*****《ある町の社会教育委員のメモ》*****

【委員としての気配り?】

 行政や学校などの公的な機関が催す事業や会合には,関係の委員が招かれて出席します。社会教育委員にもそのような機会があります。そのようなときに,気になる光景に出会うことがあります。それは,その場に相応しくないおしゃべりが密やかではなく聞こえてくることです。事の進行に関心を向けずに,傍若無人にさえ思われます。周りの人は,「あの人は何?」というささやきを交わしています。
 自分が何のためにその場にいるのかを弁えず,委員という公的な役職を背に担っているという意識が見えてきません。お手本となる佇まいを示すことが期待されているのに,招かざる振る舞いをしていることに気付かない無頓着さは,噴飯ものです。君子の振る舞いを要求しているのではなく,昔流にいえば紳士淑女らしく振る舞ってほしいものです。
 自分の出番ではないときには,その場の成り行きを見届けることが期待されています。招待されている,出席を請われているということは,そういうことです。出席の後には,お礼の言葉を受けます。その場に居合わせて,参加していただいたことへのお礼です。自分の世界に入って,聞いていなかったというのでは,お礼の言葉を受け取ることができません。
 聞いてもどうしようもないと思っているのかもしれませんが,主催者側からは聞いていただくことを願っているはずです。その思いを受け止めることは,公的立場としての責任でもあります。そこまで大げさに考えなくてもというのなら,大人しくして場を乱さないことが最低限の礼儀でしょう。
 公的な委員とは,どこにいても見られています。見られていることを意識しておかないと,委員という公的な立場に対する信頼を損ないます。選ばれているという選良意識をことさらに持つ必要はありませんが,周りからはそれらしい立ち居振る舞いを期待されているということです。眉を潜められるようなことはしないことです。
 車の往来が少ない交差点の横断歩道で,赤信号を渡ってしまうことがあります。ただの人ならできたのに,何らかの役職を帯びると,見られているかもしれないので渡れなくなるという声を聞くことがあります。身ずまいを正すことが必要になります。その心がけが信頼を招き寄せることになります。李下に冠を正さずという気配りもあります。小さな不手際が,信頼関係の土台を流すことになります。人の目の怖さです。
 気がついたら注意してやればいいのに! その通りです。周りに居合わせた心ある方がそれとなく注意をしていますが,ほんのしばらくすると,またおしゃべりです。人の言葉に導かれる善意を受け止める気がないのでしょう。傲慢な自覚なき人は,いかんともしがたいものです。影の声が流布していることを心配します。その方に止まらず,関わっている方を巻き込んでいくからです。

(2008年12月16日)