*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【立場の逆転?】

 「生涯学習と言えば生涯学習だが」。ある会合で遭遇した壁です。裏を返せば,生涯学習は社会教育に過ぎないという理解の壁です。具体的には,生涯学習に関わる活動は社会教育行政の所管であるということです。たとえば,住民に対する健康生活への啓発や活動は,健康に関わる行政課の所管であり,生涯学習活動ではないという考え方です。生涯学習とは何かというところまで協議がさかのぼってしまいました。そのときに漏らされた言葉が,生涯学習と言えば言えるが,だったのです。「学習」=「教育」=「教育委員会」という連想が強固です。
 人がよりよく生きようとする営みは学習活動から始まるという生涯学習の基本理念が行政内部に浸透していません。どこの自治体でも生涯学習の推進が頓挫している背景には,理念の誤解が大きな障害として居座っています。生涯学習の推進を標榜する行政の公式の対応でさえ,社会教育を生涯学習に看板替えしているに過ぎません。学習であれば教育の裏返しであるという単純明快な発想であり,それなりの改革をしたという世間体も整っていきます。玄関の改装だけで内実は何も変わっていないことに安堵感もあります。新しい理念が浸透するには数世代の交代が必然ですが,そうだからといって,手を拱いていては前進はありません。岩を砕くには絶えず水をぶつけ続けなければなりません。
 学習という言葉を「楽習」に置き換えて計画立案をしている例があります。住民に対する啓発を意識して親しみやすい翻訳を試みたのでしょうが,一方で教育行政領域からの離脱を図っているようにも思えます。意図的であれば鋭い洞察がうかがえます。学習という言葉自体が生涯学習自らを縛っていますし,誤解を生む元凶になっています。確かに「生涯学習とは」という自己紹介が常に付随しますが,説明が必要であるということは言葉として根付いていない証です。新しい概念語ですから仕方がありませんが,学習につきまとう教育への強い連想を断ち切るのは容易ではありません。悔やんでいても変化は生まれません。できることを探さねばなりません。

 新しい概念を受け容れてもらうには,それなりの手だてが必要です。簡単に言えば,「アレッ」という驚きです。「ちょっと違うぞ」という気づきです。種を蒔くには先ず畑を耕しておかなければなりません。固い畑に種を蒔いても意味がありません。畑に鍬を入れることで,眠りを覚ます効果もあります。どさくさに紛れて種を紛れ込ませるといえば乱暴ですが,改革には必須の手はずです。
 学習であれば教育の裏返しに過ぎないという単純な捉え方に重大な問題があります。行政と住民の関係という枠組みで整理してみます。教育とは行政側の言葉であり,学習とは住民側の言葉です。住民側というときに想定すべきイメージは,住民一人一人です。一人の住民が生涯にわたる学習をするのです。学習活動は住民の気持ちに引き寄せれば知りたいということであり,知求活動です。生きていく上で知りたいことはたくさんあるはずです。その要請に応えるのが行政の責務であり,すべての領域が関わってくるはずです。行政総掛かりという文言は,ここにつながってきます。
 知りたいことに応える方策は,効率化のために集団化することも必要です。特定の日に特定の場所に集まってもらうということで,形式的には教育的です。確かに生涯学習は手段として教育形式をとることもありますが,実際的な活動は教育ではなく学習なのです。住民がする学習活動に対して,行政は支援をする立場にあります。行政が教育をする立場とは正反対なのです。生涯学習を行政は受けて立たなければなりません。教育部局に任せておいて済むようなことではありません。
 何が,どんなことが生涯学習か,それを決めるのは住民です。行政側が自分たちの守備範囲には生涯学習は存在しないなどと言える立場ではないのです。住民を大事にしサービスをするのが役目であると思うのなら,業務の一端として生涯学習に対する支援を明示できるはずです。「住民が知りたいことがあれば,いつでも申し出てもらえば対応します」。それがサービスのつもりですが,リップサービスに過ぎません。きちんと窓口を設けていることが大事なのです。
 住民の視点に立った生涯学習を明確にするために,「住民」という主語を意識的に前面に打ち出すことが大事です。最初の一鍬として打ち込んでいきたいと考えています。取りあえず,教育と学習では主役の逆転が伴うという気づきを喚起するつもりです。壁との遭遇はまだまだ続きそうです。

(2004年03月25日)