*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【廃れた公共?】

 今年2003年は女児の連れ去り事件が多発した年でした。そのほかに早稲田大学のサークル活動が若い女性への不届きな所業をしたことも報じられました。男として何ともやりきれない思いをします。そのほかにも,中国での買春行為という破廉恥な醜態もありました。男意気が廃れているのを感じます。
 社会教育活動は,世情を反映せざるを得ません。動向を見定めて,よい方への修復を活動の目当てとして盛り込むことが求められます。漠然としたよいことに向けた活動になっているから,活力に乏しいのです。肌で感じている生活感覚に響かないから,共感されないのです。

 委員として今の世情をどのように認識すればいいのでしょう? 一言で犯行者の動機を表すと,「女の子はデパートでもスーパーでも売っていないから」と言えるでしょう。不謹慎な言い方ですが,不謹慎であるからこそ,その先には犯罪が待ち受けているのです。お金で売り買いされる男女交際も存在しているようですが,そこには危険が潜んでいますし,何より気持ちの交流が期待できません。だからといって,ほかに誰かとカップルになれる手軽で確実なチャンスなどはありません。
 見渡すとぴちぴちした女性がそこら中を闊歩しています。ものを拾う感覚で拉致してしまいます。人を拉致するというのではなく,目の前に転がっているものをただ拾うだけです。それは「誰でもよかった」という自供からも分かります。
 あまりにもお粗末な感覚ですが,それが現実に存在して街中をうろついているのは確かなようです。あまりに身勝手な性根を持っているから,行動は必然的に反社会的になっていきます。事件は目に見える部分ですが,それにつながる下地があるはずです。その背景こそが社会教育の活動領域になるはずです。悪い芽を育てるのは,土地がやせているということです。
 ここでは「公共」というキーワードを手がかりにしておきましょう。人にとって広い意味での「公共」とはどのように意識されているのでしょうか? 広い意味とは,公的機関という公共ではなくて,個に対する公という意味です。公共は自分のために利用する所と考えている人が現れています。欲しいものを収奪する畑とでも思っています。ひったくりは公共の場にカモを見つけます。狩り場と思っています。車からゴミを放り出すのも公共をないがしろに思っている所業です。
 公共とは一般に皆のもの,皆の場と言われます。その先が問題です。皆の場だから自分勝手に利用していいと勘違いしてしまいます。皆の場だから,あなたの場ではないという社会的なしつけが弱くなったせいです。言うまでもなく,皆の場という意味は,自分と対等な人間が自分と同じように生きている場だということです。道を歩いている女児も対等な人間なのだという感性が育てられていないから,奪うとか拾うという意識しか出てきません。

 東京の豊島区で単身居住者を減らす手だてとして29平方メートル以下の貸部屋には50万円の税金を掛けるという動きがあるそうです。単身者の4割が住民登録もせずにゴミだけは出しているという現状に危機感を持ったのでしょう。居住地域をゴミ捨て場としてだけ利用する勝手さは招かざる客です。公共という感性のないものは傍迷惑になります。利用するだけの人を信用できるはずもないと思うのが,庶民感覚です。

 地域の防犯力や教育力はもとより,活力のある豊かな地域とは,公共という概念化が浸透してはじめて実現するものです。共生という言葉もありますが,その場は公共なのです。公共とは個人の暮らしとどのように密接に関わっているのか,教育する機会を設けることが急務です。たとえば,地域からどれほどの恩恵を蒙っているのかをきちんと提示してあげるのです。公共利用の身勝手さを言い訳する言葉として,「税金を払っている」があります。あなたの払っている税金以上にみんなの税金をあなたは受け取っているのだということを具体的な数字として思い知らせるぐらいの強い啓発力が必要になります。
 生涯学習というキーワードも,ご隠居のお稽古事に占領されている感があります。今こそ,もっと公共を見据えた強烈な学習をカンフル剤として注入することを考えるべきときなのです。
(2003年12月09日)