日々是好日
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2021.03.30 五世紀の倭国 その4 渡来人 |
AD314年の朝鮮半島では、高句麗が中國(魏)の出先機関であった帯方郡・楽浪郡を一掃した。以後、朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済と伽耶よりなる戦乱状況に陥る。高句麗は騎馬民族国家である扶余族を母体として、朝鮮半島北部にBC1世紀頃に成立した。同じ扶余の系統をひく半島南東部を占める百済との争いが絶えず、新羅を含めて百済・高句麗との三国時代が始った。4世紀中頃以降に、倭国(日本)は半島南部の伽耶(金官国、安羅などの小国連合)に出先機関を置いて、朝鮮半島のこの覇権争いに介入した。当時の倭国は、魏に朝貢した(景初3年(239))邪馬台国時代から1世紀を過ぎ、中国大陸・朝鮮半島の鉄資源・新技術の獲得、諸文化の吸収を急務としながら国家建設に向かっていた。倭国の初めての自主外交は、4世紀中頃から7世紀末までの約300年間、朝鮮半島の政情不安の中で進行し、朝鮮半島から多くの先進文化・渡来人を受入れた。
加藤健吉著「渡来氏族の謎」 祥伝社、2017 の序章では、上の300年間に三回の渡来人の”渡来のうねり”があったと記す。一回目は4世紀末から5世紀初頭(倭と百済が連携し新羅・高句麗(好太王)と争う 広開土王碑)、二回目は5世紀後半から6世紀初頭(高句麗・長寿王=好太王長男が百済を襲う 熊津遷都、朝鮮半島激動)、三回目は7世紀後半(唐・新羅の連合軍が百済と高句麗を討つ 倭出兵し白村江で惨敗) である。
”一回目の渡来のうねり”は、”神功5年(205+120=325年)に、葛城氏の伝説の祖・襲津彦が新羅遠征・帰還に際し俘虜を伴い、葛城四邑(桑原・佐ビ・高宮・忍海)に住まわせた”との伝承(紀)から始まる。(実際には俘虜でなく、当時政情不安で亡命した百済・伽耶の工人たちと解釈される)
4世紀初頭:高句麗が楽浪・帯方を滅ぼした。 4世紀前半:馬韓(部族国家)→百済 | |||||
369 | 倭が百済派兵(新羅を討つ) 七支刀 | 371 | 倭(百済)が高句麗を討つ | 372 | 七支刀贈与記事(紀) |
391 | 倭出兵(百済・新羅を臣下に) | 396 | 好太王百済出兵 漢城陥落 | 399 | 倭・百済が新羅に侵攻 |
400 | 高句麗が新羅救援(倭・百済に大勝) | 404 | 高句麗が倭の侵攻に大勝 | 407 | 高句麗が倭の侵攻に大勝 |
441 | 広開土王碑 | ||||
403 | 弓月君(秦)渡来伝承 | 405 | 王仁氏(西文)渡来伝承 | 409 | 阿知使主(東漢) 渡来伝承 |
表1.五世紀の倭国の朝鮮半島での動向 ー西暦年は、日本書紀の紀年を干支二運(120年プラス)ー |
日本列島にヒトが住み着いた4~5万年前の後期旧石器時代以来、ヒトはユーラシア大陸、主として朝鮮半島から移住してきた。日本の旧石器時代は氷河期に相当し、海水面は低く北の海は氷で覆われた。津軽海峡(現在の深さ約150m)は閉じることはなかったが、朝鮮半島と本州を結ぶ対馬海峡(現在の深さ約50m)はほゞ繋がり、ヒト、オオツノジカなどが移住したと推定される。地球が温暖化し海水面が上昇した縄文時代以降のヒトの流れも、朝鮮半島経由が主となり、渡島半島・陸奥湾沿岸の北方縄文文化と朝鮮半島・北九州・関西圏・日本海沿岸の縄文文化が拮抗する。紀元前10世紀頃に水稲稲作文化・青銅器文化を携えた弥生文化が、朝鮮半島から北部九州に、渡来弥生人によってもたらされた。半島出身の渡来弥生人は、日本列島に居住していた縄文人に、渡来人的要素を加わえたヒト集団(日本列島人)を作った。古墳時代に起こった”三回の渡来のうねり”は、律令国家、”日本”を構成する”日本人”を作り出す重要なイヴェントである。
”新撰姓氏録”に、”日本人氏族”を定義する最初の記述を見る。”新撰姓氏録”は平安時代初期(弘仁6年)に編纂された人名録で、平安京と畿内五ケ国居住の1182の氏族の系譜記録を掲げる。皇別(神武天皇以降天皇家から分かれた氏族)335氏、神別(神武天皇以前からの天神、天孫、地祇)404氏、諸蕃(渡来人系の氏族)326氏などに分類されている。この他に「未定雑性」として収録された中に渡来系46氏、皇別・神別のうちにも本来渡来氏族と認められるべきものがあり、古代の日本社会の約1/3が渡来氏族となる。
”三回の渡来のうねり”の第一回目(4世紀末から5世紀初頭)と第二回目(5世紀後半から6世紀初頭)、すなわち、”5世紀の倭国の渡来集団”を、千賀 久:「渡来系移住民がもたらした産業技術ー畿内地域の鍛冶生産と馬生産」(吉村武彦他編”シリーズ古代史をひらく 渡来系移住民” 2020.3 岩波書店)を参照して考える。
この時代は、大和地域と河内地域で、渡来集団の援けを借りて、産業(生産)システムの一大変革がなされた時期である。ここでは、急変する海外情勢を背景として、次第に整理・統合されていく大王家(天皇家)と地域首長(葛城氏)の関係の下に、「鉄器産業、兵器産業」の規格化・標準化・量産化が「鍛冶集団と馬飼集団の育成、発展」とともに進展した。
葛城地域に造成された南郷遺跡群は、渡来人(工人・知識人)による手工業技術を集約する南郷角田工房(兵器産業)があり、周囲の小工房(家族的工房)との分業生産システムがとられていたと推察される。角田工房は最新技術をもつ渡来系工人「韓鍛冶」を中心に、金・銀・銅・鉄・ガラスなど各種材料を加工する複合工房であったとされる。工房周辺遺跡からは、技術を伝授する渡来人指導者が住む大壁住居、墓所・墓域としての群衆墳、埋葬品としてのミニチュア土器・金具など渡来人の生活ををバックアップした品々が出土している。5世紀後半に、南郷地域から忍海地域へ拠点が移動する。大王家の権力が強化し、葛城襲津彦系地域連合は崩壊する。
奈良盆地東辺・天理市の物部氏本拠地・布留遺跡でも、渡来人工人による技術革新が進み、橿原市の新沢千塚古墳群とその周辺の集落遺跡では、大伴氏に繋がる有力豪族、渡来人の存在が印象づけられている。物部氏・大伴氏は、河内平野にも拠点をもつヤマト王権創設に関わる最も重要な古代豪族として知られている。
五世紀大王家の墳墓は、河内平野に巨大古墳群を形成した。河内平野は造営集団と産業革新集団が一体化して急速に繁栄した。南郷角田遺跡で始められ系統的な兵器生産は、大阪市長原遺跡(5世紀前半)や河内・大県遺跡(5世紀後半)で、集落を伴う鍛冶工房跡として見つけられる。河内(旧河内湖沿岸を含む)平野部での技術革新は、巨大古墳造営と関連して注目される。堺市綾南遺跡、堺市土師遺跡、東上野芝遺跡、古市古墳群での土師の里遺跡、誉田白鳥遺跡などで、大型古墳の陪塚に納められた大量の武器・農工具などを製作したものと推定される。渡来人を積極的に受け入れ、地域連合と大王家の利害が一致する形で、窯業(須恵器)生産、鍛冶生産、馬生産・飼育事業が施行された。
宮垣外遺跡 SK10 馬の全身骨 (上郷考古博物館 飯田市) 伊那谷(長野)には、渡来人の持込んだ風習として、馬の埋葬墓が多く残る 当時の馬の骨格は”木曽馬”に近い |
産業システムの革新、地域振興・流通システムの整備は周辺地域に及び、信州・伊那谷、大室、群馬・上毛野などに牧(馬の生産地)を作り、東山道など北方への流通システムを強化した。この政策は後の律令国家で、馬の供給と軍事力を東北に依存することに符号する。河内の牧(馬飼)が馬流通の基点として定められた。
五世紀後半(雄略期)になると、大王権力が地域豪族を次第に凌駕し、大王家による全国支配体制が強化した。然しながら、雄略朝の変革があまりにも強引・早急であり過ぎた為に、大王家断絶の危機を招くことになる。第25代武烈大王亡き後、男系相続が見当たらず、越前国に居た応神五世の孫・ヲホド王を探し出し継体大王として擁立することになる。
第26代継体大王擁立の功労者として『河内の馬飼首荒籠(あらこ)』が知られている。継体大王より深い信頼を受け、大和に迎え入れるに際しての功績が伝えられ(紀)、荒籠は大王家を再興した忠臣として河内(四条畷市)の英雄とされる。
2021.03.03 コロナ禍・緊急事態宣言・オリンピック |
中日新聞(2021.03.02) |
白梅 (春日井市緑化植物園) |
3月に入ると、奈良・東大寺二月堂ではお水取り「修二会」が始まる。練行衆(11名の僧)が「お松明(たいまつ)」を二月堂へ上堂する儀式は壮快だ。2005年3月に東京から現地に出向いて見学した。
二月堂を大松明を担いで駆け上り、張出した頭上舞台の前面を、火の粉を飛ばして駆け抜ける。今ではネット動画でいつでも見ることができるが、早春の夜半の寒さを忘れて見る”火の行(達陀=ダッタン)”は格別だ。今春はコロナ禍の影響で、練行衆は儀式の二週前から隔離生活し、PCR検査などして備えた。一般参詣者は二月堂舞台下で”お松明”の火の粉を被って功徳に授かるが、”密”を避ける為に入場制限される。「若狭井」で汲む「お水取りの秘儀」などが、3月13日pm6:30ー7:30 に、NHKBSで放送される。せめてもの”古都の春”に浸りたい。
東海地方(愛知・岐阜)の緊急事態宣言は2月一杯で解除された。首都圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)は2週遅れとなるようだ。昨年は4月をピークとする3~5月の第一波から思いがけない7~9月の第二波、11~3月の第三波へと続いた。左図に見る感染者推移は、現時点までの二波・三波である。第四波がどのような振舞いをするのかは誰も知らない。感染力・感染年齢層の極大化した変異株が現れても不思議でない。突然変異は”偶然が固定化する偶発的な事象”であるという。
COVID19の波状攻撃は休みなく、パンデミックは人間界を沈黙させた。医療従事者達の奮闘、市民の辛抱・努力により、究極の破滅状況は免れたが、一年間のコロナ波状攻撃に全ての人々が疲弊している。ワクチンでの状況打破が唯一の救いとなっているが、現状のワクチン入荷・接種状況では過度の期待は出来ない。
オリンピックの開催の是非が議論される。世論調査では80%が「開催しない方が良い」、あるいは開催しても「無観客」だ。早急に開発されたワクチンに過度の効果を期待するのは少々虫が良すぎる。急場の責任を負わされた組織委員長は、断固とした判断をして貰いたい。中止でも無観客でも世論は諸手を挙げて賛成するだろ。
コロナ禍最中にあって、伝統行事の存続の意義を考える。オリンピックの始まりは政治色・宗教色が強いものであった。近代オリンピックでは、アスリートのアマチュア性、求道的な側面が強調された時代から、商業化・エンターテイメント化・プロ化が進んだ。東京オリンピックの開催は、その成否に拘わらず、新しい概念・価値観を創り出す良い機会となる。
2021.01.31 五世紀の倭国 その3 百舌鳥・古市古墳群 |
図1.巨大古墳の類型と変遷 (同色が同じ墳丘形・類型) 藤井寺市立生涯学習センター 歴史展示室解説図より 天野末喜「倭の五王の時代」平7.3.31 (一部改変) |
図2.前方後円墳モデル (図1の類型(色分け)に使用されたモデル) 後円部径・前方部幅・墳丘長の相対関係により類型が分かれる 前方部幅が大きいのが5世紀巨大古墳の特長 |
5世紀の日本列島は「古墳時代中期」に区分され、近畿南部(泉南・河内平野)に巨大古墳が続々と築かれた。その背景には、海外外交に着手した”倭の五王の中國(宋)への遣使”があり、その外交を先導した地方豪族・葛城氏と中央権力・大王家(天皇家)の権力構造がある。葛城氏は宋への外交ルートにある和歌山・瀬戸内海・北九州の豪族、および朝鮮半島の王家(伽耶・百済)と結び、時には戦いの懐中にも飛び込んだ。
5世紀前後に百済から渡来した弓月君(秦氏の祖)、阿知使主(東漢氏の祖)、王仁氏(西文氏の祖)などの援けを得て、葛城地域は手工業都市化し、先進技術が華開いた。3世紀半ばの邪馬台国時代に前後して考案された「前方後円墳による国政の一元化」は、5世紀になって、古墳の巨大化を軸とするヤマト王権的なヒエラルキーの構築に向かった。更に、ヤマト王権は国内の支配の一元化だけに留まらずに、朝鮮半島・中国大陸の政局の乱れに便乗して、海外進出に興味を示した。ここでは、この時代を物語る「巨大古墳と倭の五王」について整理する。
河内春人著「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(中公親書、2018.1)では、倭の五王と記紀に印される歴代天皇との比定は敢えて重視せず、宋書・倭国伝に扱われる倭国王「讃、珍、済、興、武」の動静をもって5世紀の日本外交のスタンスと国家成立の過程を述べている。
「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)とは、宋書では、讃と珍が兄弟、興と武は済の息子で兄弟、珍と済の関係は不明である。日本書紀での系譜、宋書の記述を正しいとすると、讃を応神・仁徳・履中の何れか、珍を仁徳・反正の何れか、済を允恭、興を安康、武を雄略として定説(?)とすることが多い。実際は確実とされる武=雄略についても河内氏は疑問視していて、確かなことは分からない。
平林章仁著「謎の古代豪族 葛城氏」(祥伝社新書、2013、7)は、「倭の五王」とは無関係に、5世紀の日本列島が、邪馬台国時代の列島各地の豪族の合議制王権から、大和を中心とした大王家(天皇家)支配の政治体制へ移行する過程・背景を、朝鮮半島・中国大陸との交流を通して述べている。
2019年7月、泉南・河内平野に築かれた百舌鳥・古市古墳群(4世紀後半~5世紀造営)が世界文化遺産に登録された。仁徳陵を含む百舌鳥地域(大阪府堺市)の23基の古墳と応神陵を含む古市地域(大阪府羽曳野市・藤井寺市)の26基の古墳が対象となっている。倭の五王の陵墓を含む大王(天皇)墓が指定されたことになるが、日本の正史とされる日本書紀あるいは古事記には、倭の五王の宋への遣使の記事はなく、「倭の五王」がどの大王(天皇)に相当するのかの確証はない。更に、この時代の記紀の陵墓記事の真実性、場合によっては当該天皇や皇子の実在性も疑われることが多く、「倭の五王」の陵墓は見つけ難い。
百舌鳥・古市古墳群の超巨大古墳と大王(天皇)陵の関係は、藤井寺市教育委員会(天野末喜)により継続的に検討された。
図1は、2007.01に訪れた際に手に入れたアイセルシュラホール(藤井寺市)展示図録より転載した。基本的に天皇陵・陵墓参考地は立入禁止なので古墳年代は決め難い。埋葬品が市中に出回る機会、墳丘上の円筒埴輪を調査する機会などを捉えての調査となる。例えば、仁徳陵には約3万本の円筒埴輪が並ぶので、その調査の機会は多くなる。円筒埴輪の編年研究が進展した今日、古墳年代決定の鍵となっている。
図2には、5世紀の巨大化した墳丘規模の特長を表す古墳モデルと注目するパラメータを示す。古墳学者は、二等辺三角形と円の組合せの変化で前方後円墳構造の発達段階を説明する。3世紀半ばから4世紀半ばまでの前期古墳は、文字どうり方形の前方部に後円部が取付いた柄鏡型の前方後円墳であったが、4世紀半ばからの中期古墳は、図2のように二等辺三角形が取付いた形となる。前方部幅が大きくなり、古墳として壮大な形となり、周濠も盾形の幅広いものが常設される。百舌鳥・古市・佐紀(奈良北)の5世紀の巨大古墳のデータを示す。
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(1)周堤に埴輪列、横穴式石室(推定)、出土埴輪(5世紀末) (2)記では白鳥陵は河内国式幾。紀では能褒野、大和琴弾原、河内国旧市邑の三陵。出土品、墳丘形より5世紀後半 (3)出土埴輪、墳丘形から5世紀後半。 家型埴輪など形象埴輪が出土 (4)陵墓参考地 前方部が大きく広がる *(宋への遣使)の項は、倭五王(宋書)の年代に相当する古墳であることを示す 現行の宮内庁治定では、安康陵は「菅原伏見西陵」(奈良市)、雄略陵は「丹比高鷲原陵」(羽曳野市)) 反正陵は田出井山古墳ではなく、土師二サンザイが妥当 百舌鳥・古市古墳群を見渡すと、雄略陵は岡ミサンザイとする説が有望 岡ミサンザイが現仲哀陵であることは年代的に無理がある 百舌鳥陵山*を履中陵とするのは年代的に難しい 履中陵に相当する古墳は謎となる |
世界文化遺産登録を控えて作製された(大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市関連ホームページ)百舌鳥古市古墳群世界遺産/藤井寺市ホームページ/歴史遺産観光/倭の五王の時代/巨大古墳の築造年代に、上記古墳の築造年代についての最新の考察がある。表2に、5世紀に相当する部分を切取り転載する。
年代 | 古墳編年 和田 |
埴輪編年 河西 |
土師器編年 寺沢他 |
須恵器編年 田辺他 |
代表的な大型古墳 | 暦年代の資料 | 倭王の遣使 |
381-400 | 6期 | 第Ⅲ期 | 船橋0-Ⅰ | (TG231・2) | 仲津山(仲姫命陵) 百舌鳥陵山(履中陵) |
389 宇治市街溝木製品(年輪) 391 (辛卯年)広開土王碑 |
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401-420 | 7期 | 第Ⅳ期 | 船橋0-Ⅱ | TK73 | 墓山(応神陪冢) 誉田御廟山(応神陵) |
412 平城宮下層SD6030 上層出土木製品(年輪) |
413 賛 |
421-440 | TK216 | ウワナベ(陵参) 百舌鳥御廟山(陵参) |
421 讃、425 讃 430 倭国王、438 珍 |
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441-460 | 8期 | (ON46) TK208 |
大仙(仁徳陵) 土師二サンザイ(陵参) |
443 済、451 済 460 倭国(興) |
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461-480 | TK23 | 市野山(允恭陵) 軽里大塚(白鳥陵) |
471 (辛亥年)稲荷山鉄剣 | 462 興 477 倭(武)、478 武 |
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481-500 | 9期 | 第Ⅴ期 | TK47 | 岡ミサンザイ(仲哀陵) | 稲荷山出土須恵器 | ||
表2. 5世紀の古墳実年代(暦年代)試案 (藤井寺市ホームページから) |
表2.では、古墳・埴輪・土師器・須恵器の形式変化を、年代をパラメータとして整理し、412年平城宮下層出土木製品と471年(辛亥年)稲荷山鉄剣を年代の定点として、代表的な古墳の年代を定めている。稲荷山古墳の鉄剣銘に現れる「辛亥年」を471年としているので、現在の日本列島に散らばる多くの古墳の年代観と一致する。そして、古墳・埴輪・土師器・須恵器の編年から年代区分を20年間隔に追い込み、倭の五王の遣使時期と当該大王が埋葬された巨大古墳を推測出来るようにしている。
(倭の五王の墓は「各倭王の最初の遣使年は先王の古墳の完成年」と仮定して、讃の先王(先代)の墳墓は誉田御廟山古墳(応神陵)、讃の墳墓は大仙古墳(仁徳陵)、珍の墳墓は土師二サンザイ、済の墳墓は市野山古墳、興の墳墓は軽里大塚(白鳥陵)と比定し、武の墳墓は次代大王が遣使していないのでこの仮定外とする)
上記の藤井寺市ホームページでは、古墳時代草創期・石塚古墳(墳丘墓)から後期・五条野丸山(陵墓参考地)まで、(AD201~AD580)までを20年単位で区切り、代表的な古墳の実年代試案を示している。この時代区分は、国立歴史民族博物館研究報告 第163集(2011年3月 発行)の「古墳出現期の炭素14年代測定」と整合している。
炭素14年代は自然科学的な年代測定技術に依るが、暦年代(実年代、較正年代)への変換が必要なのは編年研究と同じである。歴博論文では、年輪年代の定まった複数の日本産樹木の炭素14年代測定により得られた校正曲線(炭素14年代VS較正年代)を用いている。
従来多用された事物(古墳・埴輪・土師器・須恵器)の編年作業は、年代とともに事物の変遷過程を把握できる長所があるが、本来の年代(時間軸)は事象・事物とは独立に測定される方が望ましい。炭素年代測定では、機械的な測定により客観性が担保されるという利点があるが、測定原理・測定技術・試料準備・暦年代の正確さなどの問題が付きまとう。また、炭素年代から暦年代(実年代)への変換が一定の数学的な過程を踏むことになり、その確立(統計)的内容が議論の的ともなる。巨大古墳(倭の五王)の時代は、暦文化記録の変遷期であり、年代測定についての基本的姿勢を教えて呉れそうにも思われる。