日々是好日
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2020.12.31 コロナ禍の日々
12月末の愛知県の新型コロナ感染状況
(中日新聞)

昨年暮れに、武漢(中國)で妙な肺炎が流行しだしたとのニュースが流れた。楽しみにしていた”2020東京オリンピック”を控えて、中國からの観光客が多い日本は大丈夫かと心配していると、中國経由のクルーズ船が横浜港に係留したままになった。以来、新型コロナウイルスが大手を振って登場し、令和2年の全てが始まった。コロナ禍当初より今に至るまで、終始囁かれる二つの気に掛かる事がある。一つは、「新型コロナは風邪と同じ・・・大騒ぎする必要はない」とする意見と、二つは、「ワクチンさえあれば、全て元の生活に戻れる」と信じていることである。この二つの立場が、感染拡張の勢いが収まらずにざわつく人々を嘲笑う。私は専門家でないが、期限切れ直前のホモ・サピエンスの繁栄と自惚れに危険を感じ、”人類の滅亡”も、あり得るストーリーと心配している。

新型コロナウイルス感染症(COVID19)が話題になり始めた当初より、「正しく怖がる」のが大人の振舞で、”コロナは普通の風邪”と論評し、特別に怖がる必要はないとする立場があった。「正しく怖がる」とは、明治~昭和初期の物理学者・寺田虎彦の随筆集にある”浅間山の火山爆発”でのフレーズである。寺田虎彦が「正当に怖がる」ことの難しさを述べた件が、「正しく怖がる」となったらしい。火山活動が頻発していた一日、現場近くの沓掛駅で登山帰りの学生が、新しく山へ向かう人に「爆発は大したことはないですよ」と見栄を切る光景に出くわしての文章である。寺田虎彦は危機管理など専門分野の広い物理学者で、当日も火山爆発の実態を観察に、観測所まで出かけての帰りであった。当日の爆発はそれ程大きくなかったが、火口への近づき加減、新しく何時起こるかも知れない大爆発について何の予知もなく、「大したことはない」と片づけることは危険極まりないと憂いた。この現実を「正しく」ではなく「正当に」と言葉を選び、状況を客観的に正確に説明することの大切さ・難しさの教訓とした。専門家の良心が見える。

次に、ワクチンに関しての疑問である。ワクチンの有効性・完成度は現状では未知である。あまりにも開発の早さに途惑い、接種希望者が多くないのも無理からぬ所であるが、接種しなければ現状打破は期待できない。まじめな諸外国では、指導的立場にある方々が率先して接種を始めて模範を示している。国内接種は大方の人々に対しては6月頃と聞いている。ワクチン接種までは感染拡大を抑える努力が今一層に大切となる。大多数の人々が接種するまでは、『蜜』を避ける基本的感染対策を必須とする。国内・国外を問わず、ワクチン供給時期は、思わぬ事故で遅れる可能性もあり、感染対策に有効な被接種人数に達するには時間を要する。更に、ワクチン配布の世界的な公平さ、COVID19被感染者の後遺症、変異したウイルスなど新しい問題も次々に提起されてくる。ワクチンの出現で、「ウイルスに打ち克った査証として・・」とか「規模を縮小せず・・」などと言って事を運ぶ状況は、まだ見えていない。

ワクチンはウイルスが間違って人体に害を及ぼすことに対処する。人類がウイルスを知ったのはそれ程昔ではないが、人類の誕生(約700万年前)以前よりウイルスは生存し、生命誕生と進化に一役を担ってきた。ホモ・サピエンス(現生人類)は万物の頂点にあり、他の生きとし生けるものは人類に服すべきものと決めつけるのは怪しい。そして、ワクチンのみならず、ウイルスとの戦いとして、生命体の設計図に踏み込んでの議論が進むとき、人類の叡智への不安と危惧を覚える。
12月初めのNHKーTVで、ユヴァル・ノア・ハラリ氏と在日外国人高校生との「コロナ後の生活」をテーマとした座談会を見た。高校生の的を得た質問には感心したが、結論的にハラリ氏は、コロナ後の人間社会は、元の生活に戻るのではなく、”人類の進化”の方向へ進むかも知れないと話していた。ハラリ氏の”ホモサピエンス史”を画する「認知革命、農業革命、科学革命」に継ぐ「超ホモ・サピエンスの時代」への進化であろう。 とすると、”進化”は世代を越えての大事業であり、今年の「コロナ禍」は終わりの始めなのかも知れない。事の成否を見定めるまで私は生きていない。




2020.11.30 五世紀の倭国 その2 南郷遺跡群と水辺の祭り

古代の宮殿遺跡としては、奈良県明日香村岡の「飛鳥宮殿遺跡」がある。飛鳥宮殿遺跡は、大王(天皇)家の宮殿であり、飛鳥岡本宮(舒明:630~)、飛鳥板蓋宮(皇極:643~)、後飛鳥岡本宮(斉明:656~)、飛鳥浄御原宮(天武、持統:672~)が同一場所にほゞ重なって建てられていて、その構造と変遷は詳細に発掘調査・公開されている。
それ以前の天皇(大王)の宮については、文献資料、日本書紀・古事記によって辿ることができる。書紀によれば、五世紀の大王(天皇)の宮は、応神(難波大隈宮・大阪市東区)、仁徳(難波高津宮・大阪市東区)、履中(磐余稚桜宮・奈良県桜井市)、反正(丹比柴垣宮・大阪府松原市)、允恭(遠飛鳥宮・奈良県明日香村)、安康(石上穴穂宮・天理市田町)、雄略(泊瀬朝倉宮・奈良県桜井市)であるが、考古学的な実相は明らかとは言えない。

 
  葛城・南郷遺跡群

ところが、五世紀の倭国で大王家に匹敵する政治権力を持った地方豪族・葛城氏の本拠地・居住遺跡については、平成4年(1992)以降の橿原考古学研究所による大規模な発掘調査により、その実体(王宮と集落の姿)が、南郷遺跡群として明らかになった。南郷遺跡群は、”葛城の王”の『高殿・祭殿・導水施設』、『首長の居住地』、『武器生産工房、大型倉庫群、手工業生産の指導者(親方)層の居住地』、『鉄器・玉・窯業・ガラス生産を行った一般手工業者の居住地』、『土器棺からなる一般住民の墓地』など、多岐に亘る総合的な「葛城の王都」である。(坂靖、青柳泰介:葛城の王都 南郷遺跡群、新泉社、2011.10)

ここでは、『高殿・祭殿・導水施設』を、「五世紀の地方豪族の”水辺の祭り(祀り)」の観点から整理してみる。弥生時代から古墳時代、「クニ」から「国」への変革期では、ヒトを集める装置としての”水辺の祭り”を中心に据えた街(マチ)作りが全国的に行われた。1980年代初頭に発見された「三ツ寺Ⅰ遺跡(群馬県)」の首長居館(本HP2007 遺跡・考古館 07/02 2.上毛野)での”水辺の祭り”を典型として、三重県の城之越遺跡(本HP2012 春夏秋冬 10/05/29)にその全景全様を、三重県・宝塚1号古墳(本HP2012 春夏秋冬 10/05/29)、群馬県・保渡田・八幡塚古墳(本HP2007 遺跡・考古館 07/02 2.上毛野)及び大阪府・摂津・今城塚古墳(本HP2015 春夏秋冬 15/05/25)の造り出しに並べられた埴輪群などに、”古墳祭祀の中での水辺の祀り”を見ることができる。(若狭徹:古墳時代の地域社会復元 三ツ寺Ⅰ遺跡、新泉社、2004,2)
「南郷遺跡群」の南端地域、高台より川沿いに位置する「極楽寺ヒビキ遺跡」、「南郷大東遺跡」、「南郷安田遺跡」は、王の高殿・水濠、貯水池・木樋を含む導水施設、大型掘立柱のある祭祀場に相当する。これらの「水辺の祭祀場の全景」は、三重県・伊賀上野の「城之越遺跡」で見事に再現されている。「城之越遺跡」は、埴輪列を持つ石山古墳に近く、両遺跡に関係する地域首長の祭祀場と推測される。

 
三ツ寺Ⅰ遺跡
上越新幹線高架下の発掘地点に据えられた説明板
 城之越遺跡
左に高床建物の木柱列と祭の広場、右に「水辺の祭」の導水・溝・泉水施設
   
 城之越遺跡の祭り広場(掘立柱建物付近)
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掘立柱建物・柱跡
  城之越遺跡  水辺の祭りの施設中心部(水辺に立石が見える)
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泉水の場がある 
 
 宝塚1号古墳 北側くびれ部に土橋で繋がる造り出しがあった
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造り出し(拡大)には、円筒・家型・囲形・蓋形・船形などのはにわ群が並べられ、古墳側端に水辺の祭りを表現されていた
  宝塚1号古墳(はにわ館)
泉水場を表現する埴輪(覆屋の床下に泉水の噴出口がある)

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埴輪列の家型はにわ 

五世紀は文字が伝来した時代であるが、形象埴輪が始めて現れた時代ででもある。”王の高殿”、”導水施設での覆屋”、”祭祀場”の実際は、”祭り”を主催した地方豪族(首長)の古墳に並べられた埴輪列が説明する。三重県・宝塚1号古墳の造り出し部に据えられた埴輪列(松坂市文化財センター「はにわ館」)の一部には、家屋・泉水・導水覆屋からなる”水辺の祭祀”と祭祀場が表現されている。群馬県・保渡田八幡塚古墳では王位継承儀礼での水宴が示され、摂津・今城塚古墳では大王を中心とす儀式の一部に”水の祭り”が催されることを伝える。

古墳時代初期にヤマト盆地南東部で始まったヤマト政権では、三輪山を神奈備(かんなび)とし、磐座(いわくら)信仰を”祭り”の中心に据えていたと解される。記紀には垂仁天皇の御代に、三輪山の神(国つ神)とアマテラス(天つ神)を同所に祀った為に不幸が相次ぎ、大物主の子という陶邑のオオタタネコの進言に従いアマテラスを別所に遷し、アマテラスは旅に出て伊勢に遷り住むようになる。記紀によれば、アマテラスを伊勢大神として拝したのは、壬申の乱(672年)での大海人皇子(天武天皇)で、壬申の乱後に、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅として天皇制が確立したと私は理解している(本HP2012 春夏秋冬 12/01/30)。五世紀には、有力豪族(葛城氏など)は”水の祭り”を中心に祭祀を執り行ったようだ。天武・持統以前の、押坂系統で皇祖母尊と特別視される皇極(重祚して斉明)天皇(本HP2019 日々是好日 19/12/19)が、飛鳥の諸遺跡に”水の祭祀”を重視した遺構を多数遺している事実は意味深い。更に想像を広げると、持統天皇の度重なる吉野御幸と”水辺の祭祀”との関連に注目することになる。

”水辺の祭り”は、”太陽、星、月など自然を信仰の対象”とする「原始信仰」と括られ、ヒトの交流を促がした。縄文の昔にも、新潟県村上市・奥三面ダムの湖底に沈んだ元屋敷遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡などに、その原型を見ることができる。紀元後五世紀頃までは、多数のヒトが一堂に介する機会を持つことこそが、ヒトの進化を促す時代であった。

三輪山 狭井神社(大神神社摂社)から三輪山へ登る(礼拝登山)と、辺津磐座、中津磐座を経て、山頂・奥津磐座に達する



2020.10.28 五世紀の倭国 その1

2003年3月、飛鳥・奈良の旅”で「葛城(かつらぎ)の古道」を歴史散歩した。アジスキタカヒコネノミコトを祭る高鴨神社、タカムスビノカミを祭る高天彦神社、一言主大神を祭る一言主神社などの古社を尋ねながら、葛城・金剛山麓に暮らした弥生中期の鴨一族、古墳時代の葛城氏、そして後に入植した蘇我氏に思いを馳せた。高天ケ原伝承地が高天彦神社奥の白雲峯にあり、日本古来の神々が織りなす風景がある。以後、日本各地の遺跡・考古館を尋ね、「日本の国・日本人とは・・・」に興味を持ち続けた。ホモサピエンスとしてアフリカで誕生以来、短く見積もっても4~5万年前からの”日本列島でのヒトの生活”を学ぶことを老後の楽しみとしている

約5万年に及ぶ日本列島の歴史の中では、社会を変え時代を画した幾つかの事件があった。ヒトが起こした事件・画期のほかに、人知の及ばない事件、気候変動(寒冷温暖化)・地殻変動(火山爆発・地震)・大洪水など”まさかの自然災害”がある。疫病災害もその一つで、現在進行中のコロナ禍などは、人類の将来を左右しかねない大事件とも捉えられる。
現在、世の中には混沌とした空気が漲っているが、殊更に、古いヤマト(奈良県)の一地域『葛城』に焦点を合わせて、五世紀に芽生えたクニの息吹を眺めてみたい。『5世紀の大王家と葛城氏、王都・南郷(なんごう)遺跡群、倭の五王と渡来人の活躍』を再確認して、希望の持てる将来を獲得する産みの苦しさを振り返ってみたい。そこには、新しい社会の方向性が、捨て去るべき古い軋轢が混在しているのが見えるかも知れない。歴史はその時点での進む道を選択する事で作られる。過去を選び直すことできない。5世紀は「3世紀半ばのクニ(国)が誕生した邪馬台国の時代」に次いで、2番目の画期として「海外進出に向かった倭の五王の時代」ででもある。クニ(国)として始めての経験を、渡来人の手助けの下に試行錯誤した跡が遺っている。この画期を境に、「倭国」と呼ばれた列島が東アジアにデビューし、政治勢力としての「日本国・律令国家」へと動き出した。

中國の史書に、日本列島『倭(わ)』についての記事が最初に現れたのは、「魏志・倭人伝の明帝の景初3年(西暦239年)に、倭の邪馬台国からの使者が来た」記事である。この事実は日本の史書”日本書紀”では神功39年に、年代を誤った記事として現れる。次に中國の史書に「倭」が現れるのは、宋書・倭国伝などの記事「西暦421年頃から、倭国王・讃など倭の五王(讃・珍・済・興・武)が使者を通じて貢物を献じ、中國皇帝の臣下に入る(冊封される)ことを願った」である。この歴史事実は、日本の史書には現れない。倭の五王が日本(倭)の天皇(大王)の誰に相当するかは、干支二運(120年を加える)して日本書紀と中國・朝鮮の歴史書の紀年と一致させることを考慮しても、明かでない。中國史書に記された王たちの兄弟関係などを参考にして、「讃は、応神、仁徳、履中か?珍は仁徳、反正か?として、済は允恭、興は安康、武は雄略とする」のが一般的だが、最も信頼されている武=雄略が疑問視されることも多い。

日本の史書・日本書紀の五世紀は、高句麗との戦い、三韓征伐、百済・新羅・伽耶との交流・離反の記事に費やされている。日本書紀は三通りの編成よりなる。一つは「神話」、二つは「神懸り話と事実の混成」、三つは「歴史事実の記載」である。文字・暦の正確な導入が進むと、過去の事件が正確に記述されるようになる。葛城地域(葛上、忍海)の過去の姿は、遺跡の発掘調査により再現可能である。南郷遺跡と周辺の古墳群、更には五世紀の葛城周辺地域の豪族の動きと、早くからヤマト王権と歩調を合わせた尾張、丹波、越、毛野などの動きも、各地の遺跡・遺物調査を集大成して新しい知見が見出されるようになる。考古資料は無口であるが、嘘はつかない。受け取る側の解釈次第となる。

 
  平林章仁「謎の古代豪族 葛城氏」祥伝社、2013.7、
p.29 葛城氏と天皇の略系図 を一部改変

「五世紀の葛城」について、幾つかの論点を記す。

1.南郷遺跡は、葛城地域に造り上げた5世紀・古墳時代のテクノポリス・流通センターである。弥生時代の北九州・須玖岡本遺跡(奴国)と同様なイメージとして理解する。
2.大王家(後の天皇家)と葛城氏(時の有力豪族)は、葛城地域を基地として朝鮮半島・中國大陸への進出を果たした。葛城氏と大王家は、強い姻戚関係を結ぶが、両家のバランスは長くは続かなかった。同様な姻戚関係は、後の蘇我氏と押坂系(斉明・天智・天武・持統系)に似ている。押坂系が現在に至る皇統を作っり上げた。
3.ヤマト東辺の三輪勢力・大王家は大和川・淀川水系・河内湖・山城から瀬戸内へ、ヤマト西辺の金剛山麓の葛城氏は、河内から瀬戸内・丹波・朝鮮半島へ、これらの経路に加えて、紀の川沿いの流通路を確保した。
4.大王家は、三輪山信仰を始めとして、伊勢大神に繋がる祭祀体制を作りあげたと見る。
5.5世紀の河内平野に広がる巨大古墳造営事業は、奈良盆地側からから始まったのか、河内平野側から始まったのか?  渡来文化、騎馬民族国家征服論、高句麗と扶余の関係なども、この時代の背景として注目する。
6.河内平野と瀬戸内海、加古川・丹波の経路、および伊賀・上野・伊勢への経路は、その遺跡群と葛城の関係で注目する。
7.百舌鳥古墳群と古市古墳群(内陸部から瀬戸内側から)、同時期に存在した内陸部の馬見古墳群と佐紀古墳群、前方後円墳体制(柄鏡形から盾形へ)・盾形周濠の確立、ヒエラルキー確立など
8.5世紀を通して、地方豪族(地域社会)と古墳文化(東海、美濃、信濃。武蔵、毛野など)、伊那谷の馬匹文化の発展がある。
9.渡来文化に大きく影響を受けた在地の祭祀集団/土師氏と超巨大古墳の造営、大王家の関与と支配の有り方?
10.渡来人文化/東漢・西文、弓月君ー秦氏、王仁、的臣、/文字文化、鍛冶技術、馬匹文化は豪族支配か?
11.尾張・美濃の豪族(志段味古墳群と尾張氏、坊ノ塚古墳・琴塚古墳と村国氏、弥勒寺遺跡とムゲツ氏)、 7世紀(672年)に起こる”壬申の乱”での活躍


五世紀代に活躍する葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)の遠祖である伝承上の人物・葛城垂見宿祢の娘であるワシヒメは、記によると開化天皇(3世紀)の后であり、ヤマト盆地東の三輪の大王家と結びついていた。ワシヒメの生んだタケルトヨハヅラワケ王は、葛城・河内・丹波・因幡・越の王の祖とされ、葛城垂見宿祢の垂見は葛城から和泉・茅渟の海・丹波・丹後の中間地(垂水)を支配していたとの説がある。門脇禎二「葛城と古代国家」(講談社学術文庫、2000.5)は、この葛城国のルートの他に、奈良盆地東方の倭国(大王家)のルートがあり、三輪山麓から北へ和珥・筒木・乙訓から木津川・桂川から丹波へのルートと南に紀の川・大阪湾・瀬戸内へのルートがあったとしている。実際に、丹波の前期古墳の充実ぶりを目の当たりにすると、五世紀に入る以前より丹波が重要な地であったと理解できる。この地の5世紀の大古墳造営はやや遅れていて、前期古墳時代の充実と葛城勢力の進展とは同じに扱えないのかも知れない。

実在の人物・ソツヒコ以降の葛城氏は、その娘の磐之媛が仁徳天皇の后となり履中・反正・允恭天皇の母となった。そして、葦田宿祢の娘(黒媛)が履中天皇の后となり、ソツヒコ系・円大臣の娘・韓媛は、雄略天皇の后となり清寧天皇を産んだ。応神天皇の後宮の一人・葛城野伊呂売がソツヒコの妹であることより、5世紀の天皇家は、第15代応神天皇より第25代武烈天皇までの十一代の中で、安康と武烈を除く九代までが葛城氏の女性を母もしくは后としていた。このような特殊な姻戚関係は、葛城氏の他に蘇我氏、息長氏、和珥氏などが知られている。

四世紀末から五世紀始めを中期古墳時代の始まりとすると、この期に古墳築造に関して大きな変化が見られる。前期古墳の柄鏡型から盾形周濠をもつ前方部の発達した超大型古墳の出現を見、大王・豪族、更には大王家を頂点とするヒエラルキーが確定した。大王支配圏は近畿・山陽・東海・関東・群馬で強固となり、四国・九州全域では地域差が大きい。九州全域を含み東北以南で大王支配が確立するのは、継体期の「筑紫君磐井の乱(528年)」以降とも解される。東北・北海道を含む後の日本全土の支配体制は、更に遅れる。

葛城氏と大王家がタッグを組み、倭の五王の中國(宋)への遣使は、421年の讃を始めとして、479年の武を最期とする。朝貢・冊封から始まった遣使は、武の「征夷将軍号」獲得をもって、その必要性が失せた。その間、僅か58年の国内・国外の大変革の早さは、現代に比しても驚きを禁じ得ない。然しながら、その早急さは、大王家と葛城氏の乖離、大王家の内紛・衰退など非常事態を招き、応神五世の継体大王の登場を待つことになった。時代の変革の急ぎ過ぎには、慎重さと謙虚さが必要だったようだ。次回からは、五世紀の諸事情をもう少し詳細に調べてみたい。

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