*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【文明と文化?】

 地方の時代というキーワードがクローズアップされ,地域の活性化がまたまた俎上に登ってきました。十数年前に福岡県の家庭の状況を調査する役職についたとき,地域の教育力の衰退が危惧される結論を得て以来,講演などの機会があれば地域の再構築を訴えてきました。学校週五日制の試行の際にもその気運が盛り上がりかけましたが,結局は尻すぼみのまま今日に至っています。地域という概念自体がすでに空洞化しており,もはや手がつけられない状態だと思わざるを得ません。今頃になって,国規模の上意下達がごり押し状態で,うねりを広げようとしています。果たしてその大きな波を現在の地域が受け止められるかという判断がなされたのかどうかが危惧されます。おそらく,あっけないほどに更地に変わり果てることでしょう。問題は,その後です。新しいイメージの下に地域に代わる何か,コミュニティなどの新しい呼び名の基本的な生活空間を創出する必要があります。社会教育活動に寄せられる期待は,その夢を語ることにあります。夢がなければ新しい物事は始まらないのです。

 人々の意識を整理しておかなければなりません。文明と文化というキーワードを補助線として,現状を解剖しておきます。話を振り出しに戻すようですが,文明開化という動きが紆余曲折を経て,今日の豊かな社会をもたらしてくれました。人は時代を動かすと同時に,時代の中でしか生きられません。人は環境に適合するものということもできます。文明化という環境に意識までが慣れ親しんでいきます。変質していくのですが,その変化率が人の一生に比べて緩やかなために,意識化されません。何が変化したのか,最も大きな特徴をあげておきます。それは文明の「普遍性」ということです。文明の担い手である科学技術は普遍的な知識総体です。真理の本質です。どこのまちに行ってもたたずまいが同じになってきたのは,文明の普遍化の現れに過ぎません。それが当たり前になっている意味を弁えていないことが問題です。
 では,文化の特徴は何でしょうか? 文明の普遍と対抗する特徴は,特殊性です。土地柄といった,その土地ならではの特質を持ち合わせている,それを文化と呼びます。暮らしが隅々まで普遍性の中にあれば,どこでも同じという感覚になります。地域を特別に感じることができなくなります。つまり,人々の暮らし感の中に自分たちの地域という特殊性は見いだせないのです。地域とはそれぞれの思い入れに支えられていたものです。それが失せてしまっては,地域は存在しないのです。ただの住居表示だけしか意味がないことになります。
 普遍という環境は,人のつながりを嫌います。特別な関係を断ち切ることで普遍性を獲得するからです。それは自由という側面を見せてくれます。例えば,会社の人間関係も単なる契約関係というあっさりしたものになります。何もあなたでなくても代わりはいくらでもいるということになります。文明化した社会では人は部品になるということです。リストラも契約の打ち切りという単純なことです。
 でも実際は,人のつながりはまだまだ残っています。残さなければ人でなくなるからです。都会化という文明の実現は,人の感性に矛盾して寂しさを感じさせます。家族や親友というつながりがなければ,人は生きられません。その外に仲間というつながりを持つことで,人のつながりは完成するはずです。「私たち」という意識が実質的になるのです。地域は私たちという人のつながりを絆として成り立つものです。
 私たちというつながりを実感させるものは,共通性です。かつては,同じ土地に住むという共通性で十分でした。そこに暮らしの上でのさまざまな関わり合いがあったからです。近所の顔見知りの個人商店とつながっていました。いまでは,スーパーマーケットという地域の枠を越えた広がりを持つお店を利用しており,顔見知りという間柄はありません。私たちのお店という気持ちはありません。利潤追求のためには普遍性を持つことでシェアを広げることが必要だからです。個人商店として地域に密着していては商売ができないのです。
 地域の活性化のために何をすればいいのか,その方向が明らかになります。私たちという共通性を創出しなければなりません。ただ同じ住所に住んでいるというだけでは意識化できません。お互いの関わり合いを産み出す必要があります。もちろん人が求める関わりでなければ無理強いになり効果は期待できません。一つのアイテムは,少子高齢化です。子どもとお年寄りに対する互助という関わりです。

 地方の時代という動きをもたらしたきっかけは,少子高齢化です。その情勢変化が財政に影響し,その対応策として考え出された地方への分散化は,結局のところ,原因を自己解決するというループを描いているに過ぎません。少子高齢化を選んだ挙げ句が,巡りめぐって自分に戻って来たという皮肉に思われます。しかしながら,ループが閉じていることは幸いです。閉じていなかったら,対応がすれ違って,立ち直れないからです。安心して取り組むことができるということです。
 取りあえずは,問題の性質を大まかに把握することができました。今後は,地域の特殊性,その実現に向けて何かを始めていけばいいのです。

(2004年01月09日)