*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【触覚の教育?】

 小学6年生の女児が,仲良しといわれていた友だちを学校の教室でカッターナイフにより殺害したという事件が起こりました。子どもたちのネット世界との関連が,気持ちの行き違いを増幅し衝動を駆り立てたという論調が聞こえてきます。チャットを媒介としたコミュニケーションが,如何に本心を伝えないかという指摘がなされ,パソコン環境への指導の手抜かりが反省されています。
 事件後の加害少女の心情が普通に思われて,事件の凄惨さとのアンバランスに戸惑いがあるようです。テレビの場面がそっくり現実の世界に再現されたにもかかわらず,登場人物が観客側にいるというすり抜けを目にして,まるでマジックショーを見て不思議な感情を覚えているかのような状況なのでしょう。あまりのギャップに,何がどうなっているか見当も付かないために,異例の精神鑑定が行われています。小耳に挟む情報で状況をイメージ化するのは感心しませんが,細部はとにかく,取りあえず大づかみで事件の特徴を掴むことはやっておく必要があります。

 特異な事件ではあるのですが,その背景にはかなりのバイアスが掛かっています。つまり,そのようなことが勃発しやすい状況に土台が持ち上げられている,あるいは奇妙な追い風が吹いている,といった分析は誰しも簡単です。その上で,言葉の行き違いという直接的なトリガーが引かれたことになります。その経緯については,悪い方に推移したということで,途中に幾重にもあるはずの安全装置・歯止めがフリーになっていたことが見て取れます。
 文字会話の不確実性の教育,閉鎖的でありながら公開されているという特質を持つネット世界の二面性に対する未熟さ,カッターナイフが持ち込まれる自由さ,給食の時間というある種の拘束を簡単にエスケープできる指導の狭間,さまざまな予兆への子どもからの無申告と大人の見過ごしなどが考えられます。もしあのときこうしていればという後悔の種はたくさん見つかるでしょう。それがたまたますべて筒抜けになってしまっていたわけです。
 人のちょっとした軽い言葉が,とても大きな傷をもたらし,感情的に激する場合はあります。それだからといって,即座に刃傷沙汰にはしないのが普通です。そこに辿り着くまでには,積もり積もった憎しみとなるプロセスがあったはずです。それはもちろん被害女児のせいではなく,周りの人間関係からのあれこれがすべて関わっているはずです。最後の局面に被害女児が不運にも遭遇してしまったと思われます。

 具体的な経緯は知ることはできません。いずれある程度のことは報道されるかもしれません。ここで考えておきたいことは,子どもたちがネットの世界に深入りすることで,何を失っているかということです。危険な淵に向けてバイアスが掛かっていると言いましたが,それがどういう内容かということを大人は知っておかなければなりません。ネットの世界の特徴は,視聴覚の世界です。バーチャルな世界と言われますが,虚像です。頭の中の世界です。このことは皆知っています。それでは事件が起こる現実の世界の特徴は何でしょうか? それは味覚,嗅覚,触覚の世界です。つまり生きている世界は触覚の世界なのです。カッターナイフで切られたら痛いのは触覚の世界にある肉体です。このことが基本的な認識でなければなりません。
 ネットの世界にないもの,それでいて最も根元的な生きる感覚,その触覚の世界が子どもたちの感性として育っていないところに問題の核心があります。お肌サラサラとか,体毛を毛嫌いするとか,見てくれのためにプチ整形するとか,肉体を意識の世界に従わせようとする逆転がボタンの掛け違いの兆候だったのです。暮らしのあちこちで触覚をないがしろにしているから,人が生きることの意味や価値を見失ってしまいました。命の大切さを教えなければと誰もが言う割には,それがどういうことかを示す人は見当たりません。おそらく,生きていることを大人も忘れているのでしょう。触覚の教育,それが今最も不可欠な課題だと指摘しておきます。何故なら,それが命への王道だからです。
(2004年06月15日)