*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【各種委員の責任?】

 行政と住民の間には,さまざまな委員が設けられています。民生委員や保護司,人権擁護委員などの国による委員,選挙管理委員,教育委員,社会教育委員といった法律によって委嘱される委員,学校評議員,図書館評議員など,かなりの数になります。ところが,その期待されている機能が果たされているのかという疑問が随所に出てきています。住民側からすれば,どれほど頼りになってくれているかという実感が薄いのではないでしょうか。
 個人的な印象ですから確度は怪しいものですが,そのような状況になっているとして,少しばかり考察しておこうという気になっています。人のことを言うと間違いがありますので,社会教育委員について反省をしておきます。

 大きな理由は,行政も住民も社会教育委員の存在を認知していません。ましてやその役割など分かってもらえていません。さすがに教育委員会の存在は学校教育との関わりによって知られていますが,教育委員についてはどうでしょうか? 教育委員の在り方が,存在理由も含めて検討されようとしています。教育部局は一般の行政とは切り離して独立させておく方がよいという考えがありました。しかしながら,予算権限も含めて,確かな実力を備えていない部局では,結局のところ存在感を明確に打ち出せるはずもありません。在ってもなくても同じという印象が定着してしまいました。まして,その下部組織である社会教育委員は盲腸みたいなものです。
 社会教育委員は教育委員の諮問を受ける役目を担うものですが,教育委員に時代を動かすという気概がなければ,飼い殺しの状態になります。時代劇の部屋住み侍のようなものです。ふてくされたくなって当たり前でしょう。特別に課せられている仕事もないので,ただブラブラとしていれば日々は過ぎていきます。やがて,折角の機会が訪れても,どうせ自分たちには大した関係もないし,他にもっと意味のあることを抱えているのでとあっさりすっぽかす癖がつきます。委員はその姿を衆目に曝すことが自らの存在をアピールするために不可欠です。自らを貶めるような所業は,他のがんばっている委員さんに失礼です。

 帳面上の名前だけ揃えれば事足れりという風潮があり,それに甘んじて名前だけ貸している積もりで委員職を占有している方々がおられます。忙しいと言われると,押しまくるわけにはいきません。無理して頼んでいるという負い目があるからです。しかし,いったん委員職を引き受けたら,それなりに責任を果たそうとするのが社会人でしょう。いい加減に勤めていて平気であるという神経は信じられません。委員にはそれなりの方が推されるはずですが,どこがそれなりなのかと疑われます。何をしていいか分からないという繰り言も出てきますし,自分勝手に仕事を都合よく書き換えて我がものにしてしまうケースも散見します。何ができるかを見つけることが職務であるはずだと考える力も持ち合わせていないようです。
 まさか誰も教えてくれないからと子どもみたいな言い訳をすることはしないでしょうが,誰も直に言わないことをいいことにさぼっているとしたら何とも不愉快です。自覚の無さを人に言われるほどプライドを傷つけることはないでしょうから,温情で見逃し,仕方がないと笑ってみせている同輩の心情は同情されます。
 それなりの指導のできる立場でなければ,事態の改善に向けて外堀を埋めていくような間接的な働きかけをするしかありません。働かない委員は更新しないということで,働きたい人に場所を明け渡して貰うように人事権のある部局に訴えていく道もあるでしょう。会長という立場にいると,よそ事ながらもあれこれ辛気くさいことまで気にしなければならないようです。

(2004年01月23日)