1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
 

10月2日 辛亥 天晴 [玉葉]
  去々年山に遣わすの書籍等、今日これを召し寄す。参河の国司範頼牛頭を与う。
 

10月3日 壬子
  南御堂供養の間、導師・請僧等の布施、諸方の進物、且つはこれを覧玉う。その間の
  事左馬の頭に談合せしめ給う。また御分並びに布施取り等の為、装束二十余具京都よ
  り召し下さる。義勝房これを相具し、去る夜参着す。仍って今日所役の人々に支配せ
  らると。因幡の前司・筑後権の守等これを奉行す。

10月6日 乙卯
  梶原源太左衛門の尉景季京都より帰参す。御前に於いて申して云く、伊豫の守の亭に
  参向し、御使の由を申すの処、違例と称し対面無し。仍ってこの密事以て伝うること
  能わず、旅宿(六條油小路)に帰る。一両日を相隔てまた参らしむの時、脇足に懸か
  りながら相逢われる。その躰誠に以て憔悴、灸数箇所に有り。而るに試みに行家追討
  の事を達するの処、報ぜられて云く、所労更に偽らず。義経の思う所は、縦え強竊の
  如き犯人たりと雖も、直にこれを糺し行わんと欲す。況や行家が事に於いてをや。彼
  は他家に非ず。同じく六孫王の余苗として弓馬を掌り、直なる人に准え難し。家人等
  ばかりを遣わしては、輙くこれを降伏し難し。然かれば早く療治を加え平癒の後、計
  を廻らすべきの趣披露すべきの由と。てえれば、二品仰せて曰く、行家に同意するの
  間、虚病を構うの條、すでに以て露顕すと。景時これを承り、申して云く、初日参る
  の時面拝を遂げず。一両日を隔てるの後見参有り。これを以て事情を案ずるに、一日
  食さず一夜眠らずんば、その身必ず悴ゆ。灸は何箇所と雖も、一瞬の程にこれを加う
  べし。況や日数を歴るに於いてをや。然れば一両日中、然る如きの事を相構えらるる
  か。同心の用意これ有らんか。御疑胎に及ぶべからずと。
 

10月9日 戊午
  伊豫の守義経を誅すべきの事、日来群議を凝らさる。而るに今土佐房昌俊を遣わさる。
  この追討の事、人々多く以て辞退の気有るの処、昌俊進んで領状を申すの間、殊に御
  感の仰せを蒙る。すでに進発の期に及び、御前に参り、老母並びに嬰児等下野の国に
  在り。憐愍を加えしめ御うべきの由これを申す。二品殊に諾し仰せらる。仍って下野
  の国中泉庄を賜うと。昌俊八十三騎の軍勢を相具す。三上の彌六家季(昌俊弟)、錦
  織の三郎・門眞の太郎・藍澤の二郎以下と。行程九箇日たるべきの由定めらると。
 

10月11日 庚申
  御堂の仏後壁の画図、彩色の功を終う。浄土の瑞相並びに二十五の菩薩像を図し奉る
  所なり。二品監臨し給うの処、浄土を図すの所に三日月有り。而るにこの月は、己の
  影を以て己の影を隠すと。今の画様頗る本説に叶わざるの由仰せらるるの間、画工こ
  れを改むるに能わず、則ち削ると。今日、佐々木の三郎成綱(本佐々木と号す)が本
  知行の田地、元の如く領掌すべきの旨これを書き下さる。但し佐々木太郎左衛門の尉
  定綱の所堪に従うべしと。これ一族に非ずと雖も、佐々木庄の惣管領は定綱なり。成
  綱分その内に在るが故か。
 

10月13日 壬戌
  去る十一日並びに今日、伊豫大夫判官義経潛かに仙洞に参り奏聞して云く、前の備前
  の守行家関東に向背し謀叛を企つ。その故は、その身を誅すべきの趣、鎌倉の二品卿
  命ずる所、行家の後聞に達するの間、何の過怠を以て無罪の叔父を誅すべきやの由、
  欝陶を含むに依ってなり。義経頻りに制止を加うと雖も、敢えて拘わらず。而るに義
  経また平氏の凶悪を断ち、世を静謐に属かしむ。これ盍ぞ大功ざらんか。然れども二
  品曽てその酬いを存ぜず、適々計り宛てる所の所領等、悉く以て改変す。剰え誅滅す
  べきの由、結構の聞こえ有り。その難を遁れんが為、すでに行家に同意す。この上は、
  頼朝追討の官符を賜うべし。勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと。能く行家の鬱
  憤を宥むべきの旨勅答有りと。

[玉葉]
  早旦、季長朝臣来たり申して云く、義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨
  今すでに露顕すと。巷説たりと雖も浮言に非ず。義経の辺郎従の説と。相次いで説々
  甚だ多し。頼朝義経の勲功を失い、還って遏絶の気有り。義経中心怨みを結ぶの間、
  また鎌倉の辺、郎従親族等、頼朝が為生涯を失い、宿意を結ぶの輩、漸く以て数を積
  む。彼等内々義経・行家等の許に通せしむ。しかのみならず、頼朝法皇の叡慮に乖く
  の事太だ多しと。仍って事の形勢を見て、義経竊に事の趣を奏す。頗る許容有り。仍
  って忽ちこの大事に及ぶと。或いは云く、秀衡また與力すと。子細に於いては実説定
  まらずと雖も、蜂起に於いてはすでに露顕するなり。
 

10月14日 癸亥
  院宣鎌倉に到来す。義定朝臣を遣わさるべきなり。彼の朝臣綸命に背く。二品殊に諷
  詞を加えしむべきの趣、御沙汰に及ぶと。
   当国小杉の御厨は、神宮の御領に於いて、すでに宣旨を下されをはんぬ。而るに国
   司より妨げ有るの由訴え申す所なり。尤も不便なり。早く元の如く免じ奉らるべし。
   てえれば、院宣に依って執達件の如し。
     九月二十四日          右馬の助(奉判)
   遠江の守殿

[玉葉]
  夜に入り定能卿示し送りて云く、法皇に申すの処、強ち不快の気無しと。悦びを為す。
  世上の騒動、昨今殊に甚だし。京中の諸人雑物を運ぶ。必ず近年の流例たり。悲しむ
  べしと。平氏誅伐の後、頼朝在世の間、忽ち大乱に及ぶべきの由、万人存ぜざる事か。
  苛酷の法殆ど秦の皇帝に過ぎんか。仍って親疎怨みを含むの致す所なり。
 

10月15日 甲子
  齋宮の用途進納せらるべきの由の事、並びに太神宮御領伊澤神戸・鈴母御厨・沼田御
  牧・員部神戸・田公御厨等所々、散在の武士その故無く押領する事、尋ね成敗せらる
  べき由の事、院宣到来す。両條別紙に載せらるる所なり。
 

10月16日 乙丑
  豊後の国住人臼杵の二郎惟隆・緒方の三郎惟栄等、去年合戦の間、宇佐宮の宝殿を破
  却し神宝を押し取る。これに依って配流の官符を下さると雖も、去る四日非常の赦に
  逢うと。


10月17日 丙寅
  土左房昌俊、先日関東の厳命を含むに依って、水尾谷の十郎已下六十余騎の軍士を相
  具し、伊豫大夫判官義経の六条室町亭を襲う。時に豫州方の壮士等、西河の辺に逍遙
  するの間、残留する所の家人幾ばくならずと雖も、佐藤四郎兵衛の尉忠信等を相具し、
  自ら門戸を開き、懸け出て責め戦う。行家この事を伝え聞き、後面より来たり加わり、
  相共に防戦す。仍って小時昌俊退散す。豫州の家人等、豫州の命を蒙り則ち仙洞に馳
  参す。無為の由を奏すと。

[玉葉]
  去る十一日、義経奏聞して云く、行家すでに頼朝に反きをはんぬ。制止を加うと雖も
  叶うべからず。この為如何てえり。仰せに云く、相構えて制止を加うべしてえり。同
  十三日、また申して云く、行家が謀叛制止を加うと雖も、敢えて承引せず。仍って義
  経同意しをはんぬ。その故は、身命を君に奉り、大功を成すこと再三に及ぶ。皆これ
  頼朝代官なり。殊に賞翫すべきの由存ぜしむるの処、適々恩に浴す所の伊豫の国、皆
  地頭を補し、国務に能わず。また没官の所々二十余ヶ所、先日頼朝分賜す。而るに今
  度勲功の後、皆悉く取り返し、郎従等に宛て給いをはんぬ。今に於いては、生涯全く
  以て執思すべからず。何ぞ況や郎従を遣わし、義経を誅すべきの由、慥にその告げを
  得る。遁れんと欲すと雖も叶うべからず。仍って墨俣の辺に向かい、一箭を射、死生
  を決するの由所存なりと。仰せに云く、殊に驚き思し食す。猶行家を制止すべしてえ
  り。その後無音。去る夜重ねて申して云く、猶行家に同意しをはんぬ。子細は先度言
  上す。今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨を賜わんと欲す。もし勅許無くん
  ば、身の暇を給い鎮西に向かうべしと。その気色を見るに、主上・法皇已下、臣下上
  官、皆悉く相率い下向すべきの趣なり。すでにこれ殊勝の大事なり。この上の事何様
  沙汰有るべきか。能く思量し計奏すべしてえり。(中略)
  亥の刻、人走り来たり告げて云く、北方時を作るの音有り。余これを聞く。事すでに
  実なり。(略)頼朝郎従の中、小玉党(武蔵国住人)三十余騎、中人の告げを以て義
  経の家に寄せ攻む(院の御所近辺なり)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この
  事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしをはんぬ。
 

10月18日 丁卯
  義経言上の事、勅許有るべきか否や。昨日仙洞に於いて議定有り。而るに当時義経の
  外警衛の士無し。勅許を蒙らずんば、もし濫行に及ぶの時、何者に仰せて防禦せらる
  べきや。今の難を遁れんが為、[先ず宣下し、追って子細を関東に仰せられば、二品
  定めてその憤り無きかの由治定す。仍って]宣旨を下さる。上卿左大臣経宗と。
     文治元年十月十八日   宣旨
   従二位源頼朝卿偏に武威を耀かし、すでに朝憲を忘る。宜しく前の備前の守源朝臣
   行家・左衛門の少尉同朝臣義経等をして彼の卿を追討せしむべし。
                    蔵人頭左大弁兼皇后宮亮藤原光雅(奉る)

[玉葉]
  伝聞、頼朝追討の宣旨を下さると。
 

10月19日 戊辰
  法皇御護りの御劔去々年紛失す。去る比江判官公朝これを求め得てこれを献上せしむ。
  風聞するの間、今日二品御書を以て、公朝に感じ仰せらると。これ左典厩の太刀を以
  て、献じ奉らるる所なり。吠丸と号し鳩塢を蒔くと。先考の御重宝、再び朝家の御護
  りに備うの條、御眉目たるに依って、今この儀に及ぶと。

[玉葉]
  早旦、隆職追討の宣旨を注し送る。その状に云く、
   文治元年十月十八日   宣旨
   従二位源頼朝卿、偏に武威を耀かし、すでに朝憲を忽緒す。宜しく前の備前の守源
   朝臣行家・左衛門の少尉同朝臣義経等、彼の卿を追討すべし。
                    蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅奉る
   上卿左大臣てえり。
 

10月20日 己巳
  御堂供養の導師本覺院坊僧正公顕下着す。二十口の龍象を相具する所なり。参河の守
  範頼朝臣相伴い参着すと。彼の朝臣今夜即ち二品の御所に参り、日来の事を申す。去
  る月二十七日西海より入洛すと。鎮西に於いて仙洞の重宝御劔鵜丸を尋ね取り、今度
  進上しをはんぬ。これ平氏の党類、寿永二年城外の刻、清経朝臣法住寺殿より御劔二
  腰(吠丸・鵜丸)を取る。その随一なりと。また唐錦十端・唐綾絹羅等百十端・南廷
  三十・唐墨十廷・茶碗具二十・唐筵五十枚・米千石・牛十頭等、同じく院に進すの由
  これを申す。次いで別に解文二通を二品並びに御台所の御方に進す。唐錦・唐綾・唐
  絹・南廷(五十)・甲冑・弓・八木・大豆等なり。
 

10月21日 庚午
  南御堂に本仏(丈六、皆金色の阿弥陀像。仏師は成朝なり)を渡し奉る。大夫屬入道
  ・大和の守・主計の允等これを奉行すと。今日、源蔵人大夫頼兼京都より参着す。去
  る五月、家人久實犯人(昼御座の御劔盗人)を搦め進す。件の賞に依って、去る十一
  日従五位上に叙す。久實また兵衛の尉を賜う。而るに息男久長に譲るの由これを申す。
  また御堂供養の願文到着す。草は式部大夫光範、清書は右少弁定長なり。因幡の守廣
  元御前に於いてこれを読み申すと。

[玉葉]
  伝聞、法皇鎮西に臨幸するの儀、都て許容無しと。仍って義経・行家等、忽ち件の議
  を変ずと。
 

10月22日 辛未
  左馬の頭能保が家人等京都より馳参す。申して云く、去る十六日、前の備前の守行家、
  祇候人の家屋を追捕し、下部等を搦め取る。結句行家北小路東洞院の御亭に移住すと。
  また風聞の説に云く、去る十七日土左房の合戦その功成らず。行家・義経等、二品追
  討の宣旨を申し下すと。二品曽て動揺せしめ給わず。御堂供養沙汰の外他に無しと。

[玉葉]
  伝聞、宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。
 

10月23日 壬申
  山内瀧口の三郎経俊が僕従伊勢の国より奔参す。申して云く、伊豫の守宣旨と称し近
  国の軍兵を催せらる。この間経俊を誅せんが為、去る十九日守護所を圍まる。定めて
  遁れざらんか。仰せに曰く、この事実證に非ざるか。経俊左右無く人に度らるべきの
  者に非ずと。経俊は勢州守護に補し置かるる所なり。明日御堂供養に御出の随兵以下
  供奉人の事、今日これを清撰せらる。その中河越の小太郎重房は、兼日件の衆に加え
  らるると雖も、豫州の縁者たるに依ってこれを除かる。

[玉葉]
  人云く、近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。
 

10月24日 癸酉 天霽風静まる
  今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂げらる。寅の刻、御家人等の中、殊なる健士
  を差し辻々を警固す。宮内大輔重頼会場以下を奉行す。堂の左右に仮屋を構う。左方
  は二品の御座、右方は御台所並びに左典厩室家等の御聴聞所なり。御堂前の簀子を以
  て布施取り二十人の座と為す。山本にまた北條殿室並びに然るべき御家人等の妻の聴
  聞所有り。巳の刻、二品(御束帯)御出で。御歩儀。
  行列
  先ず随兵十四人
    畠山の次郎重忠  千葉の太郎胤正   三浦の介義澄   佐貫四郎大夫廣綱
    葛西の三郎清重  八田の太郎朝重   榛谷の四郎重朝  加藤次景廉
    籐九郎盛長    大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光
    北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政
  小山の五郎宗政(御劔を持つ)
  佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す)
  愛甲の三郎季隆(御調度を懸く)
  御後五位六位(布衣下括)三十二人
    源蔵人大夫頼兼  武蔵の守義信   参河の守範頼   遠江の守義定
    駿河の守廣綱   伊豆の守義範   相模の守惟義   越後の守義資(御沓)
    上総の介義兼   前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼
    皇后宮の亮仲頼  大和の守重弘   因幡の守廣元   村上右馬の助経業
    橘右馬の助以廣  関瀬修理の亮義盛 平式部大夫繁政   安房判官代高重
    籐判官代邦通   新田蔵人義兼   奈胡蔵人義行   所雑色基繁
    千葉の介常胤   同六郎大夫胤頼  宇都宮左衛門の尉朝綱(御沓手長)
    八田右衛門の尉知家 梶原刑部の丞朝景 牧武者所宗親  後藤兵衛の尉基清 
    足立右馬の允遠元(最末)
  次いで随兵十六人
    下河邊庄司行平  稲毛の三郎重成  小山の七郎朝光  三浦の十郎義連
    長江の太郎義景  天野の籐内遠景  渋谷庄司重国   糟屋の籐太有季
    佐々木太郎左衛門定綱  小栗の十郎重成  波多野の小次郎忠綱
    廣澤の三郎實高     千葉の平次常秀  梶原源太左衛門の尉景季
    村上左衛門の尉頼時   加々美の次郎長清
  次いで随兵六十人(弓馬の達者を清撰せらる。皆最末に供奉す。御堂上りの後、各々
           門外の東西に候す)
          東方                西方
    足利の七郎太郎 佐貫の六郎            豊嶋権の守  丸の太郎
    大河戸の太郎  皆河の四郎            堀の籐太   武藤の小次郎
    千葉の四郎   三浦の平六            比企の籐次  天羽の次郎
    和田の三郎   同五郎                都築の平太  熊谷の小次郎
    長江の太郎   多々良の四郎          那古谷の橘次 多胡の宗太
    沼田の太郎   曽我の小太郎          蓬の七郎   中村馬の允
    宇治蔵人三郎  江戸の七郎            金子の十郎  春日の三郎
    中山の五郎   山田の太郎            小室の太郎  河匂の七郎
    天野の平内   工藤の小次郎          阿保の五郎  四方田の三郎
    新田の四郎   佐野の又太郎          苔田の太郎  横山の野三
    宇佐美の平三  吉河の二郎            西の太郎   小河の小次郎
    岡部の小次郎  岡村の太郎            戸崎右馬の允 河原の三郎
    大見の平三   臼井の六郎            仙波の次郎  中村の五郎
    中禅寺の平太  常陸の平四郎          原の次郎   猪俣の平六
    所の六郎    飯富の源太            甘粕の野次  勅使河原の三郎
  寺門に入らしめ給うの間、義盛・景時等門外の左右に候し行事す。次いで御堂上り。
  胤頼参進し御沓を取る。高綱御甲を着し前庭に候す。観る者これを難ず。脇立を以て
  甲の上に着すは失たりと。爰に高綱が小舎人童この事を聞き高綱に告ぐ。高綱嗔って
  曰く、主君の御鎧を着すの日、もし有事の時、先ず脇立を取り進すのものなり。巨難
  を加うの者、未だ勇士の故実を弁えずと。次いで左馬の頭能保(直衣、諸大夫一人・
  衛府一人を具す)・前の少将時家・侍従公佐・光盛・前の上野の介範信・前の対馬の
  守親光・宮内大輔重頼等堂前に着座す。武州已下その傍らに着す。次いで導師公顕伴
  僧二十口を率い参堂し、供養の儀を演ぶ。事終わり布施を引かる。比企の籐内朝宗・
  右近将監家景等役送す。これより先布施物等を長櫃に入れ、堂の砌に舁き立つ。俊兼
  ・行政等これを奉行す。時家・公佐・光盛・頼兼・範信・親光・重頼・仲頼・廣綱・
  義範・義資・重弘・廣元・経業・以廣・繁政・基繁・義兼・高重・邦通等、数反相替
  わり布施を取る。
  導師分
   錦の被物五重   綾の被物五百重   綾二百端   長絹二百疋
   染絹二百端    藍摺二百端。    紺二百端   砂金二百両
   銀二百両     法服一具(錦の横被を副ゆ)    上童装束十具
   馬三十疋(武者所宗親、北條殿御代官としてこれを奉行す)、この内十疋鞍を置く
   (御家人等これを引く。残る所二十匹は、御厩舎人等傍らに引き立つ)
    一の御馬  千葉の介常胤      足立右馬の允遠元
    二の御馬  八田右衛門の尉知家   比企の籐四郎能員
    三の御馬  土肥の次郎實平     工藤一臈祐経
    四の御馬  岡崎の四郎義實     梶原平次景高
    五の御馬  浅沼の四郎廣綱     足立の十郎太郎親成
    六の御馬  狩野の介宗茂      中條の籐次家長
    七の御馬  工藤庄司景光      宇佐美の三郎祐茂
    八の御馬  安西の三郎景益     曽我の太郎祐信
    九の御馬  千葉の二郎師常     印東の四郎
    十の御馬  佐々木の三郎盛綱    二宮の小太郎
  次いで加布施、金作の劔一腰・装束念珠(銀の打枝に付く)・五衣一領(松重、簾中
  より押し出さると)、已上左典厩これを取らる。この外八木五百石は旅店に送り遣わ
  さる。次いで請僧分、口別に色々の被物三十重・絹五十疋・染絹五十端・白布百端・
  馬三疋(一匹鞍を置く)なり。毎事美を尽くさずと云うこと莫し。作善の大功を思え
  ば、すでに千載一遇なり。還御の後、義盛・景時を召し、明日御上洛有るべし。軍士
  等を聚めこれを着到せしむ。その内明暁進発すべきの者有るや。別してその交名を注
  進すべきの由仰せ含めらると。半更に及び、各々申して云く、群参の御家人、常胤已
  下宗たる者二千九十六人、その内則ち上洛すべきの由を申す者、朝政・朝光已下五十
  八人と。
 

10月25日 甲戌
  今暁、領状の勇士を差し京都に発遣せさる。先ず尾張・美濃に至るの時、両国の住人
  に仰せ、足近・洲俣已下の渡々を固めしむべし。次いで入洛の最前に、行家・義経を
  誅すべし。敢えて斟酌すること莫れ。もしまた両人洛中に住せざれば、暫く御上洛を
  待ち奉るべし。てえれば、各々鞭を揚ぐと。

[玉葉]
  泰経院宣を伝えて云く、使を頼朝の許に遣わし、子細を披陳せらるべきか。而るに隠
  れてこれを遣わさば、義経等の伝聞恐れ有り。仍ってただ件の両将に仰せ聞かせ、且
  つは暫く当時の狼藉を止められ、露顕の御使を遣わされ、その次いでに密語を含め、
  披陳の詞を加えらるは如何。計奏すべしてえり。余申して云く、事すでに発覚し、追
  討の宣旨を下されをはんぬ。その上更に和平の儀を仰せ遣わさる。頼朝豈勅使を受く
  べきや。暗に推察有るべきか。但しその條に於いては、縦え承引せずとも推して遣わ
  すべきか。頼朝の忿怒、使を遣わすと雖も、使を遣わさざると雖も、更に差別有るべ
  からざるが故なり。
 

10月26日 乙亥
  土佐房昌俊並びに伴党二人、鞍馬山の奥より、豫州の家人等これを求め獲る。今日六
  條河原に於いて梟首すと。
 

10月27日 丙子
  二品奉幣の御使を伊豆・箱根等の権現に立てらる。伊豆は新田の四郎、箱根は工藤庄
  司なり。各々御馬一疋を奉らると。また筑前の介兼能御使として上洛すと。

[玉葉]
  巷説等猶止まず、万人周章すと。或いは云く、義経甘心せざると雖も、郎従等猶人々
  を引率すべきの由勧め申すと。また院を具し奉らずんば、一切相具すべからざるの由、
  各々申せしむと。
 

10月28日 丁丑
  片岡の八郎常春、佐竹の太郎(常春舅)に同心し謀叛の企て有るの間、彼の領所下総
  の国三崎庄を召し放たれをはんぬ。仍って今日千葉の介常胤に賜う。勤節等を感ぜら
  るるに依ってなり。


10月29日 戊寅
  豫州・備州等の叛逆を征せんが為、二品今日上洛し給う。東国の健士に於いては、直
  にこれに具せらるべし。山道・北陸の輩は、山道を経て近江・美濃等の所々に参会す
  べきの由、御書を廻らさる。また相模の国住人原の宗三郎宗房は、勝れて勇敢の者な
  り。而るに早河合戦の時、景親に同意せしめ、二品を射奉るの間、科を恐れ逐電す。
  当時信濃の国に在り。早くこれを相具し、洲俣辺に馳参すべきの旨、彼の国の御家人
  等の中に仰せ下さると。巳の刻進発せしめ給う。土肥の次郎實平先陣に候す。千葉の
  介常胤後陣に在り。今夜相模の国中村庄に御止宿。当国の御家人等悉く参集す。

[玉葉]
  伝聞、義経猶法皇を具し奉るべきの由風聞す。仍って泰経を以てこれを尋ねらる。仍
  って誓状を以て諍え申すと。
 

10月30日 己卯 天晴 [玉葉]
  義経等、明暁決定下向すべしと。或いは云く、摂州の武士太田の太郎已下、城郭を構
  え、九郎・十郎等もし西海に赴かば、射るべきの由結構すと。また九郎の所従紀伊権
  の守兼資、定船を点ぜんが為、先ず以て件の男を下し遣わす。太田等が為討たれをは
  んぬと。此の如き事に依って、俄に北陸に引退すべきの由、また以て風聞す。