1180年(治承四年、庚子)
 
 

11月1日 己酉 天晴 [玉葉]
  伝聞、追討使維盛朝臣已下、追い帰されをはんぬ。すでに近江地に赴かんと欲するの
  間、山憎相禦ぐべきの由風聞す。仍って更に伊勢地に向かいをはんぬと。凡そ逆党の
  余勢、幾万騎を知らず。東山・東海の諸国、併せて以て與力す。官軍の勢、本五千余
  騎、追い落とさるるの間、僅かに三四百騎に過ぎずと。凡そ左右に能わず。往昔以来、
  追討使空しく追い返さるるの例、未だ曽って聞かざる事なり。今に於いては、重ねて
  相防ぐこと及ばざるか。人の悪逆に依って、上皇その余殃を懸けしむか。誠に悲しむ
  べき事なり。仏天定めて冥助有らんか。憑む所ただこればかりなり。山僧また種々の
  支度を成すと。また聞く、熊野の湛増いよいよ勝ちに乗ると。鎮西謀叛の者、また以
  て征伐すること能わず。
 

11月2日 庚戌
  今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。

[吉記]
  追討使の事、閭巷の説縦横す。但し或る者云く、権の亮駿河の国に下着の節、一国の
  勢二千余騎(目代棟梁たり)を以て、甲州に寄せしむの処、皆率入の後路を塞ぎ、樹
  下巖腹に歩兵を隠し置き、皆悉くこれを射取らしむ。異様の下人少々の外、敢えて帰
  る者無し。その後謀反の輩(頼朝か、武田か)牒状を送る。その状詳しく聞かず。件
  の子細を糺問するの後首を切らしむ(殺害の條甘心せざるの輩等有り)。その後頼朝
  襲来の由風聞す。彼等の勢巨万、追討使の勢敵対すべからず。仍って引き返さんと欲
  するの間、手越の宿館に於いて失火出来す(扈従者の中、坂東の輩等これを放つと)。
  上下魂を失うの間、或いは甲冑を棄て、或いは乗馬を知らず逃げ帰りをはんぬ。これ
  則ち東国勢江州より皆悉く付くべきの由、兼ねて支度の処、敢えて付かず。或いはそ
  の身は参ると雖も、伴類眷属は猶伴わず。或いは形勢に随い逆徒等に随う。いよいよ
  官軍弱きの由を見て、各々逐電す。残る所纔に京下の輩なり。世以て遂帰の由を称す。
  古今追討使を遣わすの時、未だこの例を聞かず。尤も悲しむべき事なり。


11月4日 壬子
  武衛常陸の国府に着き給う。佐竹は権威境外に及び、郎従国中に満つ。然れば楚忽の
  儀莫く、熟々計策有って、誅罰を加えらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平以下宿
  老の類、群儀を凝らす。先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総の介廣常を
  遣わす。案内せらるの処、太郎義政は、即ち参るべきの由を申す。冠者秀義は、その
  従兵義政を軼す。また父四郎隆義は平家方に在り。旁々思慮在って、左右無く参上す
  べからずと称し、常陸の国金砂城に引き込もる。然れども義政は、廣常が誘引に依っ
  て、大矢橋の辺に参るの間、武衛件の家人等を外に退け、その主一人を橋の中央に招
  き、廣常をしてこれを誅せしむ。太だ速やかなり。従軍或いは傾首帰伏し、或いは戦
  足逃走す。その後秀義を攻撃せんが為、軍兵を遣わさる。所謂下河邊庄司行平・同四
  郎政義・土肥の次郎實平・和田の太郎義盛・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同
  三郎盛綱・熊谷の次郎直實・平山武者所季重以下の輩なり。数千の強兵を相率い競い
  至る。佐竹の冠者金砂に於いて城壁を築き、要害を固む。兼ねて以て防戦の儀を構え、
  敢えて心を揺さず。干戈を動かし矢石を発つ。彼の城郭は高嶺に構うなり。御方の軍
  兵は麓の渓谷を進む。故に両方の在所、すでに天地の如し。然る間、城より飛び来た
  る矢石、多く以て御方の壮士に中たる。御方より射る所の矢は、太だ山岳の上に覃び
  難し。また岩石路を塞ぎ、人馬共に行歩を失う。茲に因って軍士徒に心府を費やし兵
  法に迷う。然りと雖も退却すること能わず。なまじいに以て箭を挟み相窺うの間、日
  すでに西に入り、月また東に出ると。

[玉葉]
  伝聞、追討使伊勢に向かわず。ただ忠清ばかり伊勢に赴きをはんぬ。他人入京すべし
  と。
 

11月5日 癸丑
  寅の刻、實平・宗遠等、使者を武衛に進す。申して云く、佐竹が構う所の寨、人力の
  敗るべきに非ず。その内籠もる所の兵は、また一を以て千に当たらずと云うこと莫し。
  能く賢慮を廻さるべしてえり。これに依って老軍等の意見を召さるるに及ぶ。廣常申
  して云く、秀義が叔父佐竹蔵人と云う者有り。知謀人に勝れ、欲心世に越えるなり。
  賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うるかてえり。これに依っ
  てその儀を許容せしめ給う。然れば則ち廣常を侍中の許に遣わさる。侍中廣常の来臨
  を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。廣常云く、近日東国の親疎、武衛に帰往し奉ら
  ずと云うこと莫し。而るに秀義主独り怨敵たり。太だ拠所無き事なり。骨肉と雖も客
  何ぞ彼の不義に與せしめんや。早く武衛に参り、秀義を討ち取り、件の遺跡を領掌せ
  しむべしてえり。侍中忽ち和順す。本より案内者たるの間、廣常を相具し、金砂の城
  の後に廻り、時の声を作す。その声殆ど城郭に響く。これ図らざる所なり。仍って秀
  義及び郎従等防禦の術を忘れ、周章横行す。廣常いよいよ力を得て、攻戦するの間、
  逃亡すと。秀義跡を暗ますと。

[玉葉]
  伝聞、前の将軍宗盛、遷都有るべきの由、禅門に示すと。承引せざるの間、口論に及
  ぶ。人以て耳を驚かすと。また伝聞、追討使等、今日晩景に及び入京す。知度先ず入
  る。僅か二十余騎。維盛追って入る。また十騎を過ぎずと。先ず去る月十六日、駿河
  の国高橋の宿に着く。これより先、彼の国目代及び有勢武勇の輩三千余騎、甲斐武田
  城に寄せるの間、皆悉く伐ち取られをはんぬ。目代以下八十余人頸を切り路頭に懸く
  と。同十七日朝、武田方より使者(消息を相副う)を以て、維盛の館に送る。その状
  に云く、年来見参の志有りと雖も、今にその思いを遂げず。幸い宣旨使として御下向
  有り。須く参上すべしと雖も、程遠く(一日を隔つと)路峻しく輙く参り難し。また
  渡御煩い有るべし。仍って浮島原(甲斐と駿河の間の広野と)に於いて、相互に行き
  向かい、見参を遂げんと欲すと。忠清これを見て大いに怒り、使者二人頸を切りをは
  んぬ。同十八日、富士川の辺に仮屋を構う。明暁十九日寄せ攻むべきの支度なり。而
  るの間、官軍の勢を計るの処、彼是相並び四千余騎、平常の陣議定めを作しすでにを
  はんぬ。各々休息の間、官兵方数百騎、忽ち以て降落し、敵軍の城に向かいをはんぬ。
  拘留に力無く、残る所の勢、僅か一二千騎に及ばず。武田方四万騎と。敵対に及ぶべ
  からざるに依って、竊に以て引退す。これ則ち忠清の謀略なり。維盛に於いては、敢
  えて引退すべきの心無しと。而るに忠清次第の理を立て再三教訓す。士卒の輩多く以
  てこれに同ず。仍って黙止すること能わず。京洛に赴くより以来、軍兵の気力、併し
  ながら以て衰損し、適々残る所の輩過半逐電す。凡そ事の次第直なる事に非ずと。今
  日勢多に着き、先ず使者(馬の允満孝)を以て子細を禅門に示す。禅門大いに怒りて
  云く、追討使を承るの日、命を君に奉りをはんぬ。縦え骸を敵軍に曝すと雖も、豈耻
  と為さんや。未だ追討使を承るの勇士、徒に帰路に赴く事を聞かず。もし京洛に入ら
  ば、誰人か合眼すべきや。不覚の耻を家に貽し、尾籠の名を世に留むるか。早く路よ
  り趾を暗ますべきなり。更に入京すべからずと。然れども竊に入洛し、検非違使忠綱
  の宅に寄宿すと。知度に於いては、先ず以て入洛し、禅門の八條の家に在りと。大略
  伝説を以てこれを記す。定めて遺漏有るか。但しこれ軍陣に供奉するの輩の説なり。
 

11月6日 甲寅
  丑の刻、廣常秀義逃亡の跡に入り、城壁を焼き払う。その後軍兵等を方々の道路に分
  ち遣わす。秀義主を捜し求むるの処、深山に入り、奥州花園城に赴くの由風聞すと。

[玉葉]
  福原より或る人示し送りて云く、重ねて追討使を遣わすべし。教盛・経盛等の子息と。
  豈事の要に叶うや。世上の嘲り、ただこの事に在りと。

[吉記]
  大理を以て仰せられて云く、関東の事美濃の国に居住する源氏等に仰せ、且つは要害
  を守護し、且つは追討せしむべきの由仰せ遣わすべし。予申して云く、交名を承り宣
  旨状に載すべきか。
 

11月7日 乙卯
  廣常以下士卒、御旅館に帰参す。合戦の次第及び秀義逐電・城郭放火等の事を申す。
  軍兵の中、熊谷の次郎直實・平山武者所季重殊に勲功有り。所々に於いて先登に進む。
  先登し更に身命を顧みず、多く凶徒の首を獲る。仍ってその賞傍輩に抽んずべきの旨、
  直に仰せ下さると。また佐竹蔵人参上し、門下に候すべきの由望み申す。即ち許容せ
  しめ給う。功有るが故なり。今日、志太三郎先生義廣・十郎蔵人行家等、国府に参り
  謁し申すと。
 

11月8日 丙辰
  秀義が領所常陸の国奥七郡並びに太田・糟田・酒出等の所々を収公せられ、軍士の勲
  功の賞に宛て行わると。また逃亡する所の佐竹の家人十許輩出来するの由、風聞する
  の間、廣常・義盛をして生虜らしめ、皆庭中に召し出さる。もし害心を挟むべきの族、
  その中に有るや否や。その顔色を覧て、度らしめ給うの処、紺直垂の上下を着すの男、
  頻りに面を垂れ落涙するの間、由緒を問わしめ給う。故佐竹の事を思うに依って、頚
  を継ぐに拠所無きの由を申すと。仰せに曰く、所存有らば、彼の誅伏の刻、何ぞ命を
  棄てざるかてえり。答え申して云く、彼の時は、家人等その橋の上に参らず、ただ主
  人一身召し出され、梟首の間、後日の事を存じ逐電す。而るに今参上すること、精兵
  の本意に非ずと雖も、相構えて拝謁の次いでを伺い、申すべき事有るが故なりと。重
  ねてその旨を尋ね給う。申して云く、平家追討の計りを閣き、御一族を亡ぼさるるの
  條、太だ不可なり。国敵に於いては、天下の勇士一揆の力を合わせ奉るべし。而るに
  誤り無き一門を誅せられば、御身上の讎敵、誰人に仰せて退治せらるべきや。将又子
  孫の守護は何人たるべきや。この事能く御案を廻さるべし。当時の如きは、諸人ただ
  怖畏を成し、真実帰往の志有るべからず。定めてまた誹りを後代に貽さるべきものか
  と。仰せらるの旨無く入らしめ給う。廣常申して云く、件の男謀反を存ずるの條、そ
  の疑い無し。早く誅せらるべきの由と。然るべからざるの旨仰せ宥めらる。剰え家人
  に列す。岩瀬の與一太郎と号すはこれなりと。今日武衛鎌倉に赴き給う。便路を以て
  小栗の十郎重成が小栗の御厨八田館に入御すと。

[玉葉]
  伝聞、還都有るべきの由、山僧等に仰せらると雖も、忽ち然るべからず。大略誘い仰
  せらるの體なり。始終叶うべからざる事か。また前の大将並びに教盛卿等、自ら赴く
  べしと。凡そ遠江以東十五ヶ国與力し、草木に至るまで靡かざるは莫しと。

[吉記]
  追討の間の事宣旨。今日左大将に下すの処、空しくこれを返せらる。未だ由緒を知ら
  ず。仍って師大納言に宣下しをはんぬ。今日復日なり。仍って昨日の日を書くなり。
   治承四年十一月七日 宣旨
   伊豆の国流人源の頼朝、早くも野心を挟み、朝威を軽忽し、人民を劫略し、州縣を
   抄掠す。縡希夷に入るの間、誅伐を加えんと欲するの処、甲斐の国住人源の信義猥
   りに雷同を成し、すでに月諸を送る。各々魚鱗鶴翼の陣を結び、旁々星旄電戟の威
   を輝かす。茲に因って赳々の輩、往々募りに赴く。逆謀の甚だしきこと、古今未だ
   聞かず。啻に丁壮の軍旅に苦しむに非ず。兼ねて老弱の転漕を罷るに有り。細民の
   愚・衆庶の賤、鳳衙の炳誡を顧みず、自ら梟悪の勧誘に従うか。此と云い彼と云い、
   責めて余り有り。仍ってその凶党を払わんが為、追討使を遣わす所なり。東海・東
   山・北陸等の道、強弱を論ぜず、老少を謂わず、表裏力を勠し、逆賊を討たしめよ。
   就中美濃の国勇武伝家の者、弓馬長芸の輩、多くその聞こえ有り。尤も採用に足る。
   殊に彼等に仰せ、その辺境の要害を塞ぎ、通関の防御に備えしめよ。便ち憂国の貞
   心を励まし、忘身の接戦を致すべし。兼ねて又偏列の間、卒伍の中、その雅懐に非
   ず、凶悪に従い與す。この旨を熟察し、反善を悔過せよ。率土は皆皇民なり。普天
   は悉く王者なり。絲綸の旨誰か随順せざらん。若しくは夫れ執鋭不撓有り。臨時の
   功を立てば、その勤節を馬汗に量り、以て不翅の鴻賞を賜わん。宣を遐邇に布告す。
   詳らかに委曲を知らしめよ。
                    蔵人左中弁藤原経房奉る
 

11月9日 丁巳 霽 [吉記]
  早旦静賢法印来臨す。偏に世事を歎く。関東の事、今に於いては、故京に帰り沙汰有
  るの外、難治の由これを談る。逆徒すでに参河・遠江等に及び、神社・仏寺・権門領
  等、所当を失うべからざるの由沙汰す。偏に世間の無道を破りこの儀を存ずと。
 

11月10日 戊午
  武蔵の国丸子庄を以て葛西の三郎清重に賜う。今夜彼の宅に御止宿。清重妻女をして
  御膳を備えしむ。但しその実を申さず。御結構に入らんが為、他所より青女を招く所
  の由言上すと。
 

11月12日 庚申
  武蔵の国に到り、萩野の五郎俊重斬罪せらる。日者御共に候す。その功有るに似たり
  と雖も、石橋合戦の時、景親に同意せしめ、殊に無道を現すの間、今先非を糺されず
  んば、後輩を懲らし難きに依って此の如しと。

[玉葉]
  伝聞、関東の逆党、すでに美乃の国に来たり及ぶと。仍って先ず美乃源氏を伐たんが
  為、禅門私の郎従等を遣わす。その後追討使を遣わさるべしと。
 

11月14日 壬戌
  土肥の次郎實平武蔵の国内の寺社に向かう。これ諸人清浄の地に乱入し、狼藉を致す
  の由訴え有るに依って、停止せしむべきの旨、下知を加うが故なり。
 

11月15日 癸亥
  武蔵の国威光寺は、源家数代の御祈祷所たるに依って、院主僧増圓相承るの僧坊寺領、
  元の如くこれを免じ奉らると。

[吉記]
  山の大衆使参上す。山門の訴えに依って、帰都一定の由所司に仰せ含められをはんぬ。
  これ行隆の奉行なり。
 

11月17日 乙丑
  鎌倉に還着せしめ給う。今日、曽我の太郎祐信厚免を蒙る。また和田の小太郎義盛侍
  所別当に補す。これ去る八月石橋合戦の後、安房の国に赴かしめ給うの時、御安否未
  定の処、義盛この職を望み申すの間、御許諾有り。仍って今日上首を閣き仰せらると。

[玉葉]
  伝聞、美濃の源氏等、皆悉く凶族等に與力し、美濃・尾張両国併せて伐り取りをはん
  ぬと。また聞く、熊野権の別当湛増、その息僧を進せしむ。仍って宥免有りと。また
  鎮西の賊(菊池権の守)、指せる故無く恩免すと。関東これ等の子細を聞かば、いよ
  いよ武勇の柔弱を察すか。

[平家物語]
  頭中将重衡朝臣を大将軍にて、一千余騎の軍兵を卒して、三井寺へ発向す。衆徒防ぎ
  戦ふといへども、何事かはあるべき。三百余人討れにけり。残る所の大衆こらへずし
  ておちにけり。
 

11月19日 丁卯
  武蔵の国長尾寺は、武衛舎弟禅師全成に避け奉らる。仍って今日本坊に安堵せしむ。
  例に任せ祈祷の忠を抽んずべきの由、仰せ付けられんが為、住侶等を召し出す。所謂
  慈教坊僧圓・慈音坊観海・法乗坊辨朗等なり。

[玉葉]
  伝聞、還都、来二十六日御出門、来月二日御入洛有るべきの由仰せらる。延暦寺衆徒
  大悦し、種々の御祈り等を始むと。或る人云く、東乱近江の国に及ぶと。
 

11月20日 戊辰
  大庭の平太景義右馬の允義常が子息を相具し参上し、厚免を望む。これ景義が外甥な
  り。仍って暫く預け置くべきの由仰せらる。義常が遺領の内松田郷、景義拝領すと。

[吉記]
  蔵人弁の許より、出納国貞を以て示し送りて云く、還都一定なり。来二十三日前の大
  納言宇治河の亭に行幸す。二十四日寺江に渡御す。二十五日木津殿に渡御す。二十六
  日御入洛有るべし。皇居五條内裏なり。その旨を存じ申し沙汰すべきの由仰せ有りて
  えり。即ち官外記に仰せ、旁々沙汰を致せしむと。
 

11月21日 己巳 天晴 [玉葉]
  閭巷に云く、近江の国また以て逆賊に属きをはんぬ。前の幕下の郎従、伊勢の国に下
  向するの間、勢多及び野地等の辺に於いて、昨今両日の間、十余人梟首しをはんぬ。
  その中に飛騨の守景家(彼の家後見、有勢武勇の者なり)が姪男有り。伐たれをはん
  ぬと。伊賀入道(年来彼の国に住む。源氏の一族と)、並びに山下兵衛の尉(同源氏
  と)等張本たりと。未の刻、福原より人告げて云く、還都縮められをはんぬ。来二十
  三日出門、二十四日寺江に着き、二十五日木津殿に着き、二十六日御入洛、必定しを
  はんぬと。愚案、もし還都有るべくんば、日来の間、早々有るべきなり。官軍を以て
  近江・伊勢両国に於いて相禦ぐべきなり。而るに一切追討使の沙汰無し。敵軍すでに
  隣国に充満するの刻、忽ち以て還都す。豈物議に叶うや。

[平家物語]
  遷都といふ事は、太政入道計ひいたされたりけれども、諸寺諸山の訴へ、貴賤上下の
  歎きなる上、山門の衆徒三箇度まで奏状を捧て、天廰を驚かし奉る。是に依て俄に都
  帰有べしと聞えければ、高きも賤しきも手をすり額をつきよろこびあへり。
 

11月22日 庚午 天陰雨下る [玉葉]
  伝聞、関東より一院第三親王(伐害せらるなり)の宣と称し、清盛法師を誅伐すべし。
  東海・東山・北陸道等の武士、與力すべきの由、彼の国々に付す。また三井寺衆徒に
  給うと。その状、前の伊豆の守仲綱奉ると。これ等疑詐偽事か。

[平家物語]
  新院福原を出御有て、旧き都へ御幸なる。
 

11月23日 辛未 晴、夜に入り雨下る [玉葉]
  申の刻人伝えに云く、去る夜、手嶋蔵人某(元三條宮に祇候す。近年禅門並びに幕下
  の辺に夙夜す)福原の人宅に放火す。逐電し東国に向かいをはんぬと。また聞く、近
  江の国併せて一統しをはんぬ。水海東西の船等、悉く東岸に付く。また雑船筏等を以
  て、勢多に浮橋を渡しをはんぬ。凡そ北陸道の運上物、悉く以て点取しをはんぬ。大
  津の辺の人家騒逃す。凡そ鼓動極まり無しと。三宮遠江橋下の宿に御坐す。頼朝等美
  濃・尾張の境に在り。先ず美濃・近江等の国人の勢を以て、大津及び山科の辺に推し
  入るべし。三井寺を以て先陣とすべし。形に随い法勝寺、及び大内等に寄宿すべしと。
  今に於いては、勿論猶以て追討使の沙汰無し。福原の辺人気色自若、敢えて驚きの色
  無し。偏に以て酔郷たり。適々所在の武士、この両三日の間追討使の事に出立せんが
  為、各々身の暇を賜り本国に下向す。福原の勢僅かに二千騎と。大略運報尽きをはん
  ぬ期か。新院御悩危急と。伝聞、山と三井寺と闘諍有り。その事に依って延暦寺園城
  寺を焼くべしと。後聞、宮・頼朝等駿河の国に在りと。宮ハ不審の物なり。

[吉記]
  今夕還都有るべきに依って御出門たり。前の大納言邦綱卿宇治の新亭(この都に幸す
  の後新造する華亭なり。土木未だ功を終えず。近日不日に沙汰すと)に行幸す。
 

11月24日 壬申 天晴 [玉葉]
  伝聞、還都必定しをはんぬ。昨日御出門。今日寺江に着御す。明日木津殿に渡御し、
  明後日早旦御入洛と。近江の騒動に依って、還都猶予有るべきの由、その議出来すと
  雖も猶一定しをはんぬ。法皇・禅門同じく上洛有るべし。一人も福原に残るべからず
  と。

[吉記]
  辰の刻出御有り。上皇同じく御進発(行幸以前なり)。御車に駕せしめ給う。法皇早
  旦御進発(御輿)。行幸並びに御幸、申の斜めに前の大納言(邦綱)の寺江亭(主上
  ・上皇御所各別、法皇御舟を以て御宿所たり)に着御す。
 

11月25日 癸酉 天晴風吹く [玉葉]
  今夕行幸・御幸、共に木津殿に着御すと。伝聞、近江の勢幾ばくも非ずと。また北陸
  道頗る反気有りと。

[平家物語]
  主上は五條の内裏へ行幸なる。両院六波羅池殿へ還幸。平家の人々太政入道以下皆か
  へり上らる。まして他家の人々は一人も留らず。古京へ帰るうれしさに、取る物も取
  あへず、資財、雑具を運び返すに及ばず。
 

11月26日 甲戌
  山内瀧口の三郎経俊斬罪に処せらるべきの由、内々その沙汰有り。彼の老母(武衛御
  乳母なり)これを聞き、愛息の命を救わんが為、泣いて参上す。申して云く、資通入
  道八幡殿に仕え、廷尉禅室の御乳母たり以降、代々の間、微忠を源家に竭すこと、勝
  計うべからず。就中俊通、平治の戦場に望み、骸を六條河原に曝しをはんぬ。而るに
  経俊景親に與せしむの條、その科責めて余り有りと雖も、これ一旦平家の後聞を憚る
  所なり。凡そ軍陣を石橋の辺に張るの者、多く恩赦に預からんか。経俊また盍ぞ曩時
  の功に優ぜられんやてえり。武衛殊なる御旨無く、預け置く所の鎧を進すべきの由、
  實平に仰せらる。實平これを持参す。唐櫃の蓋を開きこれを取り出し、山内の尼の前
  に置く。これ石橋合戦の日、経俊が箭この御鎧の袖に立つ所なり。件の箭巻口の上に、
  瀧口の三郎藤原の経俊と注す。この文字の際よりその篦を切り、御鎧の袖に立てなが
  ら今にこれを置かる。太だ以て掲焉なり。仍って直に読み聞かしめ給う。尼重ねて子
  細を申すこと能わず。双涙を拭い退出す。兼ねて後事を鑑み給うに依って、この箭を
  残さると。経俊が罪科に於いては、刑法に遁れ難きと雖も、老母の悲歎に優じ、先祖
  の労効に募り、忽ち梟罪を宥めらると。

[玉葉]
  早旦人告げて云く、昨日大風の間、雑船多く以て海に入る。仍って木津殿に着御せず、
  三嶋江の辺に御逗留。今日夜に入り入御有るべしと。(中略)日未だ西山に沈まず。
  五條の第(邦綱卿家)に着御す。供奉の公卿、成範・時忠等ばかりなり。(略)院夜
  に入り御入洛。頼盛卿六波羅の第(池殿と号す)に御す。法皇未の刻ばかりに入洛。
  故内大臣六波羅の第(泉殿と号す)に御す。武士数十騎、路の間囲繞し奉ると。去る
  六月二日、忽然として都を摂州福原の別業に遷す。神福を降らさず。人皆禍を称す。
  彼の不可に依って、この災異に到る。所謂天変地夭の難・旱水風虫の損・厳神霊社の
  怪・関東鎮西の乱等これなり。而るに神明三宝の冥助に依って、今この還都有り。一
  天の下・四海の中、王侯・卿相・緇素・貧賤・道俗・男女・老少・都鄙、歓娯せざる
  と云うこと莫し。この事誠にこれ衆庶の怨みを散じ、萬民の望みに協うものなり。抑
  も禅門相国、忽ち忠心の懇意を変え、聖主仙院、各々上都の宮闕に帰る。人悦色有り
  と雖も、世還って奇思を成すか。但し云々の説の如きは、條々の由緒有るか。先ず関
  東の謀反、縡遷都より起こる。云く、何者、法皇を禁囚し、重臣を刑罰し、洛都を狭
  少の地に占め、民人莫大の愁いを懐く。皆名を勅宣に仮ると雖も、その実ただ雅意に
  任す。これ等の子細、逆心すでに炳焉たり。早く遠境の間に達し、各近国の兵を集め、
  平家の盛勢を伐ち亡ぼし、源氏の絶跡を起こさんと欲すと。これ則ち去る歳僭上の咎、
  今年遷都の徴なり。君主もし帝都に帰らば、賊徒何ぞ民烟を亡ぼさんや(是一)。次
  いで台獄の衆徒、度々の奏状を上し、面々の鬱憤を達す。(略)申す所理無きに非ず。
  尤もこれ裁許すべし(是二)。次いで新院の御悩、日を逐って増有り。辺土の行宮に
  於いて、もし大漸の事出来せば、終身の恨みを遺さんと欲す。枉げて帰都有るべきの
  由、院宣再三に及ぶ(是三)。次いで禅門深く積悪の重きを悔やみ、神明の心を蕩わ
  んが為、この儀出来すと(是四)。此の如き等の由来に依って、忽ち不慮の還都、こ
  れ天下の謳歌する所、強ち浮言に非ざらか。仍ってほぼ子細を録すのみ。
 

11月28日 丙子 天晴 [玉葉]
  伝聞、来月二日追討使を江州に遣わすべしと。また若狭の国(経盛卿吏務を掌る)有
  勢の在廰、近州に與力しをはんぬと。
 

11月29日 丁丑 天晴 [玉葉]
  夜に入り人伝えに、近江の国の武士数千騎、今日申の刻ばかりより三井寺に打ち入る
  と。この事に依って、六波羅・八條等の辺、武士騒動し、京中物騒極まり無しと。

[吉記]
  昏に臨み風聞に云く、近江の国の賊徒すでに勢多を越えをはんぬ。或いは三井寺に籠
  もると。京中騒動すと雖も、官軍未だ発向せず。入道相国今日入洛すと。
 

11月30日 戊寅 陰晴定まらず [玉葉]
  伝聞。昨日の近州の武士等数萬に及ばず。ただ船六艘を西岸に着け、少々寺中に打ち
  入る。僧徒等子細を問うに、船を点定せんが為に来るの由を返答す。人伝えに云く、
  甲賀の入道左右無く打ち入らんと欲するの処に、甲斐の武田人を送りて云く、暫く攻
  め寄すべからず。我行き向かうべし、侍具して寄せるべきなり。無勢にて追い帰され
  らば、後悔あるべしと。仍って彼を相具せんが為に遅々すと。甲賀の入道と謂うは義
  兼法師なり。刑部の丞義光の末葉たり。