*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【対等な福祉?】

 この夏から福祉関連協議組織の委員長職を2件拝命して,思考回路の再構築をしている所です。ただ,福祉といっても領域幅が広く,その全貌を把握するには今しばらくの学習が必要のようです。これからの福祉活動を考える機会を与えられたのですが,現時点で漠然と思い描いている問題意識があります。
 福祉の基本的な形式は,支援者と受給者という関係です。支援者側の組織化が進み,支援体制の整備が図られている一方で,受給者側の体制が手つかずになっているのではという懸念が拭えません。福祉の受給者は一般通念上では社会的な弱者であるという自意識を持たされ,遠慮がちになっているのではないでしょうか? 全くその必要はないのですが,これまでの慣習がそうさせていることはあり得ることです。
 例えば,障がい者や独居老人の名簿などは部外秘扱いされます。行政区毎の人数表でさえ,個人名はなくても,特定可能であるという理由で,取り扱い注意になります。そうせざるを得ない事情は,なるべくなら公にしないで欲しいという要望があることを伺わせます。なんとなく人知れず陰でコソコソしなければならないというイメージが拭えないと,福祉活動の進展は望めなくなります。もっと明るく当たり前にならなければ,そのための受給者側への働きかけが最も最優先の課題のような気がしています。
 先日の会議で,「障害者」という言葉を「障がい者」と記述してある書類について,委員から確認の意見が出されました。もちろん,障害の害という字が他者に対する害をイメージさせるために不適切という判断です。そのいきさつを耳にしながら,中途半端な印象を禁じ得ませんでした。障害という言葉が今現在相応しくないなら,小手先の修正ではなくて,新しい言葉を生み出さなければなりません。障がい者という言葉を残している限り,福祉の進展は期待できないからです。
 労り支援をしなければという福祉の受給者の中には,高齢者や子どもという分類があります。それらは,人生の時期を表す言葉であり,分け隔てなく万人が通り過ぎるものです。ところが,障がい者は病気や事故などのために望まないままにハンディキャップを背負わされた方々であり,特別な少数者です。不運に見舞われた不幸な方という哀れみがつきまとってきました。その哀れみや同情が,障がい者には人としての自尊心に抵触することになり,福祉の見えない壁になります。
 介護を受ける人を,要介護者と言っていますが,苦肉の造語です。その例に倣えば,障がい者に替わって要支援者という言葉が並びます。もっとスマートな言葉が思い浮かべばいいのですが,言葉は「○○する」という能動的行動を表すように作られるものなので,「○○される」という受動的な表現を言語化するのは難しいようです。しばらく考えてみたいと思っています。支援者に対して受援者とか,・・・。

 実は,ここまでは,コラム236号の再掲載です。その後,(財)人権擁護協力会発行の「人権のひろば」という冊子(No.39)に掲載された樋口恵子氏の寄稿を読む機会があり,気になっていた問題意識がかなり解けてきました。
 福祉現場の担当者の声として,サービス利用者の言葉が変わってきたというのです。昔は「お世話になります」,「助かってます」,「すみません」。福祉三用語とも言われています。立場として,してあげる者としてもらう者という上下関係があります。今は「〜して下さい」,「ありがとう」の言葉が多く聞かれるようになったそうです。ありがとうは,対等な関係を表しています。その変化は,福祉の「対象者」,「受給者」と言われていたのが,「利用者」と呼ぶことが定着しはじめたことに現れています。福祉の概念がバージョンアップしてきたのです。

 福祉領域でも,サービスの選択と自己決定ができるようになったということです。福祉が哀れみを伴う同情や恩恵ではなく,人としての尊厳を前提とした対等な関係になったことは喜ばしいことです。特別な関係ではなくて,ごく普通の人間関係と自然に重なることが,これからのユニバーサルな福祉社会が目指すことなのです。福祉の世界を歩く道標が手に入ったような安堵感を得ることができました。

(2004年10月13日)