*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【いじめとは(その2)?】


 今年度の社会教育委員と教育委員の合同会議では,主に「いじめ問題に対する対応のあり方」について意見交換が行われました。協議に先立ち,教育委員サイドからいじめ問題に関する大局的なデータの提示がありました。幸い管轄下の学校では,重大な事態に至っている事例はないという現状判断がなされているようです。それぞれいじめに対する考え方を自由に表明しましたが,1時間少々の中では論議を展開するまでには至りませんでした。ここで,協議の続きを考えておくことにします。自分の中である程度の区切りを付けておきたいからです。

※合同会議での協議の中での発言
  ・早期発見,早期対処といわれるが,信頼関係が先決
  ・報道の行き過ぎがあるのでは?
  ・学校だけではなく,社会全体の取り組みが必要
  ・学校では一人一人に向き合う時間を確保
  ・子どもの保護は家庭が基本という認識を(十分な対話など)
  ・地域で話を聞いてやれる人が(親には話せないことでも)
  ・「バカ,死ね,ウザイ,キモイ」が日常化している異常さ
  ・トラブルを克服することは育ちのステップ
  ・中学2年生ごろが自尊心の芽生えで,傷つきやすい
 子どもの育ちにはいろんな要素が絡んでいて,それぞれが少しずつ不足している結果として悲劇が発生します。子どもの周りにいる大人たちが,それぞれの立場の中で自分に何が欠けていたかをきっちりと反省することが,環境改善の第一歩になるはずです。他を責めることからは何も生まれてきません。生むのは自分でしかないからです。その点で,これらの発言はいろんな面での自己反省になっています。

 会議の後日,いじめについて,テレビでアメリカの学校での取組を放映している番組がありました。概略は以下の通りでした。
(1) 子どもたちからアンケートをとって,いじめの実体を親に理解させる。
(2) 休み時間など,要所に先生が立って子どもたちを見守る。
(3) 授業でも,いわれた悪口をいいながら皿を金槌で殴らせる。
  割れた皿が心であることを教える。
(4) 孤立する子どもに,話しかけるように子どもたちを指導する。
(5) これがいじめという具体的な事例を掲示やビデオ映像として示す。
(6) 対処法をルールとして明示する。
(7) その経過を調査して次につなぐ。

 外国でもいじめは大きな問題と認識されているようです。同じ文明を享受している社会であるということを考えると,文明病ということができます。人間関係は文化が関わることであるという認識は,文明化が各国の文化を浸食して,人間関係を中心とした育ちができなくなり,機械的関係に変質しているという時代の流れの中で通用しなくなっているものと思われます。人が生きていく文化の再構築が最終の課題となります。

 人間関係の基本は思いやりです。相手の立場を理解する能力がなければ,関係は一方的になります。いじめはまさに一方的な関係の表象です。相手が嫌がっていることを感じない鈍感さは,社会生活をする上で大事な資質の欠陥です。その意味でいじめの加害者は不幸の種を抱えていることになり,早期の対処を必要としています。いじめの被害者を守ることと同時に,加害者の矯正が不可欠です。

 具体的な対応として,いじめを完全に根絶することに固執することは現実的ではありません。いじめを恐れる管理は過度になり和やかな関係を封鎖することにつながります。本当にちょっとしたふざけさえもいじめとして糾弾されることになれば,気を許した人づきあいはできなくなります。一方で,いじめであるかどうかは当事者の感覚によって判定されるという曖昧な部分があるということからも,厳密な対処は困難となります。
 いじめは起こるものと想定して,それが行き過ぎないように加害者側に歯止めを掛けると同時に,被害者側の痛みを和らげる対処の方策を環境に整えておくことが大切です。子ども社会とその周りの養育環境において,予防と対策の二重構造を作っておかなければなりません。

 大人たちが子どもの育ちをどのように支えたらいいのか,そのことは「子育て羅針盤」というメルマガで既に数年にわたって述べています。ことさらいじめ対策として特別にしなければならないことはありません。もし関心のある方がおられたら,メルマガをご購読ください。

(2006年12月29日)