弘前大学医学部山岳部事故控訴審判決(名古屋高等裁判所平成15年 3月12日判決)について

 
                                       弁護士 溝手 康史

 この裁判は、冬に北アルプスの涸沢岳西尾根を下降中の大学山岳部のパーティーのサブリーダーが滑落して死亡した事故について、リーダー等の過失の有無が問題となったケースである。
 従来、山岳事故に関して、民事上の損害賠償責任が問題となる主なケースとしては、@学校登山、Aガイド登山、B講習会(研修会)があるが、本件は@の場合に関するものである。しかし、一般に@で問題となるケースは小・中・高校生の登山中の事故であり、大学生の事故は@から除外して考えるべきfだろう。過去に、大学生の登山中の事故について、リーダーの法的責任が認められたケースはない。
 この判決は、大学生の扱いは・中・高校生と異なり、大人に近い扱いがなされること、無謀登山が直ちにリーダーの法的責任を生じさせるものではないこと、安全配慮義務が発生する場合は例外的な場合であることなどの点で重要な裁判例である。
 この判決に対する上告が棄却され、判決が確定した。

1、大学生の判断力の程度
 この点について判決は次のように述べている。
 
 「大学生の課外活動としての登山において,これに参加する者は,その年齢に照らすと,通常,安全に登山をするために必要な体力及び判断力を有するものと認められるから,原則として,自らの責任において,ルートの危険性等を調査して計画を策定し,必要な装備の決定及び事前訓練の実施等をし,かつ,山行中にも危険を回避する措置を講じるべきものといわなければならない。」
 
 被害者の判断力の程度は自己責任の範囲を考えるうえで重要である。すなわち、私法上の自己責任の原則は、自分の行動について判断し、それに基づいて行動できることが前提になっており、危険性を判断してそれを回避することを期待することが困難な場合には、自己責任の原則を適用することは公平ではない。
 被害者が小・中・高校生の場合、大人に較べれば判断力が未熟であり、大人と同じように自分の行動について責任負わすことはできない。未成年者の場合、その年齢に応じて意思能力、行為能力、責任能力が問題となるが、自己責任を負わせることができる判断力は、これらの能力とは異なる。しかし、年齢が低ければ低いほど判断力が欠けるという生物的、社会的実態があるので、それに応じて自分の行動に関して自己責任を負わすことができなくなるのは当然である。そのような場合には、引率者など未熟な者に対し保護者的な立場にある者がいれば、保護者的な立場にある者が未熟者に対する安全配慮義務が生じることがある。
 ところで、法が未成年者に行為能力がないとし、法律行為をするには親権者の同意が必要だとするのは、未成年者が法律行為に関する判断力が不十分だと考えているからである。不法行為責任に関して、自己責任を負わすかどうかは事実行為に関するものなので、法律行為に関する判断力のように高度な能力は必要ない。この点で、未成年者であることが直ちに自己責任の能力がないことを意味しない。そして、一般に大学生は、小・中・高校生に較べて判断力があること、大学生は、ある程度、学校や親から自立して生活可能なこと、18歳で選挙権を認めるのが世界の大勢であること、婚姻年齢が16歳、18歳に設定されていることなどから、生物的、社会的に大学生の判断力のレベルは大人に近いものと考えられる。日本では20歳で選挙権を認めるとはいえ、大学生は成人に近い扱いをすることが可能であり、大人と同様の自己責任が妥当する。
 そして、大学山岳部においてはリーダーや大学当局が特別に優越的な地位に立つものではなく、リーダーといえども、学生の総意に基づいて選出された地位でしかない。大学山岳部のリーダーは、仲間同士の登山パーティーのリーダーに類似した立場にあり、学校登山における引率教師や講習会の講師、山岳ガイドのように他人に指揮命令をする立場にはない。
 しかし、日本の大学生については以下のような問題がある。
@、日本では大学生は親に依存する傾向が強く、親も大学生はまだ一人前ではないと考え、子供扱いをする傾向がある。日本の大学生の判断力や自立心を含めた精神年齢は諸外国の学生よりも未熟な面があり、法の建前と実態の間にギャップがあるのではないか。
A、日本の大学山岳部ではリーダーの権限は絶対的であり、リーダーが部員に対し特別な優越的な立場に立つとする考え方が根強かった。大学山岳部の登山は引率登山であり、リーダーに安全配慮義務があるのではないか。
 実は、この点は大学生に限ったことではなく、若者全般に、そして大人自身にも当てはまる。成人の登山でも、リーダーに任せ切りでのパーティーは多いし、日本では事故が起これば事故を起こした本人よりもリーダーが非難される傾向がある。日本では、小さい頃から、集団の中でその一員として、集団の価値観に従って教育される傾向が強く、個人の自己決定に基づく行動が自覚されない傾向がある。登山においても、参加者個人の判断で行動していれば、事故が起これば各人の責任だということになるが、登山パーティーにおいてはリーダーが統率し、メンバーはリーダーに服従すべきものと見られる傾向があるので、事故が起こればすべてリーダーの責任だとされる傾向がある。
 最近、大学生の種々の事件が増えたことから、「大学生の一人前扱い」をやめて、大学生の管理を強める動きがあるように、大学生を未熟者扱いをする傾向が増している。大学で父母会を開催したり、大学で高校の延長のような授業や校則による管理は、最近始まったことではない。ついでに言えば、日本の高校生も諸外国の高校生に較べれば自立心の点で劣ると言われている。日本では大人についても自立できていない人が多いという点は、弁護士として法律相談などでいつも感じている。
 しかし、世界の中で、日本だけが大学生を子供扱いするわけにはいかないし、自立できない日本の未熟な大人は、すべて行為能力、責任能力、判断力に欠け、国家によって保護されるべき存在だとするわけにはいかない。上記のような現実があるとしてもそれが法規範を形成するわけではなく、むしろ、法規範が実社会の行動を規律していくべきである。現実に大学生に自立した判断力があるかどうかという点よりも、「大学生は自立した判断力があるべきである」という点が重要である。そのためには、小さい頃から、自立心を養うような教育やシステムが必要である。

2、リーダーの注意義務について
 この点について判決は次のように述べている。
 
 「大学生の課外活動としての登山におけるパーティーのリーダーは,そのメンバーに対し,たとえば,特定の箇所を通過するには特定の技術が必要であるのに,当該メンバーがその技術を習得していないなど,事故の発生が具体的に予見できる場合は格別,そうでなければ,原則として,山行の計画の策定,装備の決定,事前訓練の実施及び山行中の危険回避措置について,メンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものではなく,例外的に,メンバーが初心者等であって,その自律的判断を期待することができないような者である場合に限って,上記の事柄についてメンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものと解するのが相当である。」

 判決は、リーダーがメンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負う場合として2つの場合をあげている。それは、
@、たとえば,特定の箇所を通過するには特定の技術が必要であるのに,当該メンバーがそ の技術を習得していないなど,事故の発生が具体的に予見できる場合
A、例外的に,メンバーが初心者等であって,その自律的判断を期待することができないよう な者である場合
である。
 @の「予見できる場合」とは、例えば、岩登りの技術のない者に4級以上の岩場を強引にクライムダウンさせれば、滑落することが予見できるので、そのような場合が考えられる。これは、パーティーを編成したことから当然に発生する義務ではなく、信義則とか公平の見地に基づいて導かれるものだろう。
 ただし、「事故の発生を予見可能な場合」に全て、メンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務が生じるとすることには問題がある。これを認めることは仲間同士の登山全般について事故が予見可能性があれば安全配慮義務を認めることになり、登山=自己責任の原則に反することになる。したがって、安全配慮義務が生じるのは、「特定の箇所を通過するには特定の技術が必要であるのに,当該メンバーがその技術を習得していないなど」という例示にあるような場合に限定されると解釈すべきであり、そうであれば、これは自分で危険を回避できるだけの技術、経験を欠く場合に相当し、Aと重複することになる。
 Aは、自己責任の関係で、意志能力と行為能力のレベルとの関係が問題となるが、意志能力と行為能力は法律行為の効力との関係で要求される能力であり、自己責任における能力は責任を負担できるかという問題である。自己責任を負うためには自己決定の能力が必要であり、18歳程度の能力が自己決定の能力=自律的判断の能力と言えるかもしれないが、ここでは危険回避措置をとれるかどうかの問題なので、一定の登山技術や経験のもとに判断し、その判断に従って行動できるかどうかという問題である。
 判決は、判断力さえあれば事故を回避できると考えているようだが、実際の登山では、判断力以外に登山技術や経験の差によって事故を回避できるかどうかが決まることが多い。どんなに判断力があったとしても、登山技術や経験がなければ、自分の行動を安全にコントロールできず、危険を回避できないことが多いこと、自律的判断を期待することができるかどうかは外部から見て判断しにくいことから、客観的な危険回避の能力があるかどうかという基準で判断すべきである。そして、この能力を欠く場合は判決がいう@の場合を含むと考えるべきであり、そのうえで、結果回避義務を課すためには事故に関する予見可能性が必要であるから、予見可能性はAの場合にも必要である。
 したがって、判決が述べる@とAの場合を含めて、危険を回避できるだけの能力のない初心者に対して安全配慮義務が生じ、その場合に事故を予見可能であれば、結果回義務が課されると考えるべきである。

 上記のような基準を立てたうえで、判決は以下のように判断した。あくまで事実認定の問題であるが、妥当な判断だと考えられる。

 「これを本件についてみるに,まず,被控訴人Aにおいて,本件事故の発生が具体的に予見可能であったと認めることはできない。すなわち,上記認定のとおり,本件事故の直接的な原因は,亡Dが下降をする際に足下に対する注意をおろそかにしたことであるが,このような不注意による滑落事故が,本件山行の出発前の段階で具体的に予見可能であったとは認められず,また,本件事故現場において,冬季に滑落事故が度々発生していたことを認めるに足りる証拠はないから,本件山行の出発前に,本件事故現場で滑落事故が発生することが具体的に予見できたともいえない。また,上記認定事実(引用にかかる原判示)によれば,本件パーティーが本件事故現場にさしかかった際の天候や付近の斜面の状態からも,亡Dの体調からも,具体的に同人の滑落が危惧されるような状況ではなかったものというべきであるから,本件事故の直前においても,本件事故の発生が具体的に予見可能であったとは認められない。
 次に,亡Dが初心者等であってその自律的判断を期待することができないような者であったとも認めることはできない。なぜなら,上記争いのない事実及び認定事実によれば,亡Dは,弘前大学医学部専門課程2年生に在籍し,山岳部に入部して3年目であり,夏山合宿に2回,冬山合宿に1回参加した経験があるのであって,冬山の経験は乏しかったものの,山岳部在籍の期間や山行の経験回数等に照らすと,自ら本件山行の危険性等について判断し,その力量に合わせてその計画策定や装備の決定等を行うことが当然であったというべきであって,到底その自律的判断を期待することができない者であったと認めることはできないからである。
 以上のとおりであるから,被控訴人Aは,亡Dに対し,山行の計画の策定,装備の決定,事前訓練の実施及び山行中の危険回避措置について,その安全を確保すべき法的義務を負っていたものということはできない。」

 被害者はサブリーダーだったが、その点はそれほど重要ではな。登攀ではなく歩いて登る冬山のルートでは(涸沢岳西尾根は冬の一般ルートである)、多少の登山経験のある大学生であれば危険性を認識し、たまたま他のパーティーが設置していた固定ロープを持って下降するなど、危険性を回避する行動をとることは十分可能だった。
 仮に、被害者がサブリーダーではなく、下級生だったとしても、一定の体力や登山経験やアイゼンを使用した経験があれば、技術的に涸沢岳西尾根を登降することは可能であり、結論を左右しないと思われる。

3、若干のコメント
 @、以下の点からこの登山は無謀な登山に近いものだったといえよう。
 a、ロープ、カナビナ、無線機、ヘルメットなどを携行していないこと
 b、リーダーも含めてロープワークの技術があったとは認められないこと
 c、リーダーも含めて冬山の経験や技術が不十分だったこと
 このような事情から、よほど運がよければ事故が起こらないこともあるが、起こるべくして起きた事故だった。しかし、無謀な登山だから、リーダーの法的責任が発生するということではない。
 
 A控訴人(被害者側)は、危険の引受法理の適用場面ではないとの主張をしたが、裁判所は、それには一切触れることはなかった。裁判所は危険の引受法理に触れる必要性を感じなかったということだろうが、これは危険の引受法理対する裁判所の関心の低さの表れでもある。
 判決は、被害者は「自ら本件山行の危険性等について判断し,その力量に合わせてその計画策定や装備の決定等を行うこと」が可能だったと述べているが、大学生は自己責任に基づいて行動でき成人に近い扱いを受けるので、リーダーに安全配慮義務が生じる場合はきわめて限られる。

                        



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