**奈良・四国・九州の遺跡を巡る旅@ 2009.11**
奈良 四国 豊前 肥後 筑豊

桜井茶臼山古墳の現地説明会ほか
西殿塚古墳・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳・島の山古墳
(奈良県)

秋ともなれば、全国各所の歴史博物館・資料館で、文化財公開を目的とした特別展や秘宝・秘仏の公開が行なわれる。その情報を前もって得ることは、一般人にとっては難しいところもあり、後日残念がることも度々である。ましてや、発掘調査した石室を再埋め戻す前に見る機会など滅多にない。

奈良県文化財の日ー平成21年10月29日〜31日に、桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市外山)の現地見学会が、橿原考古学研究所主催の下で、3日間の限定で行なわれた。ヤマトの殆んどの大型古墳は、陵墓または陵墓参考地となっているので立ち入ることはできないが、
桜井茶臼山古墳メスリ山古墳は陵墓指定がなく、例外的に立入りのできる大型古墳である。桜井茶臼山古墳では、昭和24年に最初の発掘調査が行なわれて以来、今回の発掘は60年ぶりで、埋葬施設の詳細調査と木棺の保存処理を行なうための取り出しを目的とした調査がなされた。公開後は再び埋め戻される。

龍王・三輪山麓には、ヤマト王権の誕生時に相次いで築造された大型古墳が幾つかある。その中で、箸墓古墳が3世紀半ばで最も早く、次に
西殿塚古墳が築造されたことは定説化している。しかしながら、崇神陵とされる行燈山古墳、景行陵とされる渋谷向山古墳、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の築造年の前後関係は必ずしも明らかでなく、種々の議論がある。

桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は、陵墓指定がなく、実地に発掘調査できる3世紀末から4世紀初頭の古墳として、王権の誕生・古墳の祭祀についての多くの知見を与える。
千賀久:シリーズ「遺跡を学ぶ」 「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008.8 などで予備知識は得られるが、発掘現場で見る石室構造は、格段にに実質感がある。

西殿塚古墳  奈良県天理市中山町
宮内庁により手白香皇女(継体天皇の皇后)衾田陵とされているが、考古学的には年代が合致しない。吉備様式の特殊器台、埴輪、墳丘の形状などから、築造時期は3世紀後半から4世紀初めと見なされ、箸墓古墳に次ぐヤマト王権の大型古墳とされている。全長234m、後円部径135m、前方部幅118mと知られる。三段構成で前方部が僅かに撥方に開き、葺石、円筒埴輪が確認されている。後円部の墳頂に一辺35m・高さ2.6mの正方形の壇が造られ、前方部にも一辺22m・高さ2.2mの壇が造られている。被葬者については、箸墓古墳を卑弥呼の墓、西殿塚を宗女の壱与と推定する説(白石太一郎:考古学と古代史の間、筑摩書房、2004.2))や西殿塚古墳が実際の崇神天皇陵だとする説(和田萃:三輪山の古代史、学生社、2003.3)がある。
南西端から見る前景。右側(南)が前方部に相当する。 撮影地点から南に下る山辺の道
前方部正面に「衾田陵」の拝所 宮内庁守衛所の右の道路沿いに、考古学的名称「西殿塚古墳」と説明板がある。

桜井茶臼山古墳  奈良県桜井市外山   現地見学会(2009.10.31)
3世紀後半〜4世紀代に築造された柄鏡形の前方後円墳。全長207m、後円部径110m・高21m、前方部幅61m・高13mで、前方部2段・後円部3段の構成。副葬品は盗掘に遇っていて原位置は不明だが、昭和24年の調査時に、玉杖、碧玉製品、鉄製・青銅製の武器類のほか腕輪型石製品、鏡などが出土し、今回の調査でも多数の銅鏡破片が見つかっている。昭和24年の調査をもとに書かれた千賀久「ヤマトの王墓」では、「出土鏡のうちわけとして、三角縁神獣鏡7ないし8面と、画文帯神獣鏡の同向式神獣鏡・環状乳神獣鏡・求心式神獣鏡を含む3ないし4面、内行花文鏡3面、そして方格規矩四神鏡・獣帯鏡・斜縁神獣鏡・単き鏡各1面が確認できる」との記述がある。
           桜井茶臼山古墳東側面(南東から) 左側が前方部、右側に後円部 前方部(拝所がある)から墳丘に登る。
古墳へはJR桜井駅から東へ約1km、商店街を抜けて歩く。特集記事を載せた奈良新聞を5日間分、街角で販売していた。要所要所で案内標識やガードマンが古墳へと導いてくれた。附近の人の話では、ここ3日間、古墳見学の人が行列をなしていたとか。現地では、橿考研の職員が受付・入場者の整理と説明に大忙しであった。外山区(とびく)の仏像(報恩寺の阿弥陀如来像と不動院の不動明王像)も特別公開するというおまけがついていた。
前方部 前方部から後円部への登り。後円部の方形の壇の上に足場が組まれ、石室見学が出来るようにされている。
・・・・・以下に、配布された桜井茶臼山古墳の調査(橿原考古学研究所)資料に従って、見学の実際を示す。・・・・・
見学会会場で示された写真より4枚(ロールオーバー)
古墳の航空写真と調査区域       木棺の取り出し作業記録を写真で紹介したもの
取り出された木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っているが、長さ4.89m・幅75cm・最大厚27cmの棺身が遺っている。保存処理された後に、公開される予定という。
石室(南から) 石室(北から)
埋葬施設は、岩山を削り出した後円部の中央に墓壙を掘り、水銀朱を塗布した石材で石室を造る。竪穴式石室は、南北6.75m・北端幅1.27m・高さ1.65m前後である。基底には板石を二・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していた。埋葬した後に、全面に水銀朱を塗布した12個の天井石を懸架して石室は閉じられる。天井石の最大のものは、長さ2.75m・幅76cm・厚さ27cmあり、推定重量は約1.5tである。柏原市芝山の安山岩、羽曳野市春日山の安山岩と南淡路市沼島の点文片岩の天井石が別に公開展示されていた。ベンガラを混ぜ朱色にした粘土で天井石を覆った後に、墓壙の上部を埋め、さらに盛土して方形の壇を築く。方形壇の大きさは、南北長13.8m、東西幅11.3mで高さは不明である。壇の上面は、板石と円礫で化粧し、縁近くに体部を半ば埋めた二重口縁壺が並んでいたと推定されている。さらに、儀礼に前後して、方形壇の周囲に布掘り溝が掘られ「丸太垣」が造られた。
石室(西から) 石室(東から)
石室の内部 朱塗装した板石が見える ベンガラを練りこんだ粘土で天井石を被覆する。
粘土には突き固めた跡が残っている
方形壇の外側(東側) 写真左中央付近に「布掘り」の展示部分が見える。「布掘り」溝の外周規模は、南北13.8m、東西11.3mで、その中央に立てられた柱の数は約150本と推定される。この堅牢な「丸太垣」をもつ堀が石室とその上部の方形壇を保護し、外界と遮断・結界していた 方形壇の周囲に幅・深さともに1.4mの布掘りの溝を掘り(建物に沿い周囲に細長く溝を掘る基礎工事を布掘りという)、中心に直径約30cmの木柱を合い接するように並べ立て、「丸太垣」を形成する。壺形土器が布掘りの辺りから出土している。「丸太垣」はメスリ山古墳などに見られる埴輪列につながるもののようだ

メスリ山古墳  奈良県桜井市高田
桜井茶臼山古墳と同時期または一代後の築造とされる柄鏡形の前方後円墳。桜井茶臼山古墳から南西に約1.6kmにあり、茶臼山に次ぐ築造とされる。全長224m、後円部径128m・高19m、前方部幅80m・高8mで、陵墓指定がない。この古墳に先立つ桜井茶臼山古墳の「丸太垣・二重口縁壺」に代るように、巨大埴輪列(最も多く並べられた円筒埴輪が経56cm、高さ119cmで、最大の特殊円筒埴輪は、高さ2.42m、口経1.31m、胴部経90cmのものがある)が二重に方形壇の上に並べ立てられこと、未盗掘の副室が発見されたことがこの古墳の特色である。
被葬者については次のような推察がある。桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の位置・古墳形状、時期、およびヤマトへの東側(宇陀)からの侵攻を監視した磐余(いわれ)の地にあること、後にオオビコ系統を名乗る安倍氏の本拠である点などに鑑みて、桜井茶臼山古墳の被葬者は、崇神天皇の叔父にあたり四道将軍の大彦命(オオビコノミコト)で、メスリ山古墳の被葬者は、その子で同じく四道将軍の建沼河別命(タケヌナカハワケノミコト)である可能性が指摘されている。(塚口義信:三輪山の古代史、学生社、2003.3)
北東端から後円部に登ることができる。
三段構成の上部へ 墳頂は広い(東端から) 主軸(ほぼ写真の前後方向)に直行して南北方向に竪穴式石室(主室)が築かれていた。 
主石室は、長さ8.06m、幅は北端で1.35m、中央で1.18m、高さは南端で1.76mで、天井石は8石で覆い、四壁は板石を小口積みにしてほぼ垂直に積み上げていた。主室内は、盗掘が著しかったが、床面に木棺を据えるための粘土床があり、幅約80cm、長さ7.5m以上の長大な木棺が置かれていたことが分った。石室は、築造した墳丘を掘り込んで造ったものでなく、石室を先に造り、周囲を盛土して行ったものと考えられている。盛土途上に、主室の4.75m東にもう一つの石室(副室;長さ6m、幅72cm)が築かれた。副室は木棺を置かず、多数の遺物を遺したまま盗掘に遇っていなかった。主室の副葬品としては、玉・石製品と鉄製武器、鏡破片で、鏡は三角縁神獣鏡と二種の舶載内行花文鏡とみられる。盗掘のなかった副室からは、原位置を保ったまま、多数の遺物が出土した。メスリ山を代表する4本の玉杖の外に、槍を南北に交互に向けて積み上げ、その上に鉄製弓矢、鉄刀剣、農工具、碧玉製品、さらに銅鏃と石製鏃を装着した矢が群ごとにまとめて置かれていた。
       ( 千賀久:「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008.8) 
後円部を北西に下った所 前方部北西端より(附近は住宅街)

・・前述の三古墳と直接には関係しないが、多数の石製腕飾類を出土した4世紀末の大型古墳を訪ねた。・・
島の山古墳  奈良県磯城郡川西町
4世紀末〜5世紀初めに築造された全長195mの前方後円墳。周濠をもつ。明治年間にも多量の石製腕飾類が出土しているが、平成6年以降に川西町教育委員会と橿原考古学研究所で調査され、前方部の埋葬施設から鏡・剣とともに多数の石製腕飾類(緑色凝灰石や碧玉製の車輪石、鍬形石、石釧)が発見された。このように多数の石製腕飾類が一古墳から出土した例はない。石製腕飾類は、九州の弥生墳墓などに見られる南海産の貝類(オオツタノハ貝、ゴホウラ貝やイモ貝など)で作った腕輪の模造品と見られる。墳丘東西くびれ部に造り出しが認められ、埴輪列が確認されている。橿考研附属博物館に、見事な石製腕飾類が常設展示されている。古代の豪族・葛城氏の墓域と考えられ、馬見古墳群の一つに数えられる。史跡公園にする計画もあるらしい
古墳の東側面 西側から見た島の山古墳全景 左側が後円部

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