春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (13)

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13/12/18 火渡りの儀式 秋葉神社・細野町 (春日井市)

12月15日(日曜日)に、道樹山の麓・細野町にある秋葉神社(下社)の「火渡りの儀式」を見学した。秋葉神社へは、県道53号・信号のある交差点”少年自然の家入口”の南側から斜めに東方向に下り、川を渡り細野キャンプ場へと左折する。キャンプ場を通り越してすぐに、神社入口となる石段がある。キャンプ場横からは、道樹山に登る東海自然歩道がつづいている。
神殿前で祈祷する山伏と補助者。 
九字を切り、儀式は始る。
破魔矢を天に放ち、結界内にも放つ。
四方の注連縄を法剣で切り開き、
正面で祭文が読み上げられる。
山伏の主導で、点火され、
めらめらと燃える火の前で祈祷。
印を結んで祈祷。
火勢が衰えてきたところを草鞋履きで火渡り。
終には、草鞋を履き捨てて火渡りする。
つづいて、差烈者も火渡りする。

春日井地域では、遠州浜松・天竜川中流域の秋葉山本宮を起源とした修験道の痕跡が所々で見受けられる。秋葉信仰は、火防(火伏せ)を第一とし、病気や仕事・生活などでの苦難から逃れることを、神仏習合した秋葉三尺坊大権現に願う信仰である。

春日井市の郷土誌かすがい第69号(平成22年11月)によると、道樹山・細野町の秋葉信仰は、「元治元年(1864)に山火事があり樹木が焼失したが、明治18年(1885)大峰山で修業した上条町出身の全浄行者が、類焼しなかった山上近くに秋葉神社を開いた」のを始めとしている。「昭和14年に山火事でこの神社は焼けたが細野集落は類焼を免れ、秋葉三尺坊大権現の加護で難を逃れたと謝する集落により、麓に神殿が山上に奥の院が再建された。」

現在も4月に紫灯護摩(さいとうごま)、12月に火渡り神事(儀式)が行なわれている。細野町の秋葉神社は、太郎坊宮秋葉神社と呼ばれている。

昼過ぎに神社に着くと、神社(神殿)の南側境内に桧の葉や枝が堆く積上げられ、注連縄を張って結界が示されていた。この結界は前日に設けられたものらしい。火渡りの儀式は、この結界内部の葉・枝に火を放ち火渡り場を作り、燃え燻った焦土を草鞋または素足で渡る儀式である。

火渡りの儀式は、細野町の司会で山伏(行者)さんとその補助をする女人で進行された。来賓は国会・県会・町会の議員、近隣の町の代表者達で、細野町の消防団が行事を見守っている。
山伏が神殿前で祈祷し、呪文・「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」と唱えながら九字を切って刀印を結び邪気を祓う。破魔矢を天に、そして結界の中へ放つ。つづいて、法剣で結界の注連縄を切る。これらの所作は、結界を一周し東南西北の四方向で行なう。
次に、山伏は、火渡り場と神殿を見据えた正面で、祭文を読み上げ、山伏が主導して来賓達を伴って点火する。もうもうと煙がたちのぼり、周囲の人たちを包む。山伏は火勢の正面で印を結び掌をかざし祈祷を続ける。
山伏と補助の女人と来賓の一人が柄杓で水を灌ぎ、火勢が落ち着いたところで山伏が火道を渡る。山伏は、初めの3回は草鞋履きで、最後は素足で火を渡る。山伏さんの火渡りが終わった後に、参列者が用意された草鞋を履いて、まだ燻りの残る焦土を渡る。全ての儀式が終り、焦土を掬い上げて家に持ち帰る人もいる。帰途につく参列者に石段下でお菓子が配られた。


13/12/05 東海自然歩道(外之原峠ー大谷山)と道樹山 (春日井市)

先回は、「東海自然歩道」を定光寺駅から愛岐三山に向って歩きだしたが、日没が迫り外之原(とのはら)峠でエスケープした。年末になり、今年度のリハビリ成果を確認するために、外之原峠のエスケープ点からの続きを歩いた。

11:13 外之原峠再スタート地点は、緑の鉄製階段。
途中、尾根上で右折する。標識「道樹山2.5km 50分」の50分が1:20にマジックで訂正してある。)
12:07 下って上って、三角点のあるピーク(380.6m)に到着。ここからは下り。12:45 ベンチを過ぎると、ジグザグの急な下りとなる。13:11 石橋を渡り、少し行くとホソー林道に出合い右折し、桧峠に向う。

外之原町街角にある「東海自然歩道→」標識を、10:36に出発した。林道(外之原公民館から峠を越え、諏訪神社を経て地方道123に通じている)を登り、石材工場第二作業場を右に見てヘアピンカーブを三つほど過ぎ、11:13に再スタート地点に到着した。

外之原町の南と北からは、削り取られた山肌が無残な姿を呈する石材工場を挟んで、2本の林道が県境を越えて東に延びている。
当日の行程は、南側の林道の県境近くの外之原峠から山中を北上し北側の林道に出合い、県境の桧峠を経由して、再び山中を北上し道樹山(どうじゅさん)・大谷山に至る。このコースは、東海自然歩道として良く整備されている。

緑の鉄製階段を登り桧峠を目指す。フラットな道が続きベンチも多い。ピクニックゾーンである。再スタートの鉄製階段の脇には、「中部電力、電名瀬戸線No.31」の黄色い標識がある。この上空を送電線が横切っている。次第に高度を上げる。尾根上で右折。標識が「道樹山 OOkm」に変わる。

三等三角点(380.6m)を過ぎると、ジグザグに付けられた道を今度はひたすら下る。土留め階段、地肌の下り、色々である。下りの途中で、別系の送電線が山を越えていると国土地理院の地図にはあるが、樹間を下るので確認出来なかった。愛知県と岐阜県、春日井市と瀬戸市と多治見市を画する県境・市境の山々を、何本かの送電線が横断している。土地不案内者にとっては、これらを見極めることにより、山中での位置確認に役立てることが出来る。

このすぐ先が林道の桧峠。13:24に左にある(写真では分り難い)緑の鉄製階段を登り、延々と土留め階段と鉄製階段を登っていく。登りきって15分の休憩をとる。 しんどかった登りを終えると、後は次第にゆっくりと上り下りを繰り返して、道樹山に近づく。
14:22 道樹山に到着する。頂上付近には霊気ある空間が広がる。

桧峠(ひのきとうげ)は、外之原・白山神社近くから鶴田石材の北側を通る林道外之原線にあり、春日井市と多治見市の市境(県境)に相当し、三の倉神社、地方道123に至る。この石材会社の削り崩した山容は、初めて春日井に来て以来異様に感じていたものである。セメント原料採掘で山容の変わった埼玉(秩父)の武甲山を思い出す。

桧峠からの東海自然歩道は、長い土留め階段と緑塗装の鉄製階段をひたすら登る。先の三角点から下った分だけ直線的な階段で登り返す。20分で登りきると、ベンチがあり、崩れるように休み、水分補給をする。

その後は、小さなアップダウンで道樹山(どうじゅさん)へ。高度差も20~30mで心地良い。まもなく道樹山の頂上に到着する。頂上は広く何処がピークかは分らない。神社の周辺、東海自然歩道の標識の所らしい。愛岐三山は、弥勒山(436m)、大谷山(425m)と道樹山(429m)だ。

山頂には、秋葉神社(上社)が祀られている。中世・江戸時代に盛んだった神仏習合の火伏せ信仰・秋葉信仰が祀られていたが、明治初期の神仏分離で、仏教的要素は離れたという。しかしながら現在でも、麓の細野町の秋葉神社(下社)では、「秋葉の火祭り」が12月中旬に山伏達により催されているらしい。
神社の脇に、同じ石の上下に二仏を彫った石仏像が鎮座していた。二体仏というべきか?三鈷杵(さんこしょう)を右手に持ち邪気を祓う僧(行者)の上空に不動明王が示現した図と解釈する。少し離れた位置には、火焔が線刻された御嶽神社の石像も祀られていた。

14:22-14:33 道樹山山頂には秋葉神社(上社)が建つ。石像(御嶽神社)と石仏(二体仏)が山の邪気を祓う。修験道の山らしい。 大谷山までは広々とした尾根を歩き、少し下ってから登り返す。15:03 大谷山に到着。この後、50m先を都市緑化植物園に下る。

道樹山から大谷山に向う。ここまでは、誰にも会わなかったが、一人歩きの中高年ハイカーや体を鍛えている中高年何人かに出会うようになる。都市緑化植物園からうっかり登ってきた若い二人連れにも出会う。
大谷山で67才の自営業の方と暫し話し込む。「・・・最近は物欲がなくなり、次に登る山を決めると、その為の体作りを計画的にしている。午前中に仕事を済ませ、急いで山を登って来た。今は山登りが生甲斐になっている。・・・」と。正月に入る冬の西穂高山を目指してのトレーニング中という。羨ましいことだ。

大谷山から50m下った所から東海自然歩道を離れ都市緑化植物園に下る。東屋下の急勾配の岩場下りは、疲れた足には少々きつかった。植物園に下り切ったのは日没間近だった。

本年度の”歩きの成果”としては、
①.スタート地点までの約4km(林道上り1.7kmを含む)、②.東海自然歩道2.2km(外之原ー桧峠)、③.東海自然歩道0.9km(桧峠ー道樹山)、④.東海自然歩道0.7km(道樹山ー大谷山)、⑤.大谷山ー都市緑化植物園1.7km、⑥.植物園から3km
の山歩きを含めた約12.5kmを、なんとか歩けるようになったことである。ただし、少し疲れた。


13/11/27 愛岐トンネル群 と 東海自然歩道(定光寺駅ー外之原峠) (春日井市)

定光寺駅周辺の観光案内板(春日井市)。
愛岐トンネル群見学後、
東海自然歩道を途中の分岐まで歩く。
城嶺橋から見る庄内川。畳状に折重なった岩が綺麗だ。左上に現在のJR定光寺駅と複線電化された中央線トンネルが見える。愛岐トンネルはその上流、川沿いに位置する。

11/23(休日)に愛岐トンネル群を訪れた。

1900年(明治33)の名古屋ー多治見間国鉄中央(西)線開通以来、1966年(昭和41年)の廃線まで、高蔵寺ー多治見間の庄内川・土岐川沿いに、軌道敷と13基のトンネル群が配されていた。当時の削岩技術では、直線的に掘削するよりも川に沿って幾つかのトンネルを繋ぐ方が得策だったのだろう。「愛岐トンネル群」という。

愛知県側1.7km区間にある3~6号トンネル4基は、NPO法人”愛岐トンネル群保存再生委員会”により、2005年(平成17)より調査が始まり、2008年(平成20)からは春・秋2回の一般公開が催されている。公開は原則として土日・祭日で、混雑は避けられず、足具合と相談して、出来るだけ見学者の群れが途切れた隙間を行動するようにした。

軌道敷跡らしい拳大の石を足裏に感じながら暗いトンネルを歩くので、注意さえすれば格好の”足裏感覚と歩きのリハビリ”ともなる。10:20定光寺駅を出発し、1.7km区間を往復することにより愛岐トンネル群を見学し、12:47城嶺橋に帰ってきた。

その後、城嶺(しろがね)橋近くの”ホテル・千歳楼の廃墟”前から「東海自然歩道」に入る。紅葉真盛りの玉野遊園地で一休みして、13:25に愛岐三山(道樹山・大谷山・弥勒山)への道を歩き出す。朝からの行動に少々疲れたようで、思うように足が進まず、外之原分岐に到着したのが14:55となった。この時期の日没は早いので先に進む(山に入る)のは止めて、外之原町へエスケープした。

愛岐トンネル群見学者は、定光寺駅から階段で庄内川沿いの道(玉野用水と玉野古道)に降りる。上流へ300m歩き、廃線跡まで鉄梯子で上る。見学受付があり、すぐに3号トンネル(76m)がある。 4号トンネル(75m)のアーチは5重巻。

出口には三四五のモミジと鉄道愛好者好みの信号機設置石台がある。
三四五(みよい)の紅葉は、巨木のシンボルツリー。
雄大な渓谷上の巨木として、名所になりつつある。
5号トンネル(99m)と6号トンネルの間隔は200m。壁柱は太く堅固そう。岩盤が硬く脆く、工事も難かしかったらしい。コンサート広場が設置され、アルペンホルンの演奏が催されていた。
6号トンネル(333m)は、公開トンネルでは最長。側璧のレンガ巻きは7重。要石が鮮やか。入口で、ボランティアガイドの方が地盤の弱さや、それに対しての特殊構造と施行法などを分かり易く説明してくれた。 トンネル入口(坑門)とトンネル内のレンガ積みの様子。
実に見事な職人技だ。
東海自然歩道(城嶺橋ー外之原)を歩く。
玉野遊園地では子供連れの一団が紅葉を愛でていた。
東海自然歩道の標識は分りやすく、親切だ。
ホソー路に出合い、左すぐの緑色階段が順路。外之原分岐である。「桧峠に3.3km、定光寺駅へ2.5km」で、外之原町までは1km余り。日没時刻を考慮して、外之原町にエスケープする。

1.愛岐トンネル群

公開日には快速もJR定光寺駅に臨時停車する。老若幼男女、ぞろぞろと見学者が降りたつ。駅員さん達が総出で、「私達の鉄道の催しにようこそ!」とばかりに、にこやかに迎えてくれる。

庄内川沿いに玉野古道と玉野用水が上流へつづく。玉野古道は、明治28年に陶磁器の集散地・多治見と名古屋を結ぶ道として開通したが、翌年には、中央線開通工事用の道路となったという。現在は、対岸を愛岐道路が通じている。
この辺は、愛岐渓谷(玉野渓谷)と呼ばれるV字渓谷で、尾張平野への入口となっている。

上流へ300m、崖に設置された梯子(階段)で、軌道敷跡(廃線跡)に上ると見学者受付があり、見学料として¥300を払い、公開レイアウト・見所・トンネル小知識などを記したパンフレットを貰う。

パンフによると、愛岐トンネルの特徴は、一部に石材を用いたレンガ積みで、明治時代の鉄道トンネルの標準的な姿をよく伝えているという。各トンネルの坑門は一つとして同じデザインがなく、関係者の意匠へのこだわりが窺えるとある。

見所は、坑門のアーチを形作る迫(せり)石と呼ばれる台座のレンガで、強度を高めるために何重にも巻いている。アーチの中央にあるくさび状の要(かなめ)石も見所の一つだ。アーチの両脇に垂直に設置された壁柱(ピラスター)は強度・装飾上の柱である。壁柱の左右には翼壁(ウイング)が強度補強・デザイン性を強調して美しい。各トンネルの施工業者はこれらの箇所に技を競った。
レンガの積上げ技法は、明治時代らしく「イギリス積み」と言われる堅牢さを重視したものだ。
公開されたトンネルで最長の6号トンネルは、地盤が弱く建設工事中に崩落事故もあり、路盤を強化するインバートなど特殊施工などが施されている。

6号トンネルの入口では、NPO法人のボランティアガイドさんが、旧国鉄に残された資料を用いて、木枠を築いてアーチを形成する工程などを詳細に説明してくれた。「JR(国鉄)には、これらのトンネル施工に関する報告書がしっかりと残されていた。」とガイドさんは感心していた。
約半世紀を経た今もレンガの崩落も殆どなく原形を維持しているのは見事だ。うっかり天井に触れると、蒸気機関車のススに汚れて酷い目に遭うらしい。

新しい技術を求めていた明治のトンネル技術と削岩技術をここに見ることが出来た。昭和それも戦後復興の時代には、北アルプスを貫通した”黒部ダム工事”が語り草となっている。そして、現在、南アルプス貫通を始め地下トンネル群で満たされるリニア新幹線工事が始まろうとしている。技術の進歩が急であればあるほど、愛岐トンネル群に見る職人技の数々、意匠・工芸デザイン・イメージを大切にし堅牢さを誇ったレンガ積みの風景は、心安らぐものであった。

2.東海自然歩道(城嶺橋から外之原)

少し時間が余ったので、城嶺橋の200m下流から東海自然歩道に入る。この道は、玉野遊園地・御嶽神社から北上し、外之原・桧峠から愛岐三山(道樹山・大谷山・弥勒山)、内々神社に通じるハイキング道である。
日没時刻を頭に置き、エスケープ地点を探しながらのハイキングとなったが、結局は外之原分岐でコースを外れ、外之原町に出た。城嶺橋から分岐までは、標高差150m程度のアップダウンで、コース標識も明確で良く整備されている。中高齢者ハイキングやトレイルランの方に何度かお会いした。ハイキング道の下調べもできたので今後の楽しみが増えた。




13/11/15 仁所野遺跡(丹羽郡大口町)

(左図)白山1号古墳 東側から見ると、前方後方の線に沿うように石垣が組まれ、白山神社の拝殿(左端)が前方部上に、本殿(中央左)が後方部上に築かれている様子が分る。本殿石垣の裏・後方に”ふれあいの森”への入口(交差した木)がある。
西側は本来の姿を残していると思われるが、木々が生茂っている。。
(右図)”ふれあいの森”の更に北側・白山古墳群の最北部には、白山5号古墳(円墳)が墳丘を残し、墳頂に金刀比羅権現社を祀る。

仁所野(にしょの)遺跡は、犬山扇状地のほぼ中央部にあたる丹羽郡大口町の白山神社境内にあり、7基の古墳よりなる白山古墳群の一部を占める。白山神社の建つ1号古墳は古墳時代初期の全長約50mの前方後方墳とみられ、5号墳は墳頂に金刀比羅権現社がある円墳である。6・7号墳は、少し離れた竹薮の中にあり保存状態は良くない。
昭和57年に、2・3・4号古墳のある白山神社の北側を野外施設”白山ふれあいの森”として整備するに際して、仁所野遺跡として再調査された。その結果、2号古墳、3号古墳と4号古墳が実際には弥生時代の墳墓であることが明らかとなり、1号古墳を含めて弥生→古墳時代での墓制の変化を端的に示す遺跡と判明した。

日本列島では、紀元前後・弥生時代中頃以降に、地域の有力者を弔うために様々な墳墓が築かれた。北九州の甕棺墳丘墓、山陰から日本海沿岸に拡がる四隅突出墳丘墓、丹後の方形台状墳丘墓、東海を中心に広い分布を持つ方形周溝墓など地域的な特色を示す墓制が明らかとなっている。吉備の楯築墳丘墓が前方後円墳の祖形に、東海の方形周溝墓の延長上に前方後方墳があるとも言われている。いづれにしても、地方に特色ある墳墓の存在は、その地の歴史上の特異性と支配者の出現を教えてくれる。仁所野遺跡は、この地の”弥生墳墓→古墳”への移行を端的に示している。

”ふれあいの森”全景を南側から見る。白山1号墳と”ふれあいの森”のさらに北側に5号墳がある。昭57年にフィールドアスレティックス器具設定に際して再調査され、これら古墳が弥生時代の墓(方形周溝墓)であることが分った。2号古墳の墳丘部がよく残っており台状墓(または周溝墓)であると見られる。「仁所野遺跡」の石柱(ベンチの左)の向うに、4号墳、3号墳が位置する。 「白山ふれあいの森」
公園内施設の案内板には、調査前の名称(2号古墳、3号古墳、4号古墳)が記されている。
2号古墳(第1号方形台状墓)を南側から見る。

「仁所野遺跡 大口町埋蔵文化財調査報告書 第4集 1983年 大口町教育委員会」によると、従来の2・3・4号墳について以下のような調査結果が得られている。
 2号古墳は、第1号方形台状墓と改名された。長径約13m、短径12m、高さ約1.6mの盛土を持つ方形台状墓(或いは周溝墓)で、周囲に溝をめぐらせ、その溝内に3基の土壙を持つ。地山を削り出し盛土をしている。周溝から高坏7点、壺4点、器台2点などが破片となって出土した。出土した土器は、第2号方形周溝墓出土土器よりも年代的にやや新しい。
 3号古墳は、第1号方形周溝墓と改名された。基盤直上から弥生中期(瓜郷式)の壺形土器1個体が出土した。供献土器あるいは埋葬の壺棺とも考えられている。墳丘高は、流失した封土を考慮すると1m以上かも知れないという。
 4号古墳は、第2号方形周溝墓と改名された。台状部の一辺は約7mと推定され墳頂までは約50~60cmとされる。東西南方向にそれぞれ特徴のある周溝が巡る。墳丘に切り込んだトレンチから弥生中期の深鉢形土器、壺形土器片などが数点出土した。西溝からは、2個体の壺形土器と破片、この位置から南に延長したトレンチから数片の高坏が散在して出土した。南溝からは、数点の高坏片が出土した。東溝からは、北東の陸橋部の地山に接して押圧された状態で赤色顔料を塗布した壺型土器が出土し、その南側の土層から壺形土器、高坏、器台、蓋形土器など30点余が集積した状態で出土した。この土器群の南、約1m離れた位置から口縁部を欠失した底部穿孔の小型壺形土器1個体が置かれた状態で出土した。
 これら仁所野遺跡からの出土品は、歴史民俗資料館(健康文化センター3F)で見ることができる。

整備・復元され公園化した青塚古墳(犬山市)

犬山扇状地の古墳時代は、4世紀前半に、白山平に全長78mの前方後方墳「東之宮古墳」が、4世紀中頃に、犬山市南部に全長123mの前方後円墳「青塚古墳」が築かれている。
「東之宮古墳」では、三角縁神獣鏡5・平面鏡6などが出土し、犬山扇状地の最初の支配者となった邇波県主(にはのあがたぬし)を埋葬したと見做されている。「青塚古墳」は愛知県第2位の大きさの古墳で、前方部2段、後円部3段の各段に壺形埴輪が配列され、前方部頂上の方形壇上遺構の周囲に円筒埴輪が置かれている。壺形埴輪、円筒埴輪ともに赤色塗装されていた。
仁所野遺跡の所在する「丹羽」は「邇波」に通じ、古代の邇波郡が現代の犬山市から一宮市の一部にかけての一帯であったことから、仁所野遺跡は犬山扇状地・邇波郡に築かれた古墳文化の一つの先駆けと理解出来る。



13/10/31 西高森山 (春日井市)


上写真:弥勒山から(西展望)見た西高森山周辺の森
左手前の大きな池が築水池で、その奥が宮滝大池。西高森山は宮滝大池の右方(北)になる。県道53は弥勒山の手前下を左右に走る。
西高森山からの西展望(春日井市・名古屋駅方向)
左図:西高森山ハイキングコース(上方が北)
 (宮滝大池→山頂→林道→築水池→廻間7号墳→宮滝大池)

春日井市の北東端・愛岐三山の西山麓は、緑豊かな森林で覆われている。県道53(主要地方道春日井瀬戸線)が都市緑化植物園側と少年自然の家側に二分している。緑化植物園側は弥勒山・大谷山への登り口となる。今回は、少年自然の家側の森林地帯にある小さなピーク・西高森山(216.7m)へのハイキングである。

西高森山へは、宮滝大池から1kmほどの道程で登ることが出来る。宮滝大池畔から廻間7号墳へ向うゲートのある道に入り、すぐに左への山道を登る。今年の正月にトライしかかったが、山道の状況と脚力の回復度に一抹の不安があり、思い留まったコースだ。酷暑の夏場も過ぎ、ここ1ヶ月間は平地中心のリハビリ歩きと軽体操をしてきた。平地歩きと軽体操は基本となるが、不整地でのバランス感覚向上と筋力アップは大切だ。体調の回復を測る為のハイキングに再挑戦してみた。

入山口のゲートからは、中部電力の送電線を追っかけるようにして、100m余の標高差を30分ほど歩いて頂上に到着する。枝道が随所にあるが、標識もしっかりしていて何の問題もない。山頂に立派な東屋があり、84歳の意気軒昂な方に出会い20分ほど話しをする。若い頃から山歩きが好きだったが、4~5年前に大動脈瘤を患い、今は東屋まで登って来て、コーヒーを沸かし山の雰囲気を楽しみんでいるとのことだった。愛岐三山の弥勒山山頂に比べて、標高が低い分だけ尾張平野・春日井の町がすぐそこに大きく広がる。森林地帯の西端なので視界は狭いが、晴天ならば養老・鈴鹿山系と伊吹山が美しく、夕日も綺麗だと仰っていた。

春日井市民球場側に下り、林道歩きで築水池に出て、廻間7号墳から花崗岩露出地を通り出発地点に戻る。車でゲート附近まで来て、約3kmの行程、14:55に入り16:40に森から出てきたハイキングだった。林道を歩いていると、落葉を清掃している車に出会った。築水池堰堤の補修などを含めて、この森林は大切に保護されている。今回のコースを基本形として、バードウォッチングを含む色々なオプションで森を楽しむことが出来る。

3/10/16 神坂峠祭祀遺跡と園原ビジターセンター (岐阜県中津川市・長野県下伊那郡)

先に、リニア新幹線が南アルプス・赤石山系をトンネルで貫き、天竜川右岸の「飯田駅」に到達することを記した。「飯田駅」からは中央アルプスの南詰・恵那山を貫通し「中津川駅」に至る。今回の小旅行は中津川(岐阜・美濃)と下伊那郡阿智村・園原(長野・南信州)と県境・神坂峠である。

神坂峠周辺の現在の道路状況

神坂峠(みさかとうげ)は、岐阜県と長野県の県境にあり、中央自動車道”恵那山トンネル”がその直下を貫いている。園原(そのはら)は神坂峠を長野県(信濃)側に下った所にある。神坂峠は有史以前から交通の難所で、古代東山道は岐阜県・中津川から神坂峠を越えて伊那谷に入った。近世になり、東山道は”神坂越え”を避けて馬籠峠から木曽川沿いに北上する中山道に役目を譲った。ところが中央自動車道では恵那山を貫通し、更に将来のリニア新幹線では、中津川駅から飯田駅までは恵那山・神坂峠を、飯田駅から甲府駅までは南ア・赤石山系を、直線的に二段構えのトンネルで貫く。

今回は晴天の日を狙い、古代より現在まで交通の要所であった神坂峠を訪れ、峠の風景とその周辺で行なわれた祭祀遺跡・遺構・遺物に接する一日旅を企てた。神坂峠には、現在二通りの行き方がある。

一つは、岐阜側から林道を車で行く方法である。中津川ICより国道19号を走り沖田で右折、途中馬籠宿への県道を左に分けて直進、クアリゾート湯舟沢より”林道大谷霧ヶ原線”に入る。林道は約15kmで神坂峠(標高1576m)に到着する。クアリゾート湯舟沢は中央自動車道・神坂PAの近くに位置し、案内板により右折した所にある広済院跡附近から林道となる。広済院は、信濃側の広拯院とともに、神坂越の辛苦救済の為に平安時代に最澄(伝教大師)が開いた「布施屋」である。すなわち、この林道は古代東山道に沿って勾配を緩めるため九十九折の自動車道とした道である。林道は全線簡易舗装された一車線路で、林の中を急勾配で一気に高度を上げている。峠から信濃側は現在閉鎖されているが、恵那山への登山者などが利用するので、先の見えないコーナーでは対向車との交差に充分に注意しなければならない。
二つ目の方法は、信濃側の園原(中央自動車道・園原IC)より富士見台高原ロープウエイで”ヘブンそのはら”まで一気に上り、展望リフトと軽登山(約1Hのウオーキング)で神坂峠に辿り着く。

神坂峠祭祀遺跡 (峠の荒ぶる神を鎮める祭祀)
北斜面全景と標柱周囲(祭祀の中心)。 
古墳時代の祭祀では、主として石製模造品が、中世では須恵器、陶磁器などが供献された。
神坂峠からの眺望
西側:林道大谷霧ヶ原線と木曽川流域
東側:色づく寸前の木々と南アルプス連峰
園原ビジターセンター「はゝき木館」 
と 企画展示展会場
「はゝき木館」からの南ア眺望 と 
ズームアップした赤石岳と聖岳
リニア路線は、
赤石岳の左・荒川三山の辺りから神坂峠に向かう。

連休の人ごみとウオ‐キングに対しての不安より、今回は、林道の往復で神坂峠祭祀遺跡を見た後に、馬籠峠・清内路峠(トンネル)で迂回して、園原ビジターセンター・はゝき木館と広拯院・暮白の滝・神坂神社に向った。
中山道から伊那谷へ抜けるには、馬籠峠・妻籠から大平峠・飯田峠(大平街道)または清内路峠(清内路トンネルが開通してからはこちらが主道)で飯田市へ、あるいは、木曾福島から権兵衛峠越えで伊那北に通ず道がある。50年来よく通った道の懐かしさもあり、神坂峠から園原の里まで大迂回で移動した。
今回見て周った遺跡・遺物については、市澤英利著「東山道の峠の祭祀」新泉社、2008 で改めて調べておいた。遺跡・遺物の展示公開では、案内板・説明書の有無、写真撮影の制限などがある。手ぶらで見に行くと、何を見てきたかさえ覚束ないことがある。

神坂峠祭祀遺跡は、峠北側の斜面(平坦面)に石杭で囲まれ保存されていた。前述書を参考にすると、標柱の裏側に配石遺構を含む祭祀の中心があったらしい。祭祀場最上段の尾根上からは、西側には今登って来た林道と木曽川流域の平野が眺められる。東側には網掛山と天竜川流域の平坦地、その向うに南ア連峰が見える。

園原ビジターセンター・はゝき木館からは、赤石山系と聖岳が美しい。秋季企画展「石製模造品と神坂越え」(2013.10.2-12.23)が開催されていた。(実際には展示公開日と「晴天」を待っていて、連休の中日(10.13)の旅となった。)
普段は阿智村の収蔵庫に保管されている「神坂峠祭祀」に関する遺物・石製模造品が、5年ぶりに一堂に公開展示されていた。写真撮影が禁止のため、展示の様子が伝えられないのは残念だ。石製模造品とは、刀子、剣、鏡、有孔円板、玉類(勾玉、管玉、棗玉、臼玉、ガラス玉)やその形から馬形と呼ばれる石片などで、大きくても5~10cm、多くは2~3cm程度の加工した小片である。関東の古墳では実物の刀・鏡・玉類の代りに石製模造品が埋納されることは屡々あるが、これほど多くの多種・多様の石製模造品が、一つのマツリへの奉献を目的として周辺多地域で埋納された例は珍しい。

「見学ポイントシート」(刷物)が用意されていて、”Ⅰ.神まつりの里の石製模造品 Ⅱ.神坂峠の石製模造品 Ⅲ.大垣外遺跡の石製模造品祭祀と「道」 Ⅳ.古東山道と神坂越え”と、実際の展示通りにテーマで分類して、展示品を分かり易く解説してくれている。
大垣外(オオガイト)遺跡とは、網掛山の北東山麓・駒場(昼神温泉郷)にある遺跡で、東山道の拠点の一つである。マツリの道具である石製模造品は、神坂峠頂上の遺跡、園原の遺跡(杉の木平など)、大垣外遺跡など山麓を含む多くの地点・地帯で出土していて、それぞれの石片に刻まれた情報量は多く、解説無しには唯の石片の集まりに見えてしまう。
山畑遺跡(中津川市)での巨岩・石組祭壇でのマツリ、杉の木平遺跡(園原)の巨礫・磐座のマツリ、神坂峠での長期間・不特定多数の人による継続的なマツリ、神坂峠の馬形模造品と剣形模造品、大垣外遺跡での5-6世紀の関東の孔付土器と7世紀以降の東海地方の土器、などが興味深い。

神坂神社 手前の大石はヤマトタケルの腰掛け岩。
磐座と推定される。
神社から神坂峠へは、古代東山道がつづく。
社殿横には樹齢二千年以上の杉やトチの大木が
うっそうと茂る。
暮白の滝を眼下に見ての滝見台は、
「皿投げ祈願所」
この附近の道路沿いの斜面・平坦地が
「「杉の木平遺跡」
網掛山越しの南アルプスの眺望が抜群!

はゝき木館から車で神坂神社まで上る。神坂神社に駐車場があり、それより先は古代東山道の登山道になっている。神坂峠→神坂神社→園原の里→阿智駅家(駒場)と古代東山道はつづいた。
神坂神社の御祭神は住吉三神で、信濃の安曇族(海人)との関連を指摘する説もあるらしい。ヤマトタケルが東征の際に”腰掛けた”とする大石もあるが、古代人の磐座信仰の岩の名残りと見る説が頷ける。

杉の木平遺跡は、暮白の滝近くの自動車道下の緩い勾配地に相当するが、とくに案内板も標識もない。滝水は森の隙間に細い線となって落下し、夕暮れ時には白く輝やくという。
滝見台からの南アルプスの眺望は絶品。園原の里を眼下に、近くに夜鳥山(1319m)と網掛山(1132m)、遠く南アルプスは左から荒川三山(悪沢岳:3141m、中岳:3083m、前岳:3065m)、赤石岳(3120m)、聖岳(3013m)、上河内岳(2803m)、池口岳(2392m)、鶏冠山(2248m)。
暮白の滝近くには、万葉集や源氏物語で名高い”はゝき木(箒木)”の古木もあり、ビジターセンターの名の由来となっている。

広拯院は伝教大師最澄ゆかりの「布施屋」。
写真は”月見堂”。 
信濃比叡「根本中堂」や最澄像もある。

園原の里は、伝教大師最澄の「布施屋」との関連で、平成12年に総本山比叡山延暦寺より「信濃比叡」の呼称が許可された。平成17年には根本中堂が建立され、”不滅の法灯”が分灯された。

東山道の阿智駅家(うまや)は、園原にはなく、阿智村駒場にあった。しかしながら、園原の里は神坂峠への登り口・下り切った所で、都(みやこ)にも聞こえた存在であった。「遠くからは箒を逆さまにしたような大きな木に見えるが、近づくと見えなくなる不思議な木」である「はゝき木(箒木)」伝説が残り、「箒木の心を知らで園原の 道にあやなく惑ひぬるかな」なる歌が「源氏物語二巻箒木」を飾る。

三遠南信(東三河・遠州・南信州)地域は、先に述べた遠山郷・下栗の里などを含めて、日本の原風景を色濃く残したところである。南アルプス・中央アルプスをトンネルで貫通する時代になっても、日本の美しい風景をいつまでも遺して欲しいものである。
『日本百名山』二十三座の展望が一望できる富士見台高原(標高1739m)は、神坂峠から1時間以内である。なだらかな山容はリハビリ・トレーニングの場としても相応しい。



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