*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【社会教育への回帰?】

 県社会教育委員連絡協議会の年度末の理事会に出席した折のことです。会議の終わりに,事務局である県の生涯学習課よりアナウンスがありました。来年度より生涯学習課が社会教育課になるということです。生涯学習については知事部局に担当する係が新設されるそうです。係の名称に生涯学習の言葉は表立たないようです。社会教育課が生涯学習課に看板を変えて、何年過ぎたのでしょう。元に戻ってしまいました。市町の段階でも同じことが起こっています。
 社会教育行政に生涯学習を担わせるという発想は,当初から腑に落ちないと思っていました。県における回帰については,「生涯学習行政は主張部局で担うもの」という理由が述べられました。そんなことは自明であったことです。いまさら,その言を聞こうとは思っていませんでした。行政機構上無理があるのに,時代の雰囲気であったイメージを優先したつもりだったのでしょうが,ミスマッチがようやく現実に表面化してきたのでしょう。
 社会教育は長い歴史を持っています。法整備も完結し,行政システムも細部に至るまで社会教育の推進にふさわしい形に整えられていました。もちろん,時代の変化に沿った改正等は必要ではあるのですが,社会教育に特化されたシステムです。そこに後発の生涯学習という概念をかぶせることは暴挙でした。仮に生涯学習法という法律が制定されて,同時に行政機構の整備が成されるのであれば,それは社会教育と相補的な生涯学習システムになるものであり,社会教育システムが決して肩代わりできるものではありません。
 生涯学習は「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」といった法律等によるバックアップしかない曖昧なものです。例えば,社会教育委員に比肩する生涯学習委員といった人的な配置もなされていません。ましてや,社会教育委員が生涯学習を担うという規定もありません。
 さらには,生涯学習という理念は網羅的であり,つかみ所がなくて,そのことが具体的な活動を限定しづらくしています。あらゆる学習活動すべてが生涯学習という考え方もあるとすれば,それは限定されていないことになり,生涯学習という言葉は意味を失います。それは生涯にわたって学習するという時間軸上の状態を表しているだけになります。言葉は限定された理念に結びつけられてはじめて,理解されるものだからです。曖昧な理念だからこそ,生涯学習は主張部局で担うものという大まかな落としどころに向かわざるを得なくなっています。
 もっとも,社会教育についてもその中身に対する限定化はなされていない感があります。学校教育以外の教育が社会教育という定義では,つかみ所がありません。教育活動を空間軸上で区分した程度のことです。社会教育とは何かということがつかめなくて,委員は苦労しているという現実があります。そのことは脇に置いておきましょう。
 生涯学習の推進については、社会教育はその主たる任にはないということを,改めて確認することが必要な時期に入ったようです。社会教育はこれまでの流れを見失うことなく,自らの使命を全うすることが求められています。そうすることが,ひいては生涯学習が何かということを明らかにするはずです。
 生涯学習に対する認識が浅はかであるために,単なる素人の思い込みに過ぎないという自覚は持っていますが,普通人としての印象をとりあえずは書き留めておくことにします。
(2008年03月14日)