1194年 (建久5年 甲寅)
 
 

7月3日 壬戌
  民部卿経房卿申さるるの旨有り。東大寺供養日の事、明春正月たるべきの由、すでに
  その定め有りと雖も、遠国の輩結縁の為に上洛せしめば、時節若しくは煩い有るべき
  か。てえれば、この事に依って将軍家御上洛有るべし。供奉人尤も歎き申すべきの比
  なり。然れば聊か延引せらるるの條、結縁の民庶の望みに叶うべきかの由、申さるる
  べきの由と。
 

7月8日 丁卯
  将軍家並びに御台所鶴岡八幡宮に御参り。
 

7月14日 癸酉
  永福寺の郭内に一宇の伽藍を建立せらる。今日上棟たり。将軍家監臨し給い、工等禄
  を預かる。大工は馬三疋(一疋鞍を置く)・野劔一。小工は各々馬一疋・白布十端な
  り。行政・仲業これを奉行す。
 

7月16日 乙亥
  信濃の国大井庄乃貢の事、今年に於いては、十一月中京都に究済すべきの旨仰せ下さ
  ると。

[玉葉]
  下野の国の住人朝綱法師、公田を押領するの過に依って、罪名を勘がうべきの由宣下
  せられをはんぬ。今日先ず問注を遂げんが為その身を召さるると雖も、詔使を拒み参
  対せず。いよいよその科を増すものなり。前の大将申す旨の事なり。
 

7月17日 丙子 晴 [玉葉]
  能保卿使者を以て朝綱法師の間の事を示し送る。具に以て子細を仰せをはんぬ。
 

7月19日 戊寅 晴 [玉葉]
  子の刻に朝綱法師罪名の勘文を進す。勘状に任せ、朝綱法師を遠流に処すべし。事の
  由を奏す。宣下すべきの由これを仰せらる。
 

7月20日 己卯
  将軍家御鎧・御劔・弓箭等を以て、鎮西の鏡社に奉らる。彼の大宮司草野大夫永平、
  訴訟の事に依って代官を差し進すの間、今日大蔵卿頼平の奉行としてこれを請け取ら
  しむと。
 

7月22日 辛巳 晴 [玉葉]
  宗頼・棟範條々の事を申す。朝綱法師の事関東に仰せ遣わすべきの由、宗頼に仰せを
  はんぬ。この外他の條々有り。
 

7月23日 壬午
  江間殿伊豆の国に下向せしめ給う。願成就院破損の事有って、修理を加えられんが為
  と。
 

7月28日 丁亥
  一條中納言(能保卿)の飛脚参着し申して云く、左衛門の尉朝綱入道、国司の訴えに
  依って遂にその過有り。去る二十日配流の官符を下さる。朝綱は土佐の国、孫弥三郎
  頼綱は豊後の国、同五郎朝業は周防の国なり。また廷尉基重(右衛門の志)朝綱法師
  引汲の科に依り、洛中を追放せらると。この事将軍家頻りに御歎息、兼信・定綱・朝
  綱入道はこれ皆然るべき輩なり。定綱が事は山門の訴え是非に能わず。今朝綱が罪科
  は公田掠領の号を去り、関東の為に頗る眉目を失うの由と。則ち結城の七郎朝光を以
  てこれを訪わしめ給うと。

7月29日 戊子
  将軍家の姫君夜より御不例。これ恒の事たりと雖も、今日は殊に危急なり。志水殿有
  事の後、御悲歎の故に日を追って御憔悴す。断金の志に堪えず、沈石の思いを貽し給
  うか。且つは貞女の操行と。衆人美談とする所なり。