古代出雲の旅 2/4(島根県)

はじめに 出雲大社・日御碕神社
荒神谷遺跡
須佐神社・西谷古墳群
加茂岩倉遺跡・須我神社
熊野大社・風土記の丘
神魂神社・佐太神社
古代出雲王陵の丘
妻木晩田遺跡・大山寺


湖陵温泉→須佐神社→神門寺→大念寺古墳西谷古墳群小丸子山古墳
加茂岩倉遺跡須我神社→海潮温泉
この日の目的は、スサノオ命の足跡を追う事と西谷墳墓群・加茂岩倉遺跡の見学である。
スサノオは須佐の地に降臨し、斐伊川上流(三刀屋(みとや)・木次(きすき)付近)の奇稲田姫を八岐大蛇から救い、須我の地で暮らしたという。前半は『出雲国風土記』、後半は『記紀』の世界である。

7月15日(第二日)

湖陵温泉・国民宿舎”国引荘”から神西湖上のご来光を見る。朝日は仏経山の左手前の低い山陰から昇る。今回の旅では、カムナビ・仏経山の各方面からの見え方を知り、古代出雲王国の在り方を感じたいと思っている。古代大和王国の人々が三輪山を仰ぎ見たように・・・。

須佐神社  9:20~9:55
「出雲国風土記」飯石郡の郷の項に、”須佐の郷。郡家の正西一十九里。神湏佐能袁命、詔りたまひしく、「批の国は、小さき国なれども、国処在り。故、我が御名は、木石には着けじ」と詔りたまひて、即ち己が命の御魂、鎮め置き給ひき。然して即ち大湏佐田・小湏佐田を定め給ふ。故、湏佐と云ふ。即ち正倉有り。”と載り、社の項に、湏佐の社が載る。 神の名湏佐は地名であるとする説は、風土記の言う湏佐の地の地霊、ないしは首長的な神格と受け止められ、”スサブ=勢い激しくとどまるところを知らない”とする説より蓋然性があると言う。(荻原千鶴「出雲国風土記」)
この山深い”須佐”は、5世紀末にキビ勢力との抗争に勝利したヤマト王国の軍勢(おそらく蘇我氏)が、6世紀中~後半に南方から山越えして出雲を抑えた最初の地であり、6世紀中頃から急成長し、神戸川・斐伊川下流に最大の勢威を張ったカンド氏の本拠地の一部で塩冶(やむや)の西南の地であることが重要である。後に神門郡余部里(あまりべ)に語部が置かれ、進入者がヤマト朝廷で祭祀にかかわっていた日置部の有力者を伴ってきたことと相まって、土地のスサノオ神話がヤマト朝廷に提出され神格を歪曲された可能性がある。(門脇「古代出雲」p.242~、p.282参照)
須佐神社へは、神西湖からR184に向って南下し、才谷トンネルを抜け神戸川を渡った所でR184に突当たり、左折して佐田支所まで行き、雲南市方面(須佐神社方面)に2km余りで到着する。古い家並みの中にある。 石の鳥居をくぐり、右手にある「塩の井」の水で身を清め、素朴な神門をくぐる。塩の井は、スサノオノミコトが自ら潮を汲みこの地を清めたと伝えられる。スサノオは神戸川沿いに出雲に入った説と斐伊川沿いに入った説の二伝説がある。
素朴な造りの拝殿だが、その後に控える本殿(下写真)は千木の高さ40尺(12m)で美しい。 御祭神は、須佐之男命、稲田比売命と足摩槌命、手摩槌命(須佐家の祖神)。最近、若人の参拝が多いと聞いた。。
出雲大社と同じ方二間で中央に真(心)柱のある大社造り。右一間の入口への階(きざはし)を上り、真柱を右向きに周り、右奥に神座があるのも出雲大社と同じ。神社と住居の分離しない原始の形という。 周囲7m余、樹高30m余、樹齢1200年という老杉が本殿の裏にある。静かな空間が広がる。
ここは、スサノオ命の御終焉の霊地という。
神楽殿 神事・八雲神楽は、須佐神楽として受け継がれている。夏祭りに行われる切明神事(念仏踊り)が有名。社伝によると、「神功皇后が三韓から凱旋された時、この踊りをして奉送されたのを、皇后はスサノオ命が韓国に渡り給うた功徳を仰ぎ之を須佐大宮に伝え給うた」とある。中世の念仏踊りと神社の田植神事の田楽とが混淆したとする説が本当であろうが、面白さは少なくなる。 境内末社としての三穂社(三穂津比売命、事代主命を祀る)はご本殿の裏にあるが、
同じ境内末社でも天照大神を祀る天照社は、石鳥居と反対側に御本殿と向き合って一社だけ独立に在る。
三瓶山を水源とする神戸川は、波多川と出雲市佐田支所(旧佐田町)前で合流して川幅を増す。佐田支所前のスサノオノミコトとイナダヒメのモニュメントが微笑ましい。佐田支所内には「たたら遺跡」が多数あるが今回はパスする。もっともこの2~3日後には集中豪雨でこの辺りは大変なことになった。 神戸川はR184沿いに奇岩のそそり立つ立久恵峡を経て、出雲市西部から神西湖に流れこむ。

神門寺から大念寺古墳  10:40~11:45  
出雲古来のキツキ大神出雲大神へ、さらに別格のオホナモチ神へと神格を上昇させて杵築大社(出雲大社)に祀られた。新興勢力の神門臣氏は、中央から派遣された日置伴部と協調して、出雲大社の周囲に日置部を設置し大社中心の祭祀環境が整えられた。神門臣氏はより中央政権の官僚的な従属性を強め、出雲の巨大勢力である意宇が国造の官位を受け入れる状況・契機ができあがった。
島根大学医学部のすぐ北の住宅街のなかにあるが、少し探しまわる。出雲風土記・神門群の寺・社の項に、「新造の院一所。朝山の郷の中にあり。群家(こおりのみやけ)の正東二里六十歩。厳堂を建立つ。神門臣等の造る所也。」とある。本堂脇に廃寺跡があると聞いて行ったが、太平記で活躍した武将の話は残っていたが目指すものは見当たらずがっかりする。
大念寺は出雲市駅の東、今市にある。付近は道路拡張もあり新旧が入り混じっている。 古墳は境外から鬱蒼と茂った樹々の塊として見られる。「日本最古の版築(ばんちく)工法 史跡大念寺古墳 出雲観光協会」とあったので、境内に入る。
古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳であり、東西主軸が全長100mの大古墳。石室入口は西側に開いる。石室は横穴式で、奥室・前室・羨道の全長12.8mからなり、大石棺2ケが納まっていた。文政9年(1826)の初発掘時には多数の副葬品があったらしいが、現在は散逸している。鉄斧と馬具鏡板の写真が示されていた。
古墳時代後期の出雲は、出雲西部の大念寺古墳と、出雲東部の西日本最大の前方後方墳である山代二子塚古墳(今回はパス)とに二分されていて、それらがカンド氏とオウ氏の勢力圏の下にあることが注目される。

                      
西谷墳墓群  12:00~12:30
弥生時代の出雲平野では斐伊川流域の沖積化が進んだ。集落形成は、大社・出雲地域から出雲平野南部の天神・田畑遺跡周辺、さらに山持川・斐伊川鉄橋遺跡など低湿地地域に広がる。集落形成の端緒となった出雲市の矢野遺跡には、弥生時代後期前半(2世紀)に土壙墓が造られたが、集落の広域化の最終段階の弥生時代後期後半(2世紀後半~3世紀)には、これらを纏める農業共同体の首長墳墓として、出雲平野を見渡せる斐伊川西岸の丘陵上に四隅突出墓6基を含む14基以上の墳丘墓が形成された。この出雲平野に始めて出現した政治勢力を門脇禎二氏は「原イツモ国」と呼ぶ。
    出雲市教育委員会の説明看板(丘陵上の墳墓群地図 mouse-over 四隅突出3号墳模型)
3号墳への登り口  弥生時代の後期には既に砂の堆積した出雲平野は出来上がり、3号墳があるこの辺りは小高い丘陵になっていたと思われる。離れた9号墳は、丘の東北下の斐伊川に近い。この史跡公園内に纏められた四隅突出型の古墳群は、それ自体何らかの意味をもつのであろう。
3号墳は弥生時代後期後半(2世紀後半)に築造されたと見られている。方丘部は南北30m前後、東西40m前後、高さ4.5mの大きさで、突出部を含めて約50mの大型の四隅突出型墳丘墓である。
墳丘の斜面には貼石、墳端には立石、敷石を並べ、墳端の配石構造は2段になっている。墳頂部の大型埋葬施設2基(第1および第4主体)は木棺と木槨の二重構造で、第1主体からガラス勾玉・ガラス管玉など多数の玉類が、中心主体と考えられる第4主体からは鉄剣1振・ガラス管玉などが出土した。また墓上からは吉備(岡山県)の特殊土器、北陸系の土器が出土している。第4主体の周りには4っの柱跡が発見され、墓上に4っつの柱を建てて祭祀が行われたと推定されている。(説明板より) 第4主体(墓穴)の発掘状況写真とその上で行われた墓上祭祀の想像図も示されていた。当時の出雲の王墓と考えられ、埋葬された首長の吉備や北陸との交流の深さが分る。
荒神谷の358本の銅剣と併せて考えて、弥生後期から古墳前期時代に出雲平野に勢力を持った仏経山をカンナビとする「原イツモ国」(門脇禎二)の墳墓とも考えられる。 突出部から上面に上ることが出来る。
崩さないように気を使いながら、突出部の勾配を上る。古代人もここから上ったのだろうか。頂上部は現在草が茂り、その様子は分らないが、説明板によると、墓穴が8つ見つかり、第4主体(墓穴)上で墓上祭祀の舞台が見つかったという。
頂上面より北方向を見る。 4号墳(ブルーシートで保護されている)方向を見る。
4号墳は、3号墳と同じく弥生時代後期後半(2世紀末)の築造と考えられている。南北26m、東西32m、突出部を含めると40mの四隅突出墳墓である。墳丘の斜面に貼石、墳端に敷石、その外側に立石が並んでいて、南東突出部がよく残っていたと説明されている。3号墳と同じく、地元の壷や鼓形器台、吉備の特殊土器が出土した。崩壊が進んでいる。どのようにして維持するのか気掛りだ。大和の古墳のように樹木で覆うのであろうか?
4号墳の上面から仏経山が望めた。 6号墳は南側と西側はすでに無くなっているが、東西16m、南北8m、高さ2.5mの小型四隅突出型墳墓と看做されている。2基の埋葬施設があり、3号墳と同様に、木棺・木槨の二重構造であったと推定される。弥生終期(3世紀前半)の増築と考えられている。
北側から見る。??? 東側から。少し痛々しい。

 
出雲ロマン街道は、斐伊川に新しくかかった南神立橋で渡る。北側にはJRの鉄橋が見える。左端に見える出雲ドームは高さ48m(15丈)で、出雲大社の中古の高さに等しいという。斐伊川は、意外に幅広い川であり、川底には綺麗な砂が堆積していて水が澄んでいる。砂を運ぶ暴れ川であることがよく理解できる。
        仏経山(366m)への登山口
神名火山(仏経山)の主神はキヒサ神である。キヒサはこの辺りの古地名で、もとはこの地方に多い辰韓(しんかん)・新羅からの渡来人が開いた食糧の豊かなところをいう意から生まれた。(門脇「古代出雲」p.207)
              小丸子山古墳
荒神谷遺跡のすぐ北東にあり、直径32m、高さ5mの円墳である。文字の消えかかった説明板があり、明治末に一度発掘調査され、敷石、鉄剣の出土があり、6世紀始めのこの地方の首長墓であると記されていた。大念寺古墳と時代は同じ頃だ。水田の中にあり、民家の庭先を通って近づける。

                      
加茂岩倉遺跡  13:40~15:00
平成8年(1996)に農道工事中に39ケの大小の銅鐸が発見された。銅鐸は荒神谷遺跡出土の銅鐸より大きいもの・新しいタイプのものもあるが同じく弥生中期の銅鐸とされる。発見は崖の重機による掘削作業中に偶然に起こったことで、作業者は変なものが出てきたと作業場付近の水田の畦に数個立てかけていたという。すぐに調査が始められたが、埋納坑もほとんど掘削されていて僅かに二つ残っていた状況だった。
それにもかかわらず、驚きが大きいのは、約45cm大のものが20ケ、約30cm大のものが19ケ、総計39ケの銅鐸が同時に出土したこと(過去最多の例は滋賀県野州町での24ケ(3ケ所)と神戸市灘区桜ケ丘での銅鐸14ケ・銅戈7本であった)、初めて大小の銅鐸が「入れ子」状態で見つかったこと、7ケの銅鐸表面にはシカ、トンボ、イノシシ、カメや人面が描かれていたこと、荒神谷の銅剣の殆どに刻されていた×印があること、同笵銅鐸が15組中26ケあり、他県出土銅鐸との同笵銅鐸も14ケ確認されることなどである。荒神谷博物舘で加茂岩倉の実物、荒神谷の銅鐸と野州や桜ケ丘の銅鐸とそれらの比較を見たばっかりなので、出土環境に興味が持てた。
加茂岩倉遺跡には、R54から見易い大きな看板どうりに約1.7km西に入る。駐車場とあづまやがある。 駐車場から加茂岩倉の谷へ。猛暑の中の散歩だが、気持ちが良い。
ここが遺跡の谷の入口で農道はガイダンスへ向う。案内・説明板が親切である。 入口の右側に銅鐸出土地点である崖中腹に向う階段がある。
階段を上った所に出土状況を再現してある。遺物が残されていた土坑がある。 オーバーハングした埋納土坑も発見されたが、遺物は残されていなかったと説明されている。
前方を横切る農道工事中に、加茂岩倉の谷の中腹(写真の左側)から銅鐸が発見された。 加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡は3.4kmの直線距離で、水越峠を越え全長8.0kmのピクニックコース(弥生の道)がある。[写真上にマウスを置くと表示する] 弥生時代終期に、この地は荒神谷と別の勢力「(ヒ(イ)国」が占めていたとする説(門脇禎二)やカンナビとの関係を思いおこした。この地のカンナビは大黒山だとする伝承があるらしい。
農道にかけたブリッジは、加茂岩倉遺跡ガイダンスと呼ぶ展示・休憩室で、遺跡の全景が見渡せる。 ガイダンス展示室には、出土銅鐸のレプリカが並べられ、ビデオや説明がある。係りの初老の方は、「この遺跡に男女の霊が宿っており、その跋除祈祷のために銅鐸が埋められたと白装束で祈祷器具をたづさえ祓いに来た人が居た。冬の早い夕暮れ時だったので気持ち悪かった。」と話してくれた。
霊が宿りそうな大岩が遺跡の駐車場の側に鎮座していた。もとは、山上にあったものという。 R54に出て加茂中から斐伊川の支流・赤川に沿って大東町に向う。”はたや”付近で赤川の堤防を走る。赤川は風土記の時代から暴れ川だったという。R54をそのまま南下すると、三刀屋・木次に出る。
『出雲国風土記』にも奇稲田姫はクシイナタミトヨマヌラヒメノミコトの名で現れるが、八岐大蛇伝説はない。
すなわち、飯石郡の郷の項で、「熊谷の郷。郡家の東北二十六里。古老の伝えて云はく、久志伊奈大美等与麻奴良比売命、任身て産まむとする時に及り、生む処を求めき。その時、此処に到来りて詔りたまひしく、「甚く久々麻々志枳谷在り」。故、熊谷と云ふ。」とある。 熊谷の郷は、三刀屋町および木次町の上熊谷・下熊谷付近であり、久志伊奈大美等与麻奴良比売命は、古事記の櫛名田比売、日本書紀の奇稲田姫に相当する。(荻原千鶴「出雲国風土記」)


                     
須我神社  15:35~16:20
『出雲国風土記』の大原郡の寺・社の項に「湏我の社」として載っているが、ヤマタノオロチの記載はない。ヤマタノオロチ神話は、出雲国風土記には全くなく、仁多郡の山野/河川の項の恋山の話がヤマタノオロチ伝説と同質だと言う。
出雲大東から海潮温泉を過ぎ、10分ほど車で走ると、熊野大社方向は右に、左が須我神社方向に分かれる。須我神社への峡路は大鳥居が立ち分り易くすぐ神社前に至る。神社前に須我神楽の演舞場(神楽の宿)がある。 神社前の「日本初の宮」とは、八雲山でのヤマタノオロチ討伐の後に、奇稲田姫(クシイナダヒメ)と結ばれ、初めて宮居を持ったという神楽演目に由来する。記紀伝承であり、風土記の世界とはずれる。
社務所と石段の上に拝殿が見える。神社の人は、親切に奥宮のことを教えてくれる。ここも素朴な神社で清々しい。 祭神は、須佐之男命と奇稲田比売命、御子神清之湯山主三名狭漏彦八島野命の三神。この地方の総氏神として祀られていると云うのが社務所の御由緒である。
御本殿はもう見慣れた大社造りである。 須我神社から2km程山村を抜けて、奥宮入口(八雲山登山口)に着く。
八雲山登山口 スサノオ命が「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」と詠ったのが和歌の始まりとして、和歌の碑が奥宮までつづく。 禊ぎ場の水はきれいだ。道はよく踏まれている。雰囲気の良い奥宮への道だ。
木の鳥居に着く。ここが奥宮の結界となる。さらに急な道を上る。 登山口から8分ほどで奥宮に到着。素朴な好ましい磐坐信仰の地である。
夫婦岩と呼ばれる奥宮の御神体。 下から見上げた八雲山の前景。

16:30 海潮(うしお)温泉の宿に向う。
海潮温泉は、『出雲国風土記』大原郡の郷の項に、「海潮の郷。郡家の正東一十六里三十三歩。古老の伝えて云わく、宇野治比古命、御祖須義祢命を恨みて、北の方、出雲の海潮を押し上げて、御祖の神を漂わすに、此の海潮至りき。故、得潮と云う。神亀三年、字を海潮と改む。即ち東北の須我の小川の湯渕の村の、川中に温泉あり。号を用いず。同じき川の上の毛間の村の、川中に温泉出づ。号を用いず。」とある。出雲の海潮とは宍道湖の水。須加の小川は赤川の上流。川中に温泉が現在の海潮温泉である。(荻原千鶴「出雲国風土記」)
現在の海潮温泉は宿屋数軒で、川沿いに湯宿が並ぶ。天保年間創業という「仁井屋旅館」に宿泊。鯉のアライが美味く、泉質はアルカリで清らかな湯であった。
スサノオ伝承は、『出雲国風土記』大原郡の山野・河川の項にあり、「御室山。郡家の東北一十九里一百八十歩。神湏佐乃袁命、御室造ら令め給ひて、宿りし所なり。故、御室と云ふ。」 御室は神の御在所で、御室山は大東町中湯石室田の宝山(470m)とされ、海潮温泉の裏山である。

スサノオ伝承は、意宇郡の郷の項にも、「安来の郷。郡家の東北二十七里一百八十歩。神湏佐乃袁命、天の壁立廻り坐しき。その時、此処に来坐して詔りたまひしく、「吾が御心は、安平けく成りぬ」と詔りたまひき。故、安来と云ふ。」
このようにスサノオ崇拝は古くから出雲全域に定着していたが、崇拝の中心は西部の山中にあったようだ。スサノオ神を奉じた集団は、朝鮮系の渡来集団であり、鉄器・鉄具を作る韓鍛冶部(からかぬちべ)族であり、シャマニックな巫覡集団であるとする説(水野祐など)は興味深い。須佐を中心とするスサノオ崇拝西部・東部出雲の海人族のオオナムチ崇拝とが一つになって出雲神話が出来上がっていると解釈できる。

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