*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【来たるべき社会?】

 社会教育の領域で,公共というキーワードが浮き上がってきました。学校と社会という明確に区分された領域のままではことが上手く運ばなくなり,学社融合という形で中間領域を新設しようという動きが推進されてきました。しかしながら,それは教育に限定されており,さらに融合とは溶け合うことでしかなく,プロセスというニュアンスが残ってしまいます。学校と社会が融合して何ができあがるのかという完成イメージが曖昧なのです。
 その漠然とした落ち着きの無さが,公共という第三の世界を思いつかせたと考えられます。さらに,教育分野を越えて,行政と住民の間に公共という世界があることを再認識しようとしています。かつて,人様,世間という名で意識していた世界に対応する領域です。もちろん古来のものを蘇らせるのではありません。新しい名前の下で新しい意識空間を創成しようという企てです。社会教育の流れに載せれば,融合して公共が生まれようとしていると考えればいいでしょう。生涯学習という動きも公共世界の活動としてこそ本来の意味が発揮されるはずです。また,ボランティア,NPOといった活動形態も,行政でもない住民でもない,新しい公共における活動ということができます。いろんな事柄を一つにつなぎ合わせてみると,時代はバラバラに動いているようでいて,それなりの筋道が通っているようです。
 このような動きの中で見ると,社会教育という語句の寿命はそろそろ尽きかけているのではと思われます。学校教育に対する社会教育という対句では,時代に合わなくなっています。このことは逆に考えれば,教育という範疇では捉えきれない分野にまで社会教育が手を広げすぎたことでもあります。生涯学習という動きに対して社会教育は自身の存在意味を見失いかけている状況に追い込まれています。一方では,実のところ生涯学習という言葉は手段を表しているに過ぎず,それ故に生涯学習によるまちづくりなどと言われています。生涯学習社会という言葉も開発途上社会という意味であり,その先に何があるかを示しているわけではありません。
 行政的には財政難という要件に攻められて,小さな行政を選択せざるを得なくなっています。地方分権や民間委託という動きは,行政が抱え込んできたことを,手放そうという動きであり,そのためには引き取り手を必要とします。自助努力という価値観を醸成することで,住民サイドに向けて施策の分散化を図ろうとしています。必ずしもあからさまに意識していないかもしれませんが,情勢はそちらに流れています。とはいえ,ことを進める上で行政と住民という二者関係では混乱が起こることは必至です。責任のなすり合いになるからです。そこで共同出資による第三セクターならぬ,公共という新しい枠組みを設立しようとしているのです。それぞれの当事者は必ずしも公共という言葉を持ち出してはいませんが,なんとなく考えることは似てくるようです。
 男女参画という動きもまた,手段を表しているに過ぎません。男女が参画する社会とは,どのような社会なのか,そのイメージを表す言葉が誕生していません。現在のあらゆる動きは,ゴールが見えないままに,取りあえずいろんなことをやらなければという状況になっています。それだけに指導者は目標設定に苦慮し,住民は希望の明かりを感じ取ることができないままに立ちつくしています。
 このように見てくると,社会教育委員がこれから考えなければならないことは,新しい公共の姿を具現化することであり,そこに向けた社会教育計画書を策定することであると思われます。先見性,それこそが今最も求められているものです。現在のあらゆる動きの先がどこに収斂しようとしているのかを,社会的情報を集約することで見極める作業を始めなければなりません。ここで引き出した公共という言葉は,おそらくこれからの考察の重要な補助線となるはずです。

(2004年08月02日)