1208年 (承元二年 戊辰)
 
 

11月1日 丁酉
  出雲の国杵築社の権の検校並びに祝師、御供所別当職の事、内蔵孝元補任せらるべき
  の旨、領家坊城三品の許に仰せ遣わさる。彼の孝元が父資忠は、故幕下の御時大功有
  るの間、件の職に補せられをはんぬ。その例に就いて今また此の如しと。しかのみな
  らず、孝元当国の内数箇所の地頭職を拝領すと。師文・清定・孝尚等これを奉行す。
 

11月7日 戊寅
  鶴岡宮の御神楽。奉幣の御使いは前の大膳大夫廣元朝臣なり。
 

11月14日 乙酉 晴
  囚人柏木の伴五家次の男貞次、日吉社の明年五月会馬上の役人たり。而るに父の罪科
  を宥められ、この役に従うべきの由社家の社司に愁い申す。また解状を貫首に捧げる
  の間これを執り申さる。仍って神事に優ぜられ忽ち厚免せらる。廣元朝臣奉行たり。
  向後猶不義を現さば、定めて後悔すべきの趣仰せ含めらると。