*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【全輪駆動の社会?】

 社会教育の分野では,連携,融合,分権,委託,参画といったキーワードが語られています。いずれも異なった分野の統合化というパターンと捉えることができます。専門分野に分けることで緻密な活動を推進してきましたが,ここにいたって,お互いが何をしているのか気にせずにはいられない状況を迎えています。
 社会活動は人びとを対象とする活動であり,個々の活動はシェアの拡大が目標になります。組織活動であれば,会員の増加,参加者の増加が活動推進の目安になっています。そのために採用される手だては,ニーズに応える活動の創出です。ところが,人びとのニーズは対象数が増えるほど千差万別であり,あれをやればこれもという際限のない拡大に向かわざるを得なくなります。専門領域を抱えている組織は,活動の広がりに耐えられなくなってきました。
 学校は勉学の場という専門性によって存在価値を発揮すべきですが,勉学の前準備,すなわち基本的なしつけや体験がなされていない子どもたちを迎えて,途方に暮れています。それなりにしつけなども引き受けざるを得ないということでしたが,実情はとても片手間では負えなくなってきました。家庭や地域の本来の役割を前提として成り立っている学校は,前提の崩壊に押しつぶされています。その現状認識が,学社連携,学社融合という悲痛な叫びを発させています。
 地方と国という領域分けも,地方の活力が低下する中で国の抱える負担が相対的に増加し,重荷に耐えられなくなっています。分権という形で地方に国民に自己責任を迫らざるを得ません。地方がしっかりしていることを前提として,国という機構が成り立つというシステム観が改めて問い直されようとしています。行政と民間という領域分けも同じ状況です。行政は人びとのニーズの多様化に応えきれなくなっています。ニーズがある以上,民間の参入も可能であり,委託という形などが進められています。民間の活力が備わっているという前提で,行政は行政としての機能を発揮できます。
 豊かさを手に入れた人びとは自己開放を満喫しています。余計なことは捨て去り,自己満足をひたすら求めています。その余計なことの中に社会の活力が含まれているのですが,誰も見向きもしません。自己責任とは,社会の基本であり,あらゆる社会の領域を担う義務と同義です。現在の行き詰まりは,すべてが自己責任を果たせないことから生じた諸前提の崩壊なのです。したがって,社会教育の分野統合とは,人びとが手を引いた分野を再興することです。
 そのためにはどのような道筋があるのでしょうか? 例えば,NPOという活動形態がさまざまな分野で興っています。地域や民間という従来からの分野分けではなく,新しい公共という形が生まれようとしています。人が人びとのために活動する,それが社会活動です。公共の活性化があらゆる分野の前提の衰退を補うことができるように,社会教育委員の適切な誘導が求められています。専門領域がそれぞれ活性化しなければ社会は円滑な進展ができないということの自覚から手をつけていくべきです。

(2004年08月19日)