春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (12)

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13/09/21 上郷考古博物館と遠山郷・下栗の里 (飯田市)

飯田市上郷考古博物館で、南信の先史時代を学ぶ。
興味深い遺物が整理されて展示されている。
縄文中期後葉の下伊那唐草文土器が注目される
弥生時代の外来系土器。左から:留甕(大和)、
5の字甕(北陸)、S字甕(尾張)、タタキ甕(畿内)
古墳時代には、馬が丁寧に埋葬された。

9月18日、リニア新幹線の東京ー名古屋ルートが正式に決定した。甲府市から25kmのトンネルで南アルプスを貫通し飯田市に至る。飯田駅は上郷飯沼(カミサトイイヌマ)附近となる。
その約一週前、台風18号が日本列島を襲う前々日に、飯田市上郷考古博物館を訪れた。

上郷考古博物館では、縄文・弥生・古墳時代の伊那谷の文化の有り様を学ぶことが出来る。

縄文時代・中期後葉の下伊那唐草文土器の地域性と周辺地域との交流が興味深い。平成17年度秋季特別展示された時の図録によると、中信・松本平で見かける唐草文土器と兄弟関係にあり、変遷の過程で、八ヶ岳周辺の曽利式土器、関東平野の加曽利E式土器、美濃・愛知の中富式土器から多くの影響を受けている、と解説されている。弥生時代になると、大和を含む畿内、尾張、北陸の土器が伊那谷に入ってくる。古墳時代には、中信・松本平の弘法山古墳(前方後方墳)や北信・善光寺平の森将軍塚古墳(前方後円墳)のような前期の大規模古墳は見られないが、南信・伊那谷では、馬が埋葬された5世紀代の古墳が発掘されている。中央王権からの指示なのか、山岳地帯の物資運搬の必要からなのか、古墳時代中・後期には牧運営を核とした馬匹文化が栄えたようだ。先史時代の遺跡は、天龍川に流れこむ幾つかの支流に沿って見つけられている。各時代の出土品も豊富で、綺麗に整理されて展示されている。目的を決めて、じっくりと一つ一つを丁寧に見たい。

大沢岳、聖岳、上河内岳を背景とする下栗の里の上部
赤い屋根の向こう(東側)に、段々畑と民家が並ぶ。
谷底には兎岳・聖岳を水源とする遠山川が、
天竜川目指して流れる。
北側に廻りこみ、天空の里ビューポイントから
下栗の里全景を眺める。
晴れていれば、しらびそ峠(1833m)からは、
荒川岳、赤石岳、大沢岳、
前聖岳(左から)など南ア連峰が見える。
リニア新幹線は、左奥の赤石山脈を貫き、
飯田市上郷飯沼へ・・・。
御池山隕石クレーターの全景 : 
正面の尾根がクレーターの縁。

飯田市街から天竜川を越えて東へ、伊那山脈を矢筈トンネル(三遠南信自動車道)で抜けて程野へ、国道152号の上村から狭路を”下栗の里(シモグリノサト)”に向う。

素朴な景色、山間を結ぶ林道、秋葉街道沿いに南下する”霜月祭り”などに魅せられて半世紀前から幾度となく通った地であるが、2004年の”霜月祭り”以来久しく来ていない。

現在の飯田市上村・南信濃(遠山郷(トオヤマゴウ))は、昔は「陸の孤島」・「日本のチベット」と噂された。現在では山の斜面にへばりついた”下栗の里”は、「天空の里」・「日本のチロル」と称されている。標高1076mのそば処「はんぱ亭」に飯田市の観光出張所があり、そこから徒歩・約20分の山の斜面に、当地のボランティアが整備したビューポイントが設けられている。観光出張所には、周辺の地図などが用意されている。「南信州山城マップ」は、最近のお城ブームに応えている。伊那谷は、鎌倉時代の居館としての山城、南北朝内乱期の宗良親王(むねよししんのう;後醍醐天皇の皇子)の足跡や、武田・織豊・徳川が覇を争った戦国時代の歴史が渦巻いている。

国道152号線は、大断層(中央構造線)に沿って浜松市水窪につながっている。南ア連峰の直近を通り幾つかの南アへの登山口がある。秋葉街道とも呼ばれ、古くからの秋葉神社(浜松市秋葉山の本宮)参詣道だが、昭和年代には「国道でなく酷道」と評され、遠山郷へのアクセスは極めて悪かった。現在でも、大鹿村と程野間の地蔵峠は林道で迂回し、長野・静岡県境の青崩峠はヒョー越峠を林道または三遠南信自動車道・春木トンネルで迂回する。大断層地帯は地崩れしやすい所が多く、直線的なルートが不可能となる。しかしながら、中央構造線とフォッサマグナが同居している秋葉街道周辺は、地質学的な見所も多い。ゼロ磁場(?)のパワースポットとする分杭峠(駒ヶ根市)や学術的な価値が高い中央構造線博物館と構造線地層の露出地点(大鹿村)などは興味深い。
下栗の里からは、遠山郷としらびそ峠を尾根上で結ぶ南アルプスエコーライン(4m幅舗装道路)に入り、南ア連峰を千尋の谷越しに見ながらの山岳ドライブを楽しんだ。しらびそ平(標高1833m)近くでは、大自然の驚異を感じる”御池山隕石クレーター”を間近に見た。


13/09/07 名古屋市博物館と見晴台考古資料館 

名古屋市博物館正面 
名古屋近辺の縄文(前期・中期・後期)土器展示
白鳥塚古墳の石英礫(葺石)  
西大久手古墳出土の人物・鶏形埴輪
9月になっても酷暑・猛暑が続いていたが、その終焉では、竜巻と集中豪雨をともなう天候異変が関東・東海地方を襲った。 そんな最中に、瑞穂区の名古屋市博物館に出かけた。常設展は、「尾張の歴史」をテーマとしている。奈良・平安時代の猿投窯、中世の窯業、信長・秀吉による”尾張の統一”、近世の尾張など興味深い展示が多いが、今回は、日頃気になっている愛知県の旧石器・縄文・弥生・古墳時代の発掘調査出土品に焦点を当てて見学した。展示品の写真撮影は申請書を出して許可された。

ミュージアムショップでは、当博物館所蔵の資料を纏めた図版目録”愛知の縄文遺跡”と”常設展ガイドブック”を購入した。ガイドブックには、名古屋市周辺のおもな旧石器・縄文時代の遺跡、弥生時代の遺跡、古墳時代の遺跡が図示されている。海岸線の移動と生活形態の変化(漁労、採取から水田稲作へ)とともに、海岸部・丘陵地帯から内陸沖積地・河岸段丘部に遺跡が移り、生活圏が広がったのが分る。

東谷山および志段味古墳群からの出土品が常設展示されていた。白鳥塚古墳(国史跡)の後円部墳頂や墳丘斜面に散布されていた多数個の白色石英礫が展示されていた。白鳥塚古墳は墳長115m、後円部径約75m・前方部長約43mで、4世紀前半に築かれ、柳本行燈山古墳(奈良県天理市)や玉手山7号墳(大阪府柏原市:墳長110m)などに類似している。石英を葺石に使用することも行燈山と同じという。白鳥塚古墳に隣接する東谷山の尾張戸神社古墳(4世紀前半)・中社古墳(4世紀中頃)でも葺石に石英礫が見つかっている。

奈良盆地東南部に位置する3世紀末から4世紀前半の大型古墳としては、纏向古墳群の箸墓古墳(墳長276m)、大和古墳群の西殿塚古墳(墳長234m)、柳本古墳群の行燈山古墳(墳長242m)と渋谷向山古墳(墳長300m)、そして桜井南部の桜井茶臼山古墳(全長200m)とメスリ山古墳(全長(全長224m)がある。箸墓古墳は卑弥呼の墓とされることもある。造営年代は3世紀後半から4世紀前半で、箸墓が最も古く、次に西殿塚が造営された。これに続く行燈山と桜井茶臼山・メスリ山の順序は諸説あり、渋谷向山が最終期とみられている。これらの大型古墳(大王墓と見られる)の造営により古墳時代が始まり、大和王権の濫觴となった。箸墓、西殿塚、行燈山と渋谷向山古墳は陵墓指定され、通常は立ち入れない。桜井茶臼山とメスリ山古墳は陵墓指定がなく、2009年の桜井茶臼山古墳の発掘調査の現地説明会では主体部まで見学できた。

尾張平野の古墳時代には、庄内川に沿って多くの古墳が築かれた。5~6世紀に築かれた断夫山古墳・味美二子山と志段味古墳群は、継体大王期の尾張氏との関連で議論される。これらと一線を画して、4世紀に築かれた東谷山の古墳と山麓の白鳥塚古墳が、大和の初期大王墓・行燈山古墳(現崇神陵)との類似性で議論されるのは興味深い。

名古屋市見晴台考古資料館(2013.4撮影)  
環濠遺構が花壇で示されている
名古屋市南区の笠寺台地は、縄文・弥生時代の遺跡が多い。台地状地形のために、いつの時代でも標高が保たれた地である。遺跡調査の為に用地買収した笠寺公園内に見晴台(みはらしだい)考古資料館が建つ。用地の中心は見晴台遺跡であるが、公園内には桜田貝塚(弥生後期の集落遺跡)もある。見晴台考古資料館では、当遺跡からの出土品のほか、市内各遺跡の発掘調査での出土品の収蔵・展示・調査研究を行なっている。

見晴台遺跡内には、屋舎で覆われた竪穴住居跡観察舎もある。資料館を囲むように弥生後期の環状の溝遺構が発掘されている。溝を再現した施設もあり、最近見つけられた溝は、花壇にしてその遺構が示されている。毎年、夏休み期間に会わせて、市民参加型の発掘調査も続けられている。今年で第53次を数えていて、発掘状況見学会なども催されたが、炎天下の行事参加には体調を考えて遠慮した。当館では、定期的に考古学をテーマにした講演会や特別展なども催されている。太平洋戦争(第2次世界大戦)中は、高射砲陣地となり、昨年、B29の破片などもみつかっている。

笠寺台地の南端、標高約10mの台地縁には、縄文早期後半(6~7,000年前)の粕畠貝塚があり、昭和初期に発掘調査された。粕畠土器型式の標識遺跡であるが、現在は完全に消失している。残された資料により愛知の縄文時代の断片を偲ぶことができる。


13/08/16 Y君の訪問 

夏の日、大谷山上空に二筋の飛行機雲
夏空 (春日井市都市緑化植物園から大谷山・道樹山上空を見る) 

連日の猛暑日で動きがとれない。2007年に日本最高気温40.9℃を熊谷市(埼玉県)とともに記録した多治見市(岐阜県)は、愛岐三山(弥勒山・大谷山・道樹山)の東側に位置する。今年は甲府市(山梨県)で40.7℃を記録し、全国的に猛暑日(35℃以上)は当たり前の日々が続いたが、8月12日に最高気温も江川崎(高知県)で41.0℃と日本記録を更新した。
多治見市の”日本一”の称号は消失したが、春日井市は、濃尾平野で暖められた風が愛岐三山を駆け登り多治見盆地に下る道筋にあり、毎日の暑さも尋常ではない。

そんな猛暑の続く日に、旧友のY君が訪ねてくれた。40年以前に、当時自動車工学を学ぶ大学生だったY君と、神奈川のラリーチームで出逢い、チーム員として伴に行動して以来の仲である。現在、Y君はインドに滞在・自動車部品会社に勤務していて、お盆帰りの一日を強行スケジュールで立寄ってくれた。

レースであれラリーであれ、車競技の世界は特殊な世界である。往時はクルマ全盛の時代であったが、それでも競技としての車社会は、排気ガス公害・騒音・暴走行為・車両改造違反などの問題を抱えていた。時世の移り変わりの中にあって、一般車両について先ず排気ガス公害が次には石油資源浪費を規制する方向で、それに伴い車競技のあり方も変革が施行されて来た。我々が関わった40~30年前のラリー社会は、車社会変革期の特殊な環境下にあったので、仲間しか理解出来ない色々な事件を共有している。一つのラリー競技会、一台のラリーカー、一本の林道などについて夫々の思い出が詰まっている。当時ラリー界で活躍した人々・仲間の消息だけでも話題がつきない。

Y君は大学卒業後は日本IBM㈱に勤め、コンピュータ畑の技術者としてメンテナンス技術に精通している。最近ストレスを感じていた私のPCを診断し、メモリー基板交換の必要を指摘した。直ちに、基板をアマゾンで取り寄せ入替えると、PCのパフォーマンスは格段に向上した。やはり「餅は餅屋」である。


13/07/16 春日井市立中央公民館 (春日井市)

脳梗塞発症から2年が経過した。6月半ばからの1ヶ月は、季節の変わり目と猛暑の襲来に対しての警戒を最大にして、リハビリを含む行動に制限を加えて再発防止に努めてきた。発症当初の右半身全体に広がる麻痺は、リハビリが進むにつれて、平衡感覚の不安定さと右手・右足(更には、右手・右足の親指・人差指・中指)の局部的な麻痺に集約してきた。現状は、ゆっくりとした歩行は可能だが歩行速度がまだ上げ難い。今後は、薬の服用を続け(カルブロック錠で血管を拡げ血圧を下げ、プラビックス錠で血栓ができるのを抑える)、効果があろうがなかろうが、自主的なリハビリで体に動きを与えて、体調の改善を期すしかない。

春日井市に移り住んで、以前は関東を拠点とした縄文から古代までの史跡・遺跡を探っていた”趣味の世界”を、中部地域を拠点としたものに移そうとしている。拠点となる濃尾平野(あるいは尾張平野)の遺跡・遺物を見る機会を探っている。考古学的遺物は、国・県・市(区の場合も)単位の埋蔵文化財センターや考古館、博物館、郷土館(資料館、公民館)、大学などに収められているが、発掘・保管事情の時代による変化もあり、容易に遺物に辿り着けない場合が多い。とりあえずは、噂を聞けば見に行くしかない。

春日井市立中央公民館と「庄内川と古墳」の展示

春日井市立中央公民館で収蔵品展「庄内川と古墳」が開催され、14日が最終日だったので出かけた。中央公民館はJR勝川駅から1.5km程度の距離にある。最近不足がちなリハビリを兼ねて、猛暑の中を歩いた。
企画展では、”春日井市の地形と主要遺跡の分布”が地形図の中で示されていた。”庄内川の現在の流れとかつての流れ”、が写真パネルで示され、”高御堂古墳と壺形埴輪”の説明パネル、”味美古墳群と須恵器系埴輪”の説明パネル、”二子山古墳での遺物出土状況”の写真パネルなどがあり、”古代寺院(勝川廃寺)と墨書土器・人形”で締めくくっていた。現物展示としては、東京国立博物館で保管されている出川大塚古墳(前期)の出土鏡(三角縁神獣鏡2面、捻文鏡、四神四獣鏡)のレプリカ、および高御堂古墳(前期)出土の壺形埴輪が展示されていた。
常設展では、江戸末期に庄内川右岸の自然堤防上(高御堂古墳の東側)で発見された神領銅鐸(三遠式)のレプリカ、弥生前期の松河戸集落からの出土品、下原古窯群発掘調査の写真パネルとそこで製造された二子山古墳出土須恵質埴輪などが展示されている。”古墳の階層構成と尾張型埴輪の特質ー考古学からみた尾張氏の動向ー”なるパネル展示は、この地域(春日井市)の特徴を物語っていた。

中央公民館の北館1Fには、企画展の展示室、常設考古展示室のほかに民俗展示室(春日井市の近現代歴史・民俗の紹介)と春日井市教育委員会発行の冊子類のコーナーもある。さらに、著名な考古学者・森浩一氏が寄贈された蔵書からなる”森浩一文庫”があり、自由に閲覧できる。森浩一氏は、20年余続いた「春日井シンポジウム」の企画立案に参画、指導的な立場にあり、”東海学”を提唱されている。(森浩一同志社大学名誉教授は8月6日ご逝去された。ご冥福をお祈りします。)


13/06/28 一宮市博物館・馬味塚遺跡 (一宮市)

一宮博物館正面と第3展示室 馬味塚遺跡跡

紀元後の日本の歴史は、日本人として集団的に生きた行動と政治的な業を教えてくれる。時代区分としては、弥生後期・古墳時代以降に相当する。
それ以前、いわゆる縄文・旧石器時代では生活集団の規模はより小さく、日本人としての意識も皆無か極めて薄い。しかしながらこの時代の歴史は、人類の起源・出アフリカ後の行動につながり、最新の人類史の重要な一時期をなしている。およそ20万年前にアフリカで誕生した現生人類は、6~5万年前に世界各地へ拡散し、日本列島には4万年前から3万5000年前に到達したと考えられ、日本の旧石器時代は始る。

一昔前には、弥生人以前の住人は原始人として一括して見做すこともあったが、三内丸山遺跡の発見など縄文文化が見直される画期があり、先史時代の研究も飛躍的に進み、最近では土器作り(縄文時代)の始まり(草創期)も、大平山元遺跡(おおだいやまもといせき:青森県)の調査などにより15,000~16,000年前、最終氷期の終期、に遡っている。そして現在では、土器作り技術自体が日本に固有のものでなく、3.5万年前頃に始った周辺大陸からのヒト集団の移動と関連して、九州にあるいは北海道に伝来した可能性が極めて高いとされている。

濃尾(尾張)平野は、縄文中期頃に最大となる”縄文海進”により、現在の大垣市辺りまで海岸線が入っていたという。濃尾平野先端部に相当する南知多町では、縄文海進により沈んでいた縄文早期の先苅貝塚(12/02/14記載)が見つけられている。濃尾平野中心部の縄文遺跡としては馬味塚(まみづか)遺跡が有名で、その出土物の展示がある一宮市博物館に出かけた。
馬味塚遺跡は縄文後晩期・弥生・古墳の綜合遺跡で、出土品も多い。期待どうり(?)、遺跡自体は民間アパートの駐車場になっていて、史跡を示す石柱と説明板だけであったが、周囲の平坦さと風の抜け方に濃尾平野の平坦部・木曾三川の沖積地帯を感じることができた。

妙興報恩禅寺の境内

一宮市博物館の住所は妙興寺であり、妙興報恩禅寺の境内にある。妙興報恩禅寺の創建は南北朝時代で、「勅使門、竜王池、三門、仏殿が、南北に一直線に並ぶ。総門をやや東側に寄せたのは、鎌倉時代の禅宗伽藍配置の特徴・・・一宮市教育委員会」と説明されていた。五寺の塔頭(たっちゅう)がある。苔むした境内が美しかった。

博物館には馬味塚遺跡出土の合わせ口土器棺、土偶が現地説明板どうり展示されていた。第3展示室が縄文・弥生・古墳時代に関する展示室で、縄文時代の石鏃・土器片、弥生時代のパレスタイル土器、浅井古墳群の石棺など見るべきものが多い。そして何より有難いのは、この地域(尾張平野)の歴史を語る”博物館講座”資料を手に入れることが出来たことである。濃尾平野の縄文文化について知りたいことは多い。本年10/12~11/17には、特別展「縄文から弥生へ~馬味塚遺跡の時代」が催される。

平成25年度企画展「阿弥陀信仰と木曽川流域」が催されていた(7/28まで)。尾張西部から美濃南部の木曽川流域は、浄土系の仏教寺院が多い地域だと説明されていた。浄土真宗で本尊の一つとして用いる(九字、十字、六字)名号や阿弥陀三尊来迎図など60余点の展示品が、第1章「阿弥陀信仰のひろがり」、第2章「中世仏教の阿弥陀信仰」、第3章「浄土真宗の阿弥陀信仰」、第4章「近世の阿弥陀信仰」と章区分されて展示されていた。阿弥陀信仰は平安時代の「末法思想」を背景に広がったが、現在の世相の中で今一度見直す機会を与えていた。


13/06/12 花しょうぶ (春日井市)

春日井市緑化植物園は愛岐三山の麓にある。大谷山を望む大谷池の周辺にハナショウブ園がある

都市緑化植物園(グリーンピア春日井)は、高蔵寺ニュータウン外周道路が県道春日井瀬戸線にT字状にぶつかる北西側、愛岐三山の麓にある。T字交差点からは道樹山が、植物園に入れば大谷山が、県道を瀬戸側に進み植物園の北端からは弥勒山が間近に見える。

弥勒山山頂の展望台からは、築水池とその左に”少年自然の家”の建物が西方直下に見下ろせた。植物園は”少年自然の家”の左方で山陰になる。

植物園内の周回道路に沿っての山側には散策路が設けられていて、弥勒山・大谷山への登山道に繋がっている。

県道の向い側は、”春日井市少年自然の家”があり、その外周を辿れば築水池から大谷川沿いに廻間7号古墳から宮滝大池、廻間1号古墳のある岩船神社に至る。ここは野鳥観察コースでもある。

グリーンピアに「花しょうぶ」を見に立寄った。いずれがアヤメ、カキツバタ。ハナショウブとの見分けは私には難しい。アヤメは乾燥地にカキツバタは湿地に育ち、ハナショウブより開花期が早く5月初旬からという。ハナショウブは湿地に育ち、開花期は6月で、江戸系、肥後系、伊勢系・・・など種類も豊富である。以前住まった町田市の薬師池公園には約175種のハナショウブがぎっしりと植えられていたが、結局何が何かは分らずじまいであった。大谷池周囲のハナショウブは種類は限られていて、ゆったりと咲いている。いずれにしても梅雨時を彩る花々である。そのほか園内には、各種のアジサイ、バラ、キンシバイ、ハーブなどが曇り空に耐えて彩りを与えていた。               


13/05/25 「山歩き再開」弥勒山 (春日井市)


宮滝大池(標高100m)から見る愛岐三山
(左)弥勒山:437m (中央)大谷山:425m 
(右)道樹山:429m
弥勒山山頂から見た景色
手前の大きな池は築水池で、宮滝大池は
その向うに見える。
築水池左に「春日井市少年自然の家」、
遠くに名古屋駅前ツインタワー。
新緑の林道に咲く黄色い花

冬から春にかけては、足の屈伸(スクワット)と軽ジョギングを、週休2日・2時間弱/1日のぺースで繰り返してきた。5月になって、季節の変わり目、日射と暑さを気遣いすぎると、そのペースが落ちて来る。楽しく、気儘にリハビリする次の段階に入ることを心掛ける。

ここで、いよいよ春日井に移ってから温めて来た、愛岐三山(愛知・岐阜の県境にある道樹山:どうじゅさん、大谷山:おおたにやま、弥勒山:みろくさん)への”低山歩き”の開始である。

日射と木陰・道筋など山登り全般の初期情報を得る為に、5月24日、以前に植物園で山帰りの方からいただいた”少年自然の家”に置いてある弥勒山・道樹山コース案内図を基に、ネット上にあふれている登山記録を参考にして、「春日井市都市緑化植物園(標高154m)から大谷山(標高425m)に登り、東海自然歩道を弥勒山(標高437m)まで行き下山するコース」を歩いてみた。ペットボトルに水、魔法瓶に冷たいお茶、コンビ二で買ったおにぎり2個、トレッキングポールセットなどを持ってのコース見である。

ログハウスの上の道を左。
標識36、37を弥勒山方面へ。
岩山のある岩山休憩所を過ぎると、
気持ちの良い林間の道が標識21まで続く。
標識21を右へ。やや勾配のきつくなるが
気分良い道を標識22まで。
標識22で「定光寺と内津峠を結ぶ東海自然歩道」
に合流。
東海自然歩道を50m先の大谷山山頂まで。
山頂は樹間に僅かに下界が見える程度。
引き返して500m先の弥勒山へ。
標識34まではフラットな尾根道。
標識34から弥勒山山頂までの100mはキツイ。
弥勒山山頂には、岩場の休憩所と東屋。
この日はやや霞んでいたが、
開けた眺望は最高!!

植物園の多目的広場のPに駐車。
11:40ー11:45
植物園ログハウスから岩山休憩所に到着/発。 
12:05 標識21(植物園まで1.4km、大谷山まで0.4km)通過。
12:19 標識22(大谷山まで50M、弥勒山まで0.6km、植物園まで1.7km)通過。
12:24ー13:30 大谷山到着/発。
12:49 標識34(弥勒山まで0.1km、大谷山まで0.5km)通過。
13:01ー13:21 弥勒山到着/発。
13:40 みろく休憩所への分岐を左へ。
14:12ー14:20 みろく休憩所到着/発。
14:28 標識23(植物園まで1.3km、弥勒山まで0.4km)通過。
14:37 標識20(大谷山まで0.7km、弥勒山まで0.7km)通過。
14:51 標識18(植物園まで0.4km、弥勒山1.2km)通過。
15:15 県道に出て多目的広場、駐車場に到着。

コースは良く整備されていて、標識も随所にある。
弥勒山山頂からは、東海自然歩道を標識34まで戻り標識23に降りる積りだったが、山頂で知り合った方の薦めで、みろく休憩所に下って林道を標識23に向った。このほうが、この愛岐三山のコース全様が良く把握できる。
知り合った方は、何となく私が首に巻いていた手拭が、英彦山(九州)の旅館のものだったのを目ざとく見つけ、「私は、田川(英彦山のある地名)の出です」と途中まで下りを同行してくれた。その方は5年前に心筋梗塞にかかったらしく、脳梗塞の可能性もあったとか。リハビリの積りで山歩きを始めたと・・・。足に障害が残っている私を見て、登りより下りの方が難しい、とのさりげない心配りをしてくれる。林道に出た頃に、山頂で会ったおばさん達の山歩き隊が追いついてきた。暫くの間は、其処此処に咲いている今を盛りの花を見つけて、「これは何々です」と教えてくれた。

以前に歩き慣れた金時山(神奈川県南足柄市)や、丹沢前衛の山々(神奈川県秦野市、厚木市)などと同じような雰囲気があり、親しみが一段と増した山であった。季節によりコース選びも可能で、弥勒山山頂から見える景色の変化も楽しめそうである。
都市近辺の山らしく、三山周辺は林道・枝道が多く入り組んでいるが、少年自然の家のコース図は「全くそのとうり」で、大変な助となった。街履きのウオーキングシューズのほうが、”爪先の痺れ”に対してのリハビリになるかと考えていたが、軽登山でもコース上には浮き砂利の目立つ所も多く、爪先に負荷がかかり過ぎるようだ。次回からは、足裏全体で体重を支えるトレッキングシューズの方がよさそうだ。トレッキングポールの使用は原則としてバランスの維持であるが、疲れると体重を掛けてしまう(危険!)。バランスの維持、これは脳梗塞の障害回復に重要な課題になっている。
色々な課題を見つけながらの軽登山だったが、忘れていた心地よい疲労感と足の疲れを感じた一日でもあった。

弥勒山山頂には、パノラマが説明されていた。 (この日は霞んでいたが、冬季には、御在所山、伊吹山、白山が一望できる。)


13/05/07 「上げ馬神事」多度大社 (三重県桑名市)

5月4日、多度祭りの例祭前日祭の「上げ馬神事」を見学した。
濃尾平野の西の壁となる養老山地を、古くは”多度の山”と呼んだらしく、”続日本紀”の元正天皇美泉行幸の記事(先月の「養老公園」で記述)では、現在の養老山を多度山と記している。「上げ馬神事」が催される多度大社(たどたいしゃ)は、養老山地の南端の多度山(403m)を御神体としてその山麓にある。大社側から見た多度山は円錐状の形・適度な高さで、神奈備山としての条件に適している。山中には神の降臨を願う磐座(いわくら)や御神石があるようだが、禁足地とはなっておらず、ハイキングコースも幾つか設定されている。

多度大社は、自然を崇拝する古代神道の流れにあり、天平宝字7年(763)、満願禅師による神宮寺の創建以来社運が栄え、貞観5年(863)には神格も正ニ位にまで昇進した。織田信長の時代に兵火に見舞われたが、江戸時代に桑名藩主本多忠勝公により再建された。近世になり大正時代に国幣大社に昇格した。満願禅師は、鹿嶋神宮寺(常陸)を建立し、箱根権現(箱根神社)を創始した万巻と同一人物で、行基や泰澄と並ぶ奈良時代の民間の仏教僧(私度僧)であった。修業の場を一般社会や山岳に求めた私度僧の活躍により神仏習合が進んだ事情が、多度神宮寺縁起に見られる。


多度山を背景にした多度大社
本神楽殿前の鳥居をくぐり、
御萱門から神域に入り、神社最奥へ
神社最奥左側に
流れ落ちる
多度の霊水
最奥の神橋を渡り、
左に本宮多度神社、右に別宮一目連神社
5月4日の上げ馬神事スケジュール

本宮多度神社の御祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)で、天照大御神の御子神で、相殿に面足命(おもだるのみこと)とカシコ根命を祀る。別宮一目連神社(いちもくれんじんじゃ)の御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)で天津彦根命の御子神である。

多度祭りは、4月1日の神占式で神児(小学生低学年)と騎手(高校生)を、七地区よりなる御厨(みくりや)(神饌をお供えする地区)から選出することから始る。選ばれた騎手は乗馬訓練を受けるとともに、神事を行なうに相応しい精進潔斎の生活に入る。4月25日の”乗り上げ”(家族と別火の生活)、5月2日からの”斎宿生活”に入る。5月2日からは祭事の準備として、”坂築き”(上げ馬が最後に乗越える上坂の修理)、5月3日には”牽馬式”、”道見せ式”、”射手祓の行事”が行なわれ、例祭前日祭(5月4日)になる。

5月4日、例祭前日祭は、午前8時の”例祭前日祭”から”騎射馬乗込”、”馬場乗”、”坂爪掛”、”上げ馬”を終えて、”神職と騎手の盃儀式”と神社から約2.5km離れたお旅所・須賀馬場への”須賀馬場乗”を済ませて、午後9時半”騎手宮篭”となる。
翌5月5日
の御例祭は、午前6時の御例祭から始る。”神児騎手乗込”、”馬場乗”、””神児迎え式”、”上げ坂”、”楠廻りの行事”、”神輿渡御”、”神輿環御”で全ての行事が終わる。

このように、「上げ馬神事」は祭りの1コマに過ぎないが、重要な1コマで、神賑(しんしん)行事の一つである。起源は、南北朝時代の暦応年間(1338~1341)とされていて、この神事により農作の時期や豊凶を占う。現代では景気占いとする。神道の祭り(とくに修験道がからむ場合)では、賑やかなことが好きな神々をもてなす為に、芸事などで演出することが多い。ここでは馬を走らせ障害を乗越えるパフォーマンスで、神々と見物人を楽しませでいる。

神社参拝をする。上げ馬神事が行なわれる馬場を通り越して、最奥の本宮と別宮を詣でる。本宮の左・神域を流れ落ちる霊水は下流にある禊ぎ場の水となる。宝物殿は、正月と多度祭時には一般公開されている。奈良時代後期の神仏習合などの貴重な資料である「多度神宮寺伽藍縁起并資材帳一巻」の原本とそれを包んでいた竹帙(じす)があった。いずれも国指定重文である。そのほか、金銅五鈷鈴、銅鏡など重文もの、正重短刀、天文2年の寺名帳があり、谷文晁による古絵馬なども珍しい。上げ馬神事のビデオが上演されていた。

正面参道に沿った馬場で馬場乗を待つ。 
 厩舎で出番を待つ祭馬。
馬場乗が始る。疾走する祭馬
 むずがる祭馬
坂爪掛
馬が駆け登り最後に越える上坂を、部分的に削る。 
この上坂を祭馬が越えれば、「上げ馬」は”成功”だ。
上坂を乗越えると、
祭馬は多度祭御殿前の広場になだれ込む。
御厨の仲間達が待構え、「上げ馬」の成功を助ける。
「上げ馬」に成功した人馬
騎手は意気揚揚、周囲は拍手喝采!
見物人の声援に応え、おひねりのサービスもある。
「上げ馬」に失敗した人馬
騎手は足を汚さないよう肩車で担がれ、
祭馬は馬場脇から上広場へ。

「上げ馬神事」の現場に戻る。

正面参道脇に馬場(神社馬場という)とそれに沿って桝席が作られている。
祭馬は、馬場近く広場の厩舎で出を待っている。7地区の御厨の若者達がその舞台裏を仕切っている。祭馬は、各御厨が馬主から借り受け、責任を持って管理する。

祭馬に、小袖の上に裃・陣笠姿の騎手が跨って、神社馬場を疾走してきた。馬場乗(ばばのり)という試走だ。使用される馬は、以前は農耕馬だったらしいが、現在は引退した競走馬で、馬の姿・姿態も綺麗だ。騎手は短期間で教え込まれたと思えないほど見事な騎乗だ。一目散に走る馬、よれながら走る馬もいる。

一走りすると厩舎に戻る。人ごみに慣れない馬は興奮し暴れる馬もいる。馬と騎手と大勢の若者で馬を制御している。この光景はちまちまとメールに噛り付いてる若者像とは異次元だ。


昼近くになって、「上げ馬神事」で駆け登る坂道の頂上に築かれた一段と高い(2~3m)上坂の中央部を、少しだけ削る作業(祭馬が登り易くとの少々の気遣い)が行なわれる。坂爪掛(さかつめかけ)という。

いよいよ「上げ馬」の開始である。阪下の人ごみの中で駆け登る馬を見ていたが、雰囲気は良いが見えにくい。ゴール地点の広場でカメラをズームに設定して、登って来る人馬を待つことにした。

最後の難関に挑む姿は見えないが、坂上で待ち構える挑戦馬の仲間たちの後姿により状況が伝わってくる。

多度祭御殿前の上坂を越えた祭馬と騎手の姿が見え、仲間たちが上坂を越すのを助けているのが見える。人馬が広場に傾れ込むと成功だ。成功した騎手とそれを支える御厨の若者達は意気軒昂、喜びにひたる。
反対に、坂上で待ち構える仲間たちの前方下で、ワッーと大きな溜息が聞こえると失敗だ。失敗した騎手は、担ぎ上げられ広場中央の新宮社に運ばれる。騎手の移動では足を汚さないように担ぎ運びが原則という。失敗して、くやしくて涙している若者がいる。
成功した馬はベテランなのか、「上げ馬」の直後でも平然としている。失敗した馬の中には、広場に帰ってきても興奮していて、10人以上の若者達で抑えても抑えきれずに地面に倒れ込んでしまう馬もいる。

「上げ馬」は、前日祭(4日)では六字(騎手を出している御厨の6地区)各二度宛(12回)、約15分間隔を原則とする。御例祭(5日)では六字各一度宛(6回)行なう。そのほか馬場乗(4日と5日)や須賀馬場乗(4日)、楠廻りの行事(5日)など、祭馬と騎手とそれを取巻く若者達の活躍により祭りは進行する。


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