*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【家庭教育改?】

 青少年の健全育成活動は,社会教育における重要なテーマです。学社連携や融合というキーワードによって,社会教育への接近が図られてきましたが,今ひとつしっとりと馴染んでいるようには思えません。家庭の教育力は相変わらず回復の兆しは見えず,落ち込んでいく一方です。地域の教育力も,試行錯誤の中で,これといった目標を模索中であり,その動きをあざ笑うかのように児童への魔の手が新たに蔓延りはじめています。状況を概観すると,八方ふさがりな印象が強くなります。
 とはいえ,落ち着いて身近な子どもたちを見れば,大多数の子どもたちは素直に育っています。問題にしなければならないことは,育ちの方向がちょっぴり外れかけたときに,修正のための手当てが用意されているかということです。つまずいたときに掴まる支えがあれば,立て直すことができます。その面での手当てもなされていますが,相談やカウンセリングといった形態になっています。実のところ,そのような手当ては子どもの世界の外にあり,効果は期待できません。
 育ちの病気であれば専門的な対処が必要ですが,今最も求められているのは風邪引き程度の軽い育ちの病に対する身近な手当てです。親の目や大人の目の中に子どもを捉えておけば,ちょっと育ちの具合が悪そうだなと気がつき,早い手当てが施してやれます。普段の声かけによって,いつも育ちを見守ってやれること,子どもの世界につながった大人の世界があるという状況がもっとも大事なことです。
 どうして大人たちは育ての手を引っ込めるようになったのでしょう。多忙さのためという逃げ口上も,当たっているでしょう。子どものことに構ってはいられないという世情が拍車をかけています。しかしながら,それだけでは現状を説明できるようには思えません。あまり気づかれていない理由,子どもを脇に追いやろうとする見えない力が働いている気がしています。
 大人はあらゆることを専門家に任せようとしています。自らの手によって慣れないことに関わるよりも,専門家に頼った方が楽だし確実だという思いこみがあります。子どもについていえば,学校に委託するという思惑がとても強くなっています。その挙げ句が,親が言っても聞かないので先生から厳しく注意してくださいというお願いになります。親は食事付きの住まいさえ用意しておけば,保護責任は果たせているとのんきに構えています。
 人の気持ちを動かしているのは,使っている言葉の力です。曰く,家庭の教育力,地域の教育力と言い方が一般的です。また,親の役割とか地域の役割とも言われたりします。「教育」は素人にはできません。「役割」とはきちんと定義された職務であり,またも専門職に割り振られるものです。普通の親や大人は素人であり,教育とは無縁です。少なくとも,そんな大それたことは,自分がやるべきこととは思えないという風に意識されていきます。
 教育力なんていう言葉を投げかけるから,親や大人は腰が引けていきます。子どもをただ可愛いと撫で回すか,手の掛かる余計な存在と疎んじるか,どちらかしかなくなります。育てるといっても,食べさせておけば済むと考えます。子どもが大人にとってはお客さんでしかなくなってきた,そのよそよそしさが気になります。
 教育力や役割といった専門的色合いの強い言葉に引きずられないように,家族やふるさとといった人の密接なまとまりをイメージし合うことが一つの指標となるべきだと思われます。子どもの回りに,お父さんやお母さん,おじいちゃんやおばあちゃん,隣のおじさんやおばさん,お兄ちゃんやお姉ちゃんたちとの普段のつながりを張り巡らすこと,その自然な姿が取り組むべき課題となってきます。自然という意味は,子どもとの関わりに教育的な正解を求めるのではなくて,試行錯誤でいいというゆとり,こうでなければならないという脅迫的な役割意識ではなくて,一緒になんとか暮らしていこうというやさしさ,そういう生きることを共にする喜びがあるということです。家庭教育という言葉ではなくて,「家庭共育」と改めては如何なものでしょう? 取りあえずの提案ですが,もっと訴求力の強い言葉を探していきます。

(2004年05月10日)