*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【啓発は?】

 学校現場での悩みは,学ぶ気がない子どもをどうやって学ばせるかということです。楽しく分かりやすい授業を求める声がありますが,それは楽しもう分かろうという気持ちが伴わなければ不可能です。教育は教える者と学ぶ者の立ち会いです。気が合わないとどうにもなりません。社会教育も,教育の一つであるということから,事情は同じです。そこに,啓発という事前の作業が持ち込まれることになります。学ぶ者の意欲を喚起する,動機付けするというプロセスです。
 話をさらに広げていくと,有形無形のモノを売り込もうとする宣伝・勧誘とも重なります。人をある気持ちに誘うというのは困難なことです。だからこそ多くの人が精一杯の心血を注いでいるのです。つまり,啓発関連の作業は片手間にやればいいといういい加減な気持ちで取り組めるものではありません。本番と同じくらいの努力が期待されています。

 社会教育における啓発はどうなっているでしょう? チラシやポスターが用意されたら上々で,簡単な文書通達が罷り通っています。計画されている事業は,立場上出席させられる人でかろうじて盛会というわけです。年度交代して立場を離れたら,手のひらを返す,足の裏を返すのでしょうか,寄りつきもしません。リピーターを作れない本番にも問題がありますが,元々無理をしているので,何を持ってきても無駄のようです。
 動機付けといえば聞こえはいいのですが,端的に言えば,欲に訴えることです。儲け話や快感を伴わないと力はありません。よいと分かっていても,それが拒否へのパスポートになっています。しなければならないことかもしれないが別に自分がしなくても,それが逃げ道をこじ開けます。現状で間に合っているという思いがあるから,取りあえずは何も要らないのです。石に爪で刻むようなものです。社会教育には強烈な刺激は望むべくもありません。

 人が人を呼ぶということがあります。人は人のしていることが気になります。街角に立って空を見上げていると,通りかかる人も空を見上げます。サクラ効果です。誰かが面白いと言えば,面白いと刷り込まれる人が出てきて,輪が広がっていきます。社会教育の啓発は,社会教育に関わっている者が楽しくやってみせることから始まります。仕事だ,役目でやっているということでは,誰も寄りついては来ません。楽しそうにやっていると,誘われてみようかなという動きが出てきます。
 委員が広告塔になるためには,委員が楽しくてしようがない活動をすればいいのです。そのためには充て職委員はかなり不利になります。ついでにやっているという立場は,楽しさを連れてきてはくれません。楽しんでいる人を委員に招じ入れることが先決なのかもしれません。委員の人選の時から,社会教育の啓発は始まっていると考えている昨今です。

(2004年02月17日)