*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【教育としての社会教育?】


 社会教育は改めて述べるまでもなく教育です。教育は明日をめざすことが基盤です。人にとって明日とは,夢や希望です。そう考えてくるとき,社会教育は夢や希望を語ってきたかということが自らに問いかけるべき質問となります。先にこの欄でも述べた「役に立つ社会教育」というフレーズも,明日の希望の実現にとって役に立つかという自問となります。課題を見つけて解決に向けた活動をすることが当面の社会教育活動になっていますが,そこでは希望が何かという肝心な点が必ずしも明らかにはなっていません。社会教育は今こそ希望を語らなければなりません。実のところ,課題を見つけるためには,めざす希望という目標が無ければなりません。
 教育とは人を対象とするものであり,したがって希望はどんな人になりたいかという形になるはずです。人づくりがキーワードになる所以です。簡単に言ってしまえば,「社会教育が目指そうとしている人物像」を語ることが社会教育に携わる者の役割でしょう。

 数年前には,生涯学習による人づくり(まちづくり)がそこかしこで喧伝されていました。ところが,実務的な部分で機能不全に見舞われ,思うように定着ができていません。行政の実務レベルで扱いに苦慮しています。例えば,生涯学習に対して責任を持つのは何処の部局かということが,必ずしも共通理解できていません。社会教育部局が生涯学習部局に看板替えをしたのが関の山で,それがかえって生涯学習を誤解させることになっています。生涯学習を支援する体制は行政のすべての分野にまたがり,すべてを動かす権限を持つ首長部局の管掌事項であるべきです。生涯学習の魔力に魅せられたのは仕方のないことですが,馴染みがなかったことに加えて,あまりに大きな期待を寄せたために,既存の体制では御しきれなかったようです。
 生涯学習が頓挫状態にあるもう一つの理由は,生涯学習と社会教育を,その性格の違いを顧慮することなくなんとなく同居させたことです。一つの区別の仕方は,形容詞をつけてみることです。例えば,「私の生涯学習」,「私たちの社会教育」と対比してみることができます。つまり,学習は学習者個人に帰せられるものであり,教育は集団を対象とするものという一般的な暗黙の了解を際立たせるのです。そこを曖昧にしたまま混同するから,うまくいかなくなります。さらに言えば,生涯学習は生涯という個人のライフステージを軸としており,一方で社会教育は人の横のつながりをベースにしています。つまり,理念とする構造が全く違っています。

 生涯学習と社会教育は似て非なるものではありますが,だからといって接点がないということではありません。いずれも今生きている人の明日の幸せを願う活動であることは明らかです。ところで現状は,例えば国際化・情報化・少子高齢化といった変動に直面して,人はこれからどう生きていけばいいのかという対応に苦慮しています。追い掛けられているから,先行きを考える暇がありません。そこで一度立ち止まって,人は何を求めて情報化を実現してきたのか,考える必要があります。何を目指しているのかを自己確認しなければ,社会活動は目標を見失います。

 ともあれ,社会教育委員は社会教育のなんたるかを再構築する時機にあると思われます。というより,新しい社会教育を構築するときであると認識した方がいいのかもしれません。その手始めとして,これまでがどうであったということから視点を逆転し,明日を見る視点が求められます。振り出しに戻りますが,社会教育は夢や希望を語り始めるべきと考えています。(この稿は改めて続けていかなければなりません)。
(2006年05月22日)