春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (14)

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14/04/03 定光寺と弥勒山と桜 (瀬戸市、春日井市)

臨済宗妙心寺派応夢山定光寺
R205沿いの参詣道入口近くの桜はまだ開花していない。
北側の165段の石段(約10分)を登る。
山門に到着
山門を入ると正面に無為殿(仏殿)
しだれ桜が美しい。境内は、山門に沿って左右に茶処と鐘楼、客殿などが並び、右手奥から廟所への山道がある。左手奥から一段と登って、霊園、経堂、展望台に続く。
尾州藩祖徳川義直廟を画す龍の門と築地塀
廟は、祭文殿の向こうの壇上に、
唐門、円形墳丘、石塔を配す
展望台から
正面に名古屋駅のタワービルが見える
霊園には早咲きの桜が満開
都市緑化植物園の桜
春の陽を浴びて満開
弥勒山頂の弥勒石像
(賽銭箱の前で野鳥が遊んでいた)
東北東に「御嶽山」の雪姿(コントラスト調整)

3月31日に瀬戸市の定光寺に春を訊ねた。桜開花情報では”咲き始め”である。4月1日に弥勒山(437m)に登った。弥勒山麓の春日井市緑化植物園・子供広場の桜は満開で、花見客で賑わっていた。

定光寺は臨済宗妙心寺派の山寺であり、徳川家康の第九子・徳川義直の廟所となっている。徳川義直は甲斐甲府、尾張清州の藩主を経て、初代の尾張名古屋城主となった人物である。

定光寺駅から瀬戸市に通じる地方道205で山を登る。お寺はR205から外れた北側の山上にあり、自動車道もついているが、R205沿いの駐車場に車を置いて参詣道の165段の石段を登る。参詣道入口近くの桜はまだ蕾である。急な石段もあるので、下りに役立つトレッキングポールを携帯しての参詣となる。R205の反対側(南側)は定光寺公園となっている。

源敬公廟と呼ばれる義直公の廟所は、儒教建築で統一され、左甚五郎の獅子の彫刻のある獅子門を経て、築地塀を従えた龍の門から墓所に入る。一段と高い位置の石垣上の墓に向かって祭文殿(焼香殿)があり、殉死者9名の墓が石垣下に併せている。全ての殿舎の屋根には、鯱の飾りが付けられている。祭文殿脇の宝蔵殿側に、ひっそりと山桜が咲いていた。

無為殿(仏殿)は本堂に相当する。禅宗様式の国重文の建物で、本尊は延命地蔵願主菩薩である。殿舎前のしだれ桜は見頃で、風情がある。

無為殿に向かって左(西側)に一段と登ると、展望台・霊園に通じる。途中に一切経(大蔵経)を収めた経蔵がある。この経蔵には回転する経架が備わる輪蔵がある。輪蔵を手押しして廻すことにより、膨大な一切経を唱えると同様な功徳が得られるという。

寺域西側の最高所に展望台があり、尾張平野を見下ろしている。現在では名古屋駅前のタワービルが目立つが、名古屋城を眼下にし、義直公遺命により廟所が定められたという初代尾張藩主の面目が躍如としている。山上一帯は霊園になっていて、一本の桜の大木は満開だった。

翌日、春日井市都市緑化植物園から大谷山(425m)に登り、尾根づたいに弥勒山(437m)に向かった。麓の植物園の桜は満開で、子供広場はお花見客で賑わっていた。

久しぶりのこのコースでの低山歩きである。岩山休憩所辺りまでは岩場の急な登りが続く。慎重に登って行くが、幾分以前より脚力がついてきたようだ。しかしながら、以前には快適な林間の遊歩道と感じた所で、かえって息が切れてくる。歩きなれたせいか、ついあせってペースを早めてしまうようだ。と言っても、子供連れの御祖母さん一行に抜かれてしまうので大したことでもない。

大谷山から弥勒山へ、最後の100mほどの急な登りで山頂休憩所に着く。老若男女、人の往来が多い山頂で一休みする。休憩所の北側に、東北に開けた展望ケ所があり、山名由来の弥勒石仏が祀られている。石仏とは名ばかりで、ミロク像は定かでなく、後背に地蔵さんに懸けるような涎かけが懸けてある姿だ。野鳥が賽銭箱の周囲を飛び回り遊んでいた。麓に少年自然の家があり、周辺は”築水の森”で野鳥観察地となっている。登山客を追っかけて飛来したのかも知れない。

春霞でどんよりした遠景だが、木曽御嶽山がまだ冬の装いのまま、その雪山の容姿を見事に見せていた。

カシミール3Dによる弥勒山山頂から北東のビュー(視野角<90°) 
条件が良ければ、御嶽山と恵那山の間に中央アと南アの峰々が見える。この視野のすぐ左に白山が見える。


14/03/11 下原古窯跡群 (春日井市)


下原古窯跡 (窯跡はテントで保護されている)
左から、7号窯、(8号窯灰原)、2号窯、
(1号窯灰原)、6号窯、3号窯、5号窯
見学会受付と2回目の説明に集まった人

3月8日(土曜日)に、「下原古窯跡群(しもはらこようせきぐん)現地見学会(春日井教育委員会文化財課)」に出かけた。遺跡は春日井市の北西部、小牧市に接する小高い丘・北面する斜面上にあり、周辺からは良質な陶器原材料が得られるようだ。古窯の存在は地元の郷土史家には以前より知られていたようだが、昭和36年より本格的な発掘調査が続けられ、6基の古墳時代後期(6世紀前葉〜中葉)の須恵器・埴輪併焼窯、2基の古墳時代終末期(7世紀前葉〜中葉)の須恵器窯を含む11基の釜が確認されている。普段は隔離保存されているので、機会がなければ窯を真近に見学できない。

「日本」という”国”が、大陸(中国)や朝鮮半島に伍して確立されたのが”古墳時代”である。中國皇帝に対して”国”の存在を主張していた”倭の五王”の時代(5世紀)に続き、朝鮮半島からハイテク技術・技能を携えて来た多くの”渡来人”を受け入れた6世紀は、”律令国家誕生”の前段階である。

下原古窯の炉は、窖窯(あながま)と呼ばれる登り窯の一種である。焚き口で得た熱を傾斜のついた炉内上方に伝え、焼成部の器や埴輪に熱を与える。野焼での焼成温度は精々900℃であるが、閉じこめた空間を作ることにより1100℃以上の焼成温度が得られ、炉内の温度分布も安定する。窯構造、焼成温度、焼成条件などの向上、使用原材料の厳選は、粉末紛体の固相反応に劇的な進歩をもたらした。その結果、硬質の土器あるいは還元雰囲気中では灰色の硬質土器(須恵器)の製造が可能になった。須恵器製造工程ではロクロの使用が採り入れられ、この工程上の変化も陶器製造(窯業)技術に進歩をもたらした。須恵器製造技術は5世紀頃に朝鮮半島から伝わった画期的なハイテクである。

2号窯 
6世紀前葉の窯、焚口、燃焼部、焼成部、煙道と続き、
焚口前面の灰原から大量の遺物が出土した
3号窯
 6世紀前葉〜中葉
全長10.5m以上、最大幅1.8m、天井高1.2m、焼成部の傾斜角約29°と計測されている。煙道部がよく遺っている。
下原古窯で採取したハニワ
人物埴輪(中央手前)、水鳥埴輪(右手前)は、
下原古窯と二子山古墳からの出土品が左右に並べて
展示され、両者が同じ工人集団の作である事を示す。

古墳時代の尾張地方の窯業拠点は、下原古窯を含む尾北窯(びほくがま)と現在の名古屋市東部に広がる猿投窯(さなげがま)から始まり、5世紀中葉から始まった猿投窯の工人集団が両窯を行き来したものと解されている。6世紀前葉の下原2号窯は尾北窯最古のものとされている。
下原古窯で焼かれたハニワは、庄内川中流域の味美古墳群(白山神社古墳・御旅所古墳(5世紀末葉〜6世紀初頭)や二子山古墳(6世紀前葉)などに運ばれたと、両遺跡からの出土品を見比べ説明されている。このことは、味美勢力(尾張氏あるいはその同族)と工人集団(渡来人)の関係(連携・把握・支配)を意味していると説明されている。この時期の尾張氏は、”継体大王(天皇)擁立”に深く係っていて、「日本国」誕生での重要な局面を担っている。
継体大王(天皇)は、応神5世の子孫として北陸より呼び戻されたとする謎多き大王であるが、継体・欽明朝を「日本」の国づくりの幕開けとする「新王朝論」もあるほど、重要な意味合いをもつ大王である。継体妃の一人で安閑・宣化天皇の母が、尾張の目子媛である。

窯跡は国内各所にあるが、保存整備され公開されているものは少ない。大阪府高槻市に「新池遺跡」という公開された窯跡群がある。太田茶臼山古墳(5世紀半ば頃)と今城塚古墳(6世紀前半)にハニワを供給した窯跡群で、ハニワ工場公園として近代的なマンション群の中で整備・保存されている。現行では太田茶臼山古墳が継体陵であるが、今城塚古墳の方が真の継体陵と認知されている。窯跡遺跡は「ハニワ工場公園」として整備・保存されている。窯跡を示す植込みと覆屋内の再現窯があり、柱跡が見つかったハニワ工房跡には作業所建屋が再現されている。

遺跡は辺鄙な所にあることも多く、当遺跡のように整備されていても段附きの木道などで保護されている場合が多い。脳梗塞発症から3年に近づいた今、ようやくあまり気兼ねすることなく、遺跡内を歩き回ることが出来るようになった。


14/02/20 現地説明会 (春日井市)

羨道側(南)から玄室方向をみる。玄室を横切るのは旧公民館の基礎コンクリート。説明する浅田主査の背後に三明神社。
玄室奥壁側を西側から見ると、東側壁近くに、長頸瓶、高坏などが見える。右(南)側のコンクリート塊は旧公民館の基礎。

2月16日(日曜日)に催された「神領(じんりょう)第1号墳発掘調査 現地説明会」を見学した。前日、春日井市の古代史講座を聴講した際に翌日の開催を知り、急遽午前10時からの説明会に出かけた。
庄内川は東谷山の北山麓を通過し尾張平野に出た所で蛇行し、古代より幾度となく氾濫し現在の流路に落ち着いた。このような氾濫原や自然堤防上には、縄文・弥生時代の集落跡が見つかっている。神領第1号墳は、庄内川右岸の自然堤防上に位置し、三明神社古墳、神領第4号墳とともに三明神社の境内にあり、いずれも7世紀代(古墳時代後期あるいは終末期)の古墳と推定される。これらの古墳と高御堂古墳(前期)、神領銅鐸出土地などは堀ノ内・神領遺跡群と呼ばれ、上流の親王塚古墳(後期)、天王山古墳(前期)などを含む大留・南気噴遺跡群と接していて、更に上流には高座山南山麓(高蔵寺)の後期古墳群がある。

現地説明会は発掘現場付近の住民への報告・説明を目的としているが、考古学・遺跡マニアにとって発掘現場の生の姿を見るにこの上ない機会である。発掘現場は殆どの場合は埋め戻されて次世代に受け継がれる。この機会を逃せば、跡地に建つ石碑、説明板、写真・報告書などで発掘現場・状況を想像するしかない。神領第1号墳の場合も、現地説明会が終われば埋め戻される。

発掘を担当した春日井市教育委員会・浅田主査により丁寧な説明が行われた。「・・・神領第1号墳は封土が既に消失していて、古墳上には旧神領町公民館が建てられていた。古墳石室の羨道部は平成2年に見つかり緊急調査されていた。今回は旧公民館の解体に伴い羨道の一部と玄室の発掘調査がなされた。石室の上部の構造は不明だが、最下段の輪郭は奥壁から両側壁までほぼ完全に残っている。玄室側面が直線的で奥壁付近でややすぼまる点、奥壁に2枚の扁平石材を直立する点を特徴とする。石室は南に開口、石室全長6.85m、玄室奥壁幅1.1m、玄室最大幅1.4m、玄室長3.3m、羨道幅1.2〜1.3m。副葬品としての土師器の甕のほか、須恵器坏・壺・高坏・台付長頸瓶などが出土した。古墳墳形・規模は周辺の古墳から直径10数m前後の円墳と推定されている。・・・」

庄内川右岸の古墳は消滅したものも多いが、時代的に重なる集落遺跡が周辺に発見されている例が多い。神領第1号墳と重なる7世紀の住居跡が、神領駅前の神領絲田遺跡・神領出口遺跡に確認されている。


14/01/27 鈴鹿山脈 (三重県・滋賀県) 

高蔵寺ニュータウンから濃尾平野越しに眺めた図。
冬晴れの日(2/6)、養老山地背後に、鈴鹿山脈主要部が全姿を現した。(コントラスト強調)
カシミール3Dによる鈴鹿山脈の山座同定 

冬晴れの日には、濃尾平野の西端を占める養老山地の裏側に、鈴鹿山脈が雪を抱いて鮮やかな姿を見せる。フりー地図ソフト・カシミール3Dを用いて山座同定を行なった。鈴鹿山脈の最高峰の御池岳(1,247m)が台形の大きな姿を呈し、その左に花の百名山で名高い藤原岳(1,144m)、少し離れて竜ケ岳(1,099m)、更に南に鈴鹿山脈第二高峰の雨乞岳(1,238m)と日本二百名山の御在所山(1,212m)が見える。

鈴鹿山脈の最高峰・御池岳は滋賀県に属す。藤原岳以南の上記4山に釈迦ケ岳(雨乞岳の北)、鎌ケ岳と入道ケ岳(御在所岳の南)を加えた三重県側の7山は、鈴鹿セブンマウンテンズと名付けられている。

昭和40年代に”セブンマウンテンズラリー”という全日本クラスのラリーが催されていた。午前・午後の鈴鹿サーキット西コースでのサーキットランとサーキット大駐車場でのジムカーナに続いて、夜になって翌朝まで、鈴鹿山系、青山高原と名阪国道沿いの山岳林道を使ってのラリーが行なわれた。2度ほどナビゲータとして参加したが、想い出深いラリーである。日本のモータースポーツの草分け的なイベントだった。

鈴鹿山脈についての別の想い出は、鈴鹿山脈北部の石灰岩山地の林道を車で越した時に見た景色である。多賀SA近くから養老山脈(藤原岳・御池岳周辺)を越えた峠道で、目に焼け付くような白い石灰岩砂の道に出合った。残念ながら、それがどのルートのどの峠であったかは思い出せない。

カシミール3Dソフトは、山行きに便利な情報を色々と与えてくれる。仮想的な登山を周囲の山々とともに楽しむことや、登山道の大まかなアップダウンを知ることも出来る。比較的楽に登れそうな”藤原岳”を目標にして、リハビリ山歩きを検討するには好都合である。


14/01/07 東谷山周辺 (名古屋市)

小春日和の正月7日、遅ればせの尾張戸(おわりべ)神社への初詣を兼ねて、東谷山(とうこくざん)周辺を歩いた。
高蔵寺駅から東谷橋を渡り、東谷山西山麓に築かれた6世紀の後期古墳群の一つである白鳥1号墳、石室の側壁が遺る東谷山12号墳と16号墳を見学した後に、東谷山北西面に敷かれた林道で山頂(198.3m)の尾張戸神社に初詣し、中社(なかやしろ)古墳、南社(みなみやしろ)古墳を経由してフルーツパークへの散策路を下った。散策路とは名ばかりの階段続きの下りである。最後に、”歴史の里”として整備中の4世紀前半の白鳥塚古墳に立寄って、出発点に戻った。

白鳥1号墳 正月であるからか、入口の施錠が解かれ内部が見学できた。直径17m、高さ3.5mの円墳の無袖型の横穴式石室である。1961年の調査で、馬具・武具・須恵器の副葬品が見つかっている。6世紀終り頃の築造とされる。 東谷山12号墳の石室 天井石は失っているが、古墳自体も不完全ながら残っている。無袖型の石室は小振りだが、他所でもよく見かける大きさである。古墳後方から見ると、かろうじて盛土の一部が残された姿が見て取れる。

国道155線沿いの白鳥1号墳は、以前訪れた時に比べ周辺も綺麗に掃除され、石室入口の扉の施錠も解かれていて石室内部の見学ができた。無袖型の石室で、天井高も腰を屈めなくても入れる充分の高さがある。後期古墳の石室は、羨道から玄室に向っての拡がりが片側面あるいは両側面にあるかで片袖型、両袖型に区別されたり、内部構造、壁面壁画の有無で特徴が表される。この地域で見る石室は東谷山12・16号墳も含めて無袖型で、室内の装飾もない簡素な石室である。

国道から逸れて、坂を上りフルーツパークと東谷山に向う急坂を登る。住宅地の外れで、畑地やブドウ園のある辺りに入って行くと、場所柄不釣合いな大きな石が転がっていて後期古墳が点在した地に近づいたことが分り、畑の中に東谷山12号墳の石室を見つける。農作業中の方に許しを貰い見学させてもらう。作業の手を止めて、「私は此処に来てあまり長くはないが・・・」と断りながら、見学者が多いこと、周囲に古墳の残骸が幾つもあることなどを親切に話して下さった。

東谷山16号墳の石室 天井石は失われ室内高や羨道・玄室の境目も不明だが、非常に大きい規模の石室(18mと計測)である(ビールケースの大きさと比較)。墳丘は30mΦと推定されている。途中の大石より先に玄室があったとすると更に規模は絶大となる。 東谷山16号墳の羨道(石室)入口は南面している。東谷山が直角方向(東)背後に見え、神奈備として崇めるに相応しい条件(三角錐の形状・適度な高さ)を備えている。西方向には、尾張(濃尾)平野・伊吹山などが一望できる。

東谷山16号墳の石室は、農道を境にしたブドウ園の中にあった。フェンス越しに作業中の方を見つけたので、ブドウ園のフェンスの切れ目を探すが見当たらない。仕方無しに、隣接する畑の端を横切り見学の許可を貰う。
この地主の方は相当古くからの住人で、「この辺り一面は50年以前には林で、切開き畑地に開墾した時に多くの古墳が潰されたこと、造園業者が喜んで大きな石を持ち帰ったこと、学者さんや好事家の見学が最近多いこと、年に三度は市行政からの見学があること」などを話して下さった。
同時に、うっかり子供が入って来て、石室に積上げた石が転げ落ち下敷きになることを恐れ、見学者が近隣の畑を荒らす行為も心配だとの事である。ブドウ栽培者としては、ブドウは手を掛ければ掛けるほど味が良くなるので、1年中その作業は絶えず、ブドウ園を占有する石室の存在は大変な作業障害となっている。果実に虫が付かない為の石室近辺の雑草刈だけでも大変らしい。立派な文化財が敷地に眠る地主の迷惑はこの上ないものと嘆く。
それでも突然訪れた他所者に、「見学に来た先生が説明してくれた受け売りですが・・・」と、「東谷山は4っつの山(尾根)から出来ているが、ここに積上げられた石が何処の石かは定かでない・・。・・この周辺の石室は、第二次大戦中は防空壕として使われたり、終戦後は子供の遊び場だった。・・16号石室は周囲の古墳の中で最大で、一番景色の良い所に築かれている・・」など核心的な情報を教えてくれる。実際にブドウ園からの景色は、庄内川を見下ろし遠くに伊吹山が美しい。話しはブドウ栽培の大変さなどにも移り、話を聴きながら東谷山を見上げると、当日の無風・小春日和の暖かさが心地良く、東谷山の神奈備としての認識が推察され、古代人感覚に戻ったような醍醐味を感じた。

この日の古代への旅は、前半のノッケで最高潮に達したが、更に旅を続けるために、東谷山山頂への道を探す。中学生が坂を下って来たので尋ねると、ハキハキと丁寧に教えてくれた。フルーツパークへの道から離れて住宅地の最奥から林道に入る。車での侵入は制限されていて、途中で通行止めになっている。山頂へは遠回りしながら登るので、距離は長くなるが勾配は緩やかで心地良い。

尾張戸神社は古墳(尾張戸神社古墳:4世紀前半の墳径約27.5mの円墳)の上に建っている。延喜式神名帳に載る古社で由緒正しい。古墳の上に神社や祠を置く例は少なくはないが、特に尾張平野に多く見受ける。拝殿を飾る門松が正月らしい。裏側に廻ると、本殿が墳丘上に見える。 中社古墳は山頂から80m下った同じ尾根上にあり、墳長63.5mの前方後円墳である。南方向(後円部頂の祠からの石段方向)に前方部がある。以前訪れた時は、この石段の左側面(くびれ部)を発掘調査中だった。4世紀中頃の築造で、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪が出土している。
中社古墳からは長い急勾配の階段を下る。下り切った所が「山頂から230m・フルーツパークから520m」で、階段を避けて迂回する道を分けている。分岐から真直ぐに90mほど登ると、南社古墳に達する。 南社古墳は、4世紀中頃の円墳(墳径:約30m)で、円筒埴輪、朝顔形埴輪、盾形埴輪が出土している。フルーツパークへまでは430m、たすら階段道を下る。
階段道の勾配が次第に緩くなり散策路らしくなると、すぐにフルーツパークの東側を通り正面に出る。 フルーツパークから山頂まで750m(標高差約130m)の「散策路」の起点である。 「志段味古墳群・歴史の里」として整備された国史跡・白鳥塚古墳に立寄る。説明板が完備された。白鳥塚古墳は、4世紀前半の典型的な前方後円墳(墳長約115m、後円部径約75m)で、”墳丘形態・葺石や墳頂への石英散布”が、ヤマトの大王墓・行燈山古墳(現崇神天皇陵)に類似していることが注目される。

頂上の尾張戸神社で、形どうりの初詣を済ませてゆっくり休む。木で組み上げた展望台から、西方に広がる濃尾平野が一望出来る。神社横のベンチからの東側の景色も良い。三国山・猿投(さなげ)山などが瀬戸市の町並みの後方に連なり、木彫りの説明板には一年を通しての日・月の出入りが刻まれていた。神社の敷き台となっている尾張戸神社古墳は円墳で、古墳時代の遺物も出土していない。麓の白鳥塚(しらとりつか)古墳と同様に石英が葺石の間や墳頂にばらまかれている事から4世紀前半の築造年代が与えられている。白鳥塚古墳の埋葬施設は物理探査から”有”と推定されているらしいが、東国山の3古墳はいずれもその存在は確認されていない。

帰途は、フルーツパークへの階段道を下る。すぐ近くにある中社古墳は4世紀中頃の前方後円墳で、以前訪れた時に発掘調査中だったくびれ部の葺石は元に戻されていた。調査が終わって埋め戻された姿を見るのも面白い。東海地方で最古の円筒埴輪の出土、24年度には家形埴輪の出土など話題が多い。

一度長い階段を下り切って少し登ると、同じく4世紀中頃築造とされる南社古墳(円墳)がある。

南社古墳からは淡々とフルーツパークを目指しての階段状の下りである。右足・右半身に麻痺が残る身としては、一番の苦手が下りの階段である。下りの階段は片足に全体重がかかり易いので、右足・右半身をかばうと右肩が落ち右脇腹の張りが無くなり、腹筋を使った歩きのバランスが崩れる。平坦な道でのリハビリで意識して行なっている課題が、こういう場面で試されることになる。

フルーツパークから東谷橋へと下る途中で国史跡・白鳥塚古墳に立寄る。”歴史の里”としての整備が進んでいて、立派な石碑と説明板が備わっていた。白鳥塚古墳は、断夫山古墳や味美二子山古墳とともに尾張平野の古代を物語る最重要な古墳で、詳細な情報が期待されるが、いずれも埋葬施設は未調査または不明で、発掘調査は部分的である。この地に限った事ではないが、盗掘や破壊は行なわれても、発掘調査には慎重にならざるを得ない事情が多々あるようだ。

参考:
1.名古屋市教育委員会:志段味古墳群を巡る、平成24年3月初版
2.服部、木村、綾瀬:なごやの古代遺跡を歩く、2008・7、風媒社



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