*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【教育行政の火種?】

 新聞の片隅に,教育委員会不要論の意見が掲載されていました。教育特区というモデル事業にそのような申請もあったそうです。教育委員会がなければ効率がよくなるということのようです。教育委員会の現状については直接に携わったことがないので語ることはできませんが,行政組織の中での位置付けが変則的である所に流れの滞りが発生しているのでしょう。
 教育行政は人に関わる部署なので特別扱いを必要とするという意図から,教育委員会という独自のブレーン集団を介在させる形式が採られます。上意下達というシステムの中に審議決定組織を組み込めば,当然に指示命令系統に一定の歯止めが掛かってしまいます。それこそが恣意的な意図を封じ込めるための組織上のねらいであるのですが,業務の流れにこだわればどこか鬱陶しい存在になります。
 そこで教育長というポストを行政の流れの中に,つまり首長の命令系統に実務者として組み込んで,日常業務の処理が円滑に流れるように仕組まれています。この機能が主に働けばある程度ことはスムーズに進んでいきます。教育長は教育行政のトップとして学校教育課と社会教育課を統括することになります。この形が教育行政を特別なものにしていきます。行政組織では基本的に首長は課長に対して直接指示のできる立場にありますが,教育課については中間に教育長が介在しています。首長に直結していないということから,教育課は他の課とちがって島流し的なイメージを抱かれていきます。
 学校・社会教育課は教育長の意を受けて動きますが,一方で首長の決裁を受けなければならないという二重支配に陥ります。教育行政の推進は首長と教育長の二人三脚状態になります。組織上は首長権限が優先するので,教育長の権限は実質的に首長の意向を踏まえている範囲内に限定されます。さらに教育長は教育委員の一人として教育委員会の意向に従うという責務も負っています。教育長自身も二つの指示系統につながっています。あちら立てればこちらが立たずというジレンマの渦中に立たされているようなものです。
 教育上の理念は共通認識できているとしても,実践手法や時期,程度などについて見解が異なるはずです。首長,教育委員長,教育長の三者が足並みを揃えるためには,それぞれが協議し妥協していかなければなりません。その面倒な手続きに意味を見いだせない場合,組織的には沈黙の部分が生じ,事もなく進むという効率性が現れてくるはずです。
 もちろん,あらゆる事を摺り合わせることは現実的ではありません。ある程度任せていくことが必要です。例えば,首長が積極的に引っ張っていく場合,あるいは教育長に任せて首長はバックアップをする場合が普通でしょう。いずれにしてもどちらかが主体性を発揮しています。ところが,限界の過剰意識で誰もが控えめになった場合には,現場の混乱を招くことになります。特に首長は自らが指導性を発揮するか,さもなければ教育長もしくは教育委員長にバックアップを惜しまないといういずれかの選択肢しかないことを自覚すべきです。
 教育行政は,首長,教育長,教育委員長の中の誰かが指導性を発揮し,一方で必要な支援を惜しまないという体制になければ正常に機能しません。教育委員会不要論が出てくる背景には,教育長,教育委員長の存在価値,必要性の衰退が見えてきます。教育委員会は何をすべきなのか,そのことを問い直して新たな構築を迫られていると考えるべきです。小さな火種は枯れ草に燃え移れば,あっという間にすべてを燃やし尽くしてしまいます。分家的立場にある社会教育委員は本家の教育委員会の盛衰に大いに関心を持たざるを得ません。
(2003年09月03日)