1194年 (建久5年 甲寅)
 
 

6月10日 乙亥
  皇后宮大進為宗が家人源五七郎、左衛門の尉義盛に仰せてその身を召し禁めらる。こ
  れ去年横山権の守時廣が献ずる所の異馬、奥州に流し遣わさるるの処、件の男煩い有
  りと称し、途中に於いてこれを射殺す。縡則ち顕露し身は早く逐電す。主人に仰せ尋
  ね下さるるの処、近曽適々これを召し進すと。
 

6月11日 丙子
  鶴岡の伶人等、善信奉行せしむべきの旨仰せ下さると。
 

6月15日 甲辰
  将軍家六代禅師を招き対面し給う。異心無くんば、一寺の別当職に補すべきの由仰せ
  らると。
 

6月17日 丙午
  将軍家の若公岩殿観音堂に通夜せしめ給う。その間相撲有り。御共の壮士等を召し決
  せらると。
 

6月25日 甲寅
  獄囚数輩京都より召し下さる。その身を奥州に流し遣わすべきの由、左近将監家景が
  眼代に仰せらる。これ強盗の類と。
 

6月26日 乙卯
  未明に将軍家甘縄宮に御参り。これ伊勢の別宮なり。
 

6月28日 丁巳
  造東大寺の間の事、将軍家旁々助成せしめ給う。材木の事は、左衛門の尉高綱に仰せ、
  周防の国に於いて殊に採用有り。また二菩薩・四天王像等は、御家人に充て造立を致
  すべしと。所謂、観音は宇都宮左衛門の尉朝綱法師、虚空蔵は穀倉院別当親能、増長
  は畠山の次郎重忠、持国は武田の太郎信義、多聞は小笠原の次郎長清、広目は梶原平
  三景時。また戒壇院の営作は、同じく小山左衛門の尉朝政・千葉の介常胤以下に仰せ
  付けられをはんぬ。而るにその功頗る遅引するの間、今日催促せらるる所なり。但し
  各々偏に結縁の儀を存じ成功すべきの由、御下知先にをはんぬ。ただ公事に随うの思
  いを以て、縡若しくは懈緩に及ばば辞し申すべきの旨、厳密に触れ仰せらると。
 

6月30日 己未
  武蔵の国大河戸御厨に於いて、伊豆宮の神人等と喧嘩出来するの由その聞こえ有り。
  驚き思し食すに依って、尋ね沙汰せしめんが為、掃部の允行光を下し遣わさると。