。外部世界の回し者という感覚なのでしょう。一つの集団としてのみ過ごしているので,自分たちの思い通りに安穏としようとすれば可能なのです。
 人が持つべき価値観は違う人間が寄り添うために選び抜いたものです。例えば,善とは多様な他者に対する広い価値であり,必然的に自己に幾ばくかの制限を課します。同質な集団ではその我慢を最小限に切りつめることができます。気を遣うべき他人がいなければ,勝手なことができるということです。唯一残る価値尺度は好きか嫌いか,面白いか否かという感性上の選択です。価値観の多様化とは,価値の崩壊と紙一重であると肝に銘ずべきです。

【軽薄化】:意味の喪失=迷走目的
 同質な集団で育つ子どもは,個が埋没しそうな苛立ちを感じます。自分を主張し個を確立しようとするのは自然な欲求です。つまり,同じであることに安心がありますが,同じであることに不満が現れるのです。差異化をしようとします。髪型や服装の改変などはその現れです。ただそれは改変に留まり,大きな逸脱には進みません。同質な仲間から拒否され,浮き上がることを怖がるからです。表面的な格好にこだわりを持ち,流行に乗りながらも少しワザと壊すことで目立とうする傾向として見受けられます。
 個性とは本来自らを主張するものです。ところが,見てくれに頼るのは,他人の目への迎合に成り下がります。どうだ格好いいだろう,それは自分の中に価値を持たずに,ただ認められたい,羨ましがられたいという不確かなものにすがっているに過ぎません。何のためにそうするのか,目的が迷走しているのです。

【純粋化】:成長の放棄=保身恐怖
 同質な集団で育つ子どもは,異物を極端に嫌うようになります。極力純粋になろうという傾向が出てきます。きれい好きな人がきれいにしている場にちょっとしたゴミを持ち込まれたら怒り出すのと同じです。持ち込みそうな人は排除します。一種の鎖国状態に似てきます。子どもたち同士でも,学年が違うと分からないと言っていますが,あまりに尖鋭な感覚に研ぎ澄まされているからです。ちょっとした違いが感性を振り切ってしまうのです。体温計を温度計として使っているようなものです。
 子どもは成長します。同年齢の集団は同じように成長するので,成長していることが感じられません。下の世代は昨日の自分たち,上の世代は明日の自分たちという,成長を自分の上に重ねようとしません。常に今のままでいたいという保身願望からは,成長は悪しき結果を招き入れるものとして忌避されていきます。成長することが今の自分を変えることになると恐れます。みんな一緒に変わっているということすら見えなくなっています。


 以上のような子どもたちの心配される姿は,大づかみに捉えれば「社会性の未発達」と言うことができます。ところで,社会性を育てるためには集団生活が必要であることは,誰しも認めることです。学校という形態が「子どもたち」という集団教育の場であるために,学校に行かせていれば社会性が育つと思いこんでしまいました。

 かつての子どもたちは社会性が育っていました。当時の学校と今の学校は形態的には全く変わってはいません。それなのにどうして今の子どもたちは社会性の発達をしていないのでしょうか? 今の子どもも学校環境に素直に適応すべく育っているはずです。それなのに社会性が育たないのは,学校がその機能を失ってしまったということではありません。

 元々,社会性は学校では育たないと考えるべきなのです。では,どこなのか? それは地域という環境です。昔と今の子育ち環境における最も大きな違いは,子どもが地域に入っているか否かということです。かつては地域における子どもたちを組み込んだ大きな人脈としての縦関係がありました。それが無くなったのは時代の流れの中で仕方のないことであったという見方もできるでしょう。しかしながら,国際化の中で見てみても,一人日本だけが子どもに対する家庭・地域システムの崩壊を招いています。決して時代といった天災ではなくて,大人による人災と見なさざるを得ないのです。

 同質な集団で育つ子どもは,横並びの糸と同じで,隣接する糸とはなんの関係もありません。社会という布にはなれません。布になるためには縦糸と絡む必要があります。その縦のつながりは「異質性」が特徴です。言葉はちゃんと順序よく並べないと通じません。違っている人がいろいろいることを感じ,いじめの種が些細なことを弁えます。安逸は認められないのだという大きな価値に気付きます。社会の一員であるという広い世界に飛び出したとき,子どもは本当の育ちをしようという気になるはずです。社会性とは何か? それは異質なものと折り合うことであり,だからこそ,異質との関わりの中でなければ育たないのです。

 学校というシステムに任せていればちゃんと育つという見込みは,幻想であったのです。なにより,子どもたちの育ちがどこかおかしいと感じられることがその証です。子どもの育ちを正常化するためには,家庭・地域二日制がそれぞれの養育機能を始動する必要があります。家庭・地域はそれ自体が子どもにとっては異質なシステムだからです。

 制度改革という構造改革は,学校五日制という制度と,家庭・地域二日制という制度が揃ってこそ,完成します。もしも余計なことをしなくてはならないと考えていたら,それは見当違いです。しなければならなかったことをこれまでしてこなかった,その反省から取り組みを始めるチャンスなのです。

(2002年07月17日)