4月2日 戊戌
那須野を覧玉い、去る夜の半更以後に勢子を入る。小山左衛門の尉朝政・宇都宮左衛
門の尉朝綱・八田右衛門の尉知家、各々召しに依って千人の勢子を献ずと。那須の太
郎光助駄餉を奉ると。
4月7日 癸卯 晴 [玉葉]
申の刻、宗頼朝臣頼朝卿の返札を持ち来たる。播磨・備前の両国、猶東大・興福両寺
に付けらるべきの由なり。上人等を召し寄せ仰せ含むべしと。仍って東大寺上人、早
く召すべきの由宗頼に仰せをはんぬ。文覺上人すでに普通の人に非ず。大凶人たり。
仍って直に召し取ること能わず。前の中納言に仰すべきか。
4月9日 乙巳 陰 [玉葉]
今日東札到来す。播磨・備前の国等、上人に付すべきの由先日申せしむ。而るに今日
の状にハ、国司を改任(播州泰経、備州能保)すべし。但し両寺を造了すにハ、各々
国務を災わすべからず。上人沙汰すべしと。大旨同じと雖も聊か相違す。是非に迷惑
しをはんぬ。然れども今度の申状に就いて沙汰を致すべきか。国司に任ぜられ、猶国
司吏務を行うハ、所出は造寺の用途に注ぐべきか。然る間、左右ただ自専に能わざる
のみ。
4月10日 丙午 陰 [玉葉]
この日、東大寺の大佛上人(春乗房重源、今は南無阿弥陀佛と号すなり)並びに彼の
寺の長官左大弁定長等を召し、備前の国を東大寺に付けらるべきの由これを仰す。但
し件の国は能保卿に給うべし。遂に知行すべき人なり。仍って国司を申し任ずべしと。
然れども大仏殿造営の間、能保卿一切口入すべからず。上人一向に沙汰すべしと。上
人申して云く、あひさたハ凡そ叶うべからざる事か。一向仰せ付けられ、盍ぞ不日の
功を成さんやと。重ねて仰せて云く、元より仰せらるる如し。ただ名代国司なり。国
司を改任せらるべきに依って、先使を遣わす事ハかりハ、定めて納言が沙汰を致すか。
自余国務に於いては一切知るべからず。上人一向沙汰せらるべきなりてえり。上人申
して云く、然ればその試み大厦の功を相励ますべきか。庄園並びに済物を煩わすべか
らず。皆免ぜらるべきの由、永く宣旨公物に於いては済すべきの由なり。各々一承諾
し退出しをはんぬ。その後、余使者を以てこの次第を能保の許に仰せ遣わすの処、答
えて云く、上人申して云く、事毎に万石ヲ能保沙汰し給うべし。その外の事知るべか
らずと。而るに今の仰せ相違すること如何。即ち上人の退出せんと欲するヲ召し留め
テ、尋ね問い候の処、殿下に於いテハ済物を成すべきの由、召し有るに依って国務を
辞し申すの由申し候所なりと。次第勿論。上人の虚言か。能保卿の妄言か。ただ頼朝
申状に依って沙汰を致すばかりなり。その上の事知るべからずの由答えをはんぬ。
4月11日 丁未
住吉の神主昌助鎌倉の御留守に参る。女房を以て申して云く、去る月旧院御周関に依
って、召し返さるべきの由官符を下さると。これ去る治承三年五月三日伊豆の国に配
流せらるる所なり。日来未だ赦身たらずと雖も、潛かに将軍家に仕うと。
4月12日 戊申 [玉葉]
未の刻、文覺上人来たり。宗頼朝臣これより先に参入す。播州の事を仰せ、領掌を申
す。その躰太だ入□と。弾指すべし。永く宣旨公物の事、猶済すべからずと。また余
を庄園に宛つべしと。仰せて云く、邂逅便宜なり。勤め煩い無くハ盍ぞ勤仕すべきか。
定めの如く叶うべからず。(略)また泰経卿来たり。播州の間の事を仰す。
4月13日 己酉
二男の若公俄に御病悩。驚騒するの処御復本せしめ御うと。
4月16日 壬子 晴 [玉葉]
この日東大寺上人参入す。備前の国の事を申す。国司前使を遣わすハ、国務すべから
ずか。また申して云く、能保卿自ら国務すべきの由を称せらる。仍って合沙汰叶うべ
からず候なりと。これらの旨を以て能保卿に仰せ合わす。一切沙汰すべからずの由こ
れを申す。仍ってこの旨を前使に仰す事か。強ち申すべからずの由仰すなり。仍って
上人承伏し、證文を給うべきの由を申す。能保卿に仰せ合わすこと宗頼に仰す。御教
書を長官定長卿の許に遣わしをはんぬ。その旨上人に仰せをはんぬ。
4月19日 乙卯
午の刻に工藤左衛門の尉祐経が家焼亡す。他所に及ばず。これ去る比新造し、移徙以
後僅かに三十八箇日を経るなりと。主は将軍家の御共として上野の国に下向すと。
4月23日 己未
那須野等の御狩り、漸く事終わるの間、藍澤の屋形また駿河の国に運び還すべきの由
と。
4月28日 甲子
将軍家上野の国より還御す。この間式部大夫入道上西が新田の館に於いて御遊覧す。
その所より直に還御すと。
4月29日 乙丑
去る月十二日に流人等を召し返さる。佐々木左衛門の尉定綱その中に在るの由、一條
前の黄門これを申し送らる。また彼の弟経高・盛綱等同じくその旨を言上す。将軍家
太だ歓喜し給う。治承四年以来、専ら勲功を顕わすの間、殊に寵愛たるの処、山門の
訴訟に依って、去々年薩摩の国に配流せらるる所なり。