1203年 (建仁3年 癸亥)
 
 

12月1日 乙未 晴
  将軍家御願の為、鶴岡上下宮に於いて法華八講を行わる。講師は安楽坊なり。右京の
  進仲業奉行として廟庭に候ず。尼御台所(御輿)密々廻廊に参らしめ給う。
 

12月3日 丁酉 晴
  尼御台所の御計らいとして、鶴岡別当阿闍梨(尊暁)に仰せ、宮寺中塔婆の営作を停
  止せらる。この塔建立の始め火災有り。当宮以下鎌倉中数町焼亡す。その後再興の為
  その地を曳かるるの処、幾日数を経ず金吾将軍の御病悩。仍って不吉の由その沙汰有
  りと。
 

12月13日 丁未
  武蔵の国染殿別当職の事、故幕下将軍の御計らいに任せ、上野の局を以てその職と為
  すと。
 

12月14日 戊申
  将軍家永福寺以下の御堂に参り給う。御礼仏の儀有り。御輿なり。北條の五郎・源大
  夫将監・大和の前司・結城の七郎・長沼の五郎・安達右衛門の尉・三浦兵衛の尉・足
  立左衛門の尉・千葉兵衛の尉・佐々木左衛門の尉・和田新兵衛の尉等これに供奉す。
 

12月15日 己酉
  尼御台所の御計らいとして、諸国地頭分の狩猟を止めらる。清図書の允清定これを奉
  行す。
 

12月18日 壬子
  諸人訴論の是非、文書を進覧するの後、三箇日に至り下知を加えざるは、奉行人を緩
  怠の過に処せらるべきの由、その法を儲くと。
 

12月20日 天晴 [明月記]
  久清弟久種日吉の勝負(競馬)に於いて遅々す。勘当に依って久清に付け召さる。病
  と称し隠居す。召し出さんと欲するの間、抜刀し兄の郎等男を突く。遂に搦め進し御
  厩に下さる。忿怒の余り、火を以て本鳥を焼き切る。件の男東夷に遣わすべしと。
 

12月22日 丙辰
  営中の雑事、北條の五郎奉行せしむべきの由仰せ付けらると。
 

12月25日 己未
  夜討ち人伊勢の国守護に乱入す。その張本進士行綱たるの由、義盛これを申す。