熊野古道と熊野三山 1/4(和歌山県・田辺市)

中辺路(滝尻~近露) 中辺路(発心門~本宮大社) 本宮大社 大日越(大斎原~湯峯温泉)
速玉大社・神倉山(ゴトブキ岩) 大門坂・那智大社・那智大滝

今回旅した”熊野古道と熊野三山”では、中辺路(熊野川を含む)、本宮大社・速玉大社・那智大社、青岸渡寺、那智大滝と原始林、補陀洛山寺が、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年7月に世界文化遺産として登録されている。
世界文化遺産とは、「UNESCOの世界遺産条約(世界中の顕著で普遍的な価値のある文化遺産・自然遺産を人類共通のたからものとして守り、次世代に伝えていくことの大切さを唱えている国際条約)の中で、顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など」として定められている。

「中辺路(なかへち)」は、平安時代に上皇・法皇・女院・貴族の熊野三山参詣道として設定されたルートである。京都から淀川を下り、大坂・窪津から紀伊半島を大阪湾・紀伊水道沿いに紀伊田辺に至り、ここより山中を滝尻、近露、熊野本宮へと東進し、速玉・那智を巡る。滝尻までも所々に古道が残存するが、滝尻から本宮までの道が一貫して熊野古道が復元・再生されている。
白河上皇熊野参詣に際し、園城寺・聖護院の増誉(ぞうよ)が三山検校に補任され先達(せんだつ)を務めた。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇など院政の主役は、盛んに熊野詣を行った。熊野での接待は、御師(おし)である熊野別当が務めた。熊野別当は政治・経済・軍事的にも富んでいた。後鳥羽院が関与した承久の乱(1221)以後は、亀山上皇を最期として上皇の参詣は途絶えたが、一遍上人をはじめ念仏聖・高野聖・勧進聖の組織化と浄土思想の武士・庶民への浸透が熊野詣を活発にした。娘道成寺の安珍は熊野詣の旅僧であり、小栗判官の蘇生物語は熊野詣を舞台とする。これらは、お寺での絵解き、熊野参詣図や熊野十界図をたづさえた山伏・熊野比丘尼により全国に流布された。
「熊野」は、”隅野”、”隠国(こもりく)”であり、神仙思想での”常世の国”、幽冥界としての”黄泉の国”、浄土思想での”死の世界”を内包した文化遺産として残されている。
熊野古道としては中辺路の他に、田辺から那智を巡る大辺路、高野山から本宮への小辺路、吉野からの大峯越、伊勢から新宮への伊勢路がある。大峯越は険しい修験道の聖道であり、修験道者または山岳登山者でなければ迂闊に入れない。伊勢路は関東からのアクセスも良く、部分的に古道が復元されている。
中辺路(滝尻~近露) 中辺路(発心門~本宮大社)
滝尻王子から近露は、熊野古道の面影が比較的よく残っていると言われている。仲間11人の旅として、東京を朝発ち、近露まで歩けるかどうかは不安だったが、5月中旬(17日)の日の長い頃だと可能であると計画し、「ひたすら歩き通す組」と「熊野古道舘で語り部の話を聞いてゆっくり散策する組」に分かれての古道歩きとした。後者は、高原霧の里で栗栖川に引き戻し、バスで牛馬童子口まで行き、箸折峠を近露まで歩く。
小雨模様だったが霧もなく、両組ともPM5:00~5:30に近露の宿に到着した。この日のハイライトは、明月記(定家)などに記される参詣の苦渋をしばし味わうことである。
翌日、近露から発心門王子まで行き、発心門王子から本宮大社までの緩やかな熊野古道の最終行程を楽しむ。熊野大社参拝と昼食に充分に時間を割いた後、大斎原(おおゆのはら)に立寄って、湯峰温泉へ大日越する。
この日のハイライトは、発心門王子でいよいよ大社の聖域に入る」ことに感涙し、伏拝王子で始めて大社を仰いだ往時の熊野古道を散策することと、熊野大社参拝・大斎原・湯峰温泉という湯登神事のコースで古代熊野信仰に思いを馳せることである。
      


中辺路 滝尻~近露 
羽田発AM9:10のJAL機は出発が遅れて15分遅れの10:40に白浜空港に到着した。10:36発の明光バスは飛行機の到着を待っていてくれて10:50に出発し、滝尻(たきじり)には11:25に到着した。総院11人中、3人が11:35出発の近露(ちかつゆ)まで通し歩き希望であり、少しあわただしい。残り8人は、12:20まで熊野古道舘・滝尻王子で語り部・木下さんの話を聞いてゆっくりだが、少しゆっくりし過ぎて、25分遅れの11:45の近露への出発となる。余裕ある歩きを計画していたので、高原霧の里休憩所までにほぼ取り戻すことが出来た。
12:19 熊野古道舘と滝尻王子は国道371(至大塔)を挟んで建つ。滝尻王子前は広場になっていて滝尻茶屋と休憩所がある。王子では”禊ぎ・祓い”を行う所であるが、五所王子(若宮、禅師宮、聖宮、児宮、子守宮)を拝す場所とか産土神(うぶずながみ)を祀ったとかの説もある。 12:29 滝尻王子は五体王子の一つ。五体王子は、藤代、切目、稲葉根、滝尻、発心門の五つで、熊野九十九王子の中でも特に格式が高い。上皇御幸の場合には、歌会や神楽が催された。
12:27 現在は王子の左を抜けて山に登って行くが、昔は右側の急斜面を直接登ったという。 12:45 出発 まず乳岩・不寝王子に向って登っていく。
13:01 藤原秀衛の故事が伝えられる「乳岩」 13:04 不寝王子(ねずおうじ)は滝尻王子から500m。ここからも急坂がつづく。この辺りが現在の熊野参詣道の険路である。
14:09 坂を登りきり、一度ホソー路に出て、再び左の地道にはいる。ここからは穏やかな山道がつづく。 14:09 道端に野地蔵がある。
14:33 民家が現れると、フラットな尾根道になる。 14:33 清々しい道がつづく。
14:36 北側の展望が開ける。小雨上がりで霞がたなびく。 14:44 高原熊野神社 中辺路の中で最も古態をとどめているとされる室町期の春日造りの社殿。
15:00~15:09 霧の里休憩所は小奇麗に整頓されていたが、人気は全くなかった。北側に開けて棚田の向こうに、富田川(とんだがわ)を挟んで笠塔山・安堵山・果無山脈(はてなしさんみゃく)が連なる。持平山と笠塔山の奥が龍神温泉・高野山で、安堵山の右奥が吉野である。駐車場がありここまでは自動車道がある。ようやく出会った主婦に紀伊中川への道を尋ねるが、最近は自動車を使うので中川への道はよく分からないと言う。最近国道から古道への道として整備されたのだろう。しかたなく、標識を頼って間違いのない栗栖川への近道(山道)を下る。
15:40 来栖川バス停は、バスターミナルになっている。JRバスと連絡している。15:45の龍神交通バスに乗る。 15:59~16:04 牛馬童子口の南側には道の駅「熊野古道中辺路」
16:05 牛間童子像・近露に向って歩き出す。 16:09 旧国道をまたぐ。
16:24~16:31 今日のハイライトの一つ。花山院が実際に熊野詣したかどうかは不明である。それでも、花山院が昼食のため萱を折り箸にしたので「箸折峠」、萱の軸が赤いのを見て「血か露か(近露)」と尋ねたという伝説がある。 牛馬童子像(以外に小振り)と役行者像(下駄を履いているのでそれと分る)
16:35 近露への下りは、石が敷いてあり雨上がりは滑る。日置川(ひきがわ)の丸まった石をそのまま敷詰めたらしいが危険。もっとも地道のままだと泥道になりそうだが・・・。 16:37 途中に、日置川・近露の集落を一望する展望所がある。
16:52 近露王子跡 「近露王子之跡」の石碑の筆跡は、大本教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう:1871~1948)のもの。氏は京都府・園部の出身で、大本教の開祖・出口なおの娘と結婚した。平田篤胤の思想を根底にしたが、出雲の本来の祭神であるオホクニヌシよりもその親神のスサノヲを中心とし、霊(幽)界を語った。大正・昭和の<伊勢>を主流とする国情や神道内部からの批判を受け、大正7年には不敬罪で、昭和10年には”国体”を乱すものとして、二度検挙された。
17:04 民宿「ちかつゆ」に到着する。


中辺路 発心門~本宮大社  つぎへ
7:24 近露王子から龍神バス
8:35 猪鼻王子からの中辺路 8:36 発心門王子
8:37 本宮へは少しバス道を引き返し、右の道に入る。 8:49 トイレ・休憩所を過ぎて本日の行程が始まる。標識通りに歩く
8:57 八咫烏をもじった”猪おどし”は水を流す時に羽ばたく。道端に木細工や杖を売る無人のお土産小屋がある。 9:08 廃校に鯉幟がはためくのが見えると水呑王子である。
9:10 水呑王子 9:22 雰囲気の良い小雨の熊野古道
9:29 山村の民家は癒しになる。 9:45 小高い丘を越えてきて伏拝王子に到着する。
9:45~10:19 伏拝王子  前方の大斎原は霧の中
10:19 NHKの朝ドラ撮影の説明をするおじさんが居る茶畑。下の家が舞台になったそうだ。奥に王子の休憩所。 10:39 緩やかな熊野古道
10:42 三軒茶屋跡にはベンチがとあり、九鬼ケ口関所が再現されている。 11:24 祓戸王子
祓戸王子の「禁殺生穢悪」 11:28 熊野本宮大社には裏から入ることになる。
相殿の屋根が見えてくる。千木と鰹木が緑の中に新鮮に見える。 ~11:32 拝殿に回りこむ。
12:04~12:30 那智大社斜向かいの「山村開発センター」のロビーを借りて”おにぎり”タイムにする。

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