*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【次世代育成支援?】

 平成15年度に成立した「次世代育成支援対策推進法」という法律があります。福祉行政の流れの上にある国からのメッセージです。教育行政上の社会教育とは別の路線を走っているせいでしょうか,社会教育の窓からは見えていませんでした。個人的なアンテナの偏向のためだけでもないようです。縦割り政策の見えない壁を思い知らされます。そこには,乳幼児と児童という輪切り,あからさまには未就学児童は福祉,就学児童は教育委員会という区分けが見えています。育成という営みは就学しているかいないかによってすっぱりと切り分けられるものではありません。政策上の方便が優先されている所に政策の抱える弱点があり,当然そこから紡ぎ出される諸施策は中途半端にならざるを得ません。
 次世代育成という課題は,少子化対策の一環です。それが現場で未就学児童を対象とする支援に限定される背景には,福祉行政における待機児童の問題が意識されているという事情があります。この問題が起こった原因は,就学児童は義務教育という理念に基づき全員収容が実現されていますが,保育環境は義務ではなくてあくまでも支援に留まるという歯止めが掛かっていたという点にあります。未就学児童は家庭の抱える義務であるという了解があったのです。教育分野における幼稚園についても,同じ事情にあります。
 義務教育の責任は,国,県,市町村および親に課せられています。未就学という区分けによって,少なくとも国地方自治体は義務を免れます。そこで未就学児童の育成は親の義務に縮小されてきました。ところがその親たちが義務を果たさなくなってきました。社会参加といううねりが親であることの意味を豊かさという刃でそぎ落としてきました。親であるよりも社会との関わりの方を選ぶような時代を作ってしまったのです。臑をかじるような余計な負債は引き受けたくないと言ってしまえば実も蓋もありませんが,子どもを足枷と見るような社会ができてきました。
 子育てが楽しくなるような支援,子育てに意味を見つけられるような支援,このような施策が目指そうとしている目的を実現するためには,生き方の理念をルネッサンスすることが不可欠です。命の大切さを心底から実感するという,人としての最も根源を揺さぶるプログラムがなされるべきです。今の子どもたちに命の尊さを教えられなかったのは,親が命の喜びを普段の気持ちに込めて子どもに関わってこなかったからです。未就学児童の養育を公的な義務としなかった背景には,親と子の命の連鎖を大事にしようという願いがあったのです。
 生きることが厳しい貧しい環境では,命を次世代に託すことが本能のままに当たり前に行われていました。子どもを育てる喜びは,命がつながっているという喜びであったのです。命の尊さが実感されていたということです。ところが,なんとなく生きていける豊かな社会では,生きることが当たり前になり,命を意識の外に追い出すことができるようになりました。子どもは命の再来ですから,豊かな社会意識の埒外に置かれたのです。
 親の時代が貧しければ,せめて子どもの時代は良くなるように,命の連鎖が発展するようにと願います。豊かな時代では,子どもの時代など心配する必要はなく,親自身の幸せを求めるように変節します。子どもは子ども,親は親,勝手に生きていけばいいという豊かさに変質します。豊かさにも賞味期限があるのです。言い方を変えると,物質的環境の豊かさを,生き方の核にまで持ち込んではいけないのです。モノの豊かさは生きる手段でしかなく,精神的な豊かさとは違うものです。
 豊かなブランドで身を纏えば,豊かな品性が備わるわけではありません。そう思い込んでいるのは,裸の王様だけです。豊かさの片鱗として美しさの追求といいながらも,野辺の花一輪の迫力もありません。粗野な言い回しですが,種なしだからです。命があるかどうかということです。次世代につながっていてこそ,美しさがあることを見落としています。豊かさの中で起こる価値観の多様性とは,価値の喪失化です。目くらましにあっているに過ぎません。
 次世代という言葉自体が,命の連鎖を前提にしています。次世代の育成とは,命がつながっていくという根本理念を外さなければ,簡単なことであるのでしょう。しかし,豊かさの中でそれを喚起するのはかなり難しいことなのかもしれません。人としての願いは深く沈み込んでしまっているようです。投げやりな気分になりそうですが,人はなにがしかの希望があってこそ,人として生きていけると信じましょう。

(2004年07月14日)