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春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (16)

14/12/24 日本モンキーセンターと犬山寂光院(犬山市)

 
焚火にあたるサル。 焼芋がサルに配られる。

”焚火にあたるサル”を犬山市の日本モンキーセンターへ見に行った。帰途、1.3km離れた寂光院に立ち寄った。寂光院はモミジ寺として有名だが、時季を過ぎていたので静かな佇まいの中にあった。

日本モンキーセンターは、世界のサル(約70種950頭)を展示・飼育しているサル類専門の動物園であり、名鉄関係の遊園地であるモンキーパークと園内で連絡している。サル動物園は隣接する京都大学霊長類研究所と密接な関係にあり、「サル類の総合的研究、野生ニホンザルの保護など」を目的」とし、ビジターセンターは博物館の役目を果たしている。

”焚火にあたる猿”は、屋久島に生息するヤクニホンザル(約150頭)が焚火に群がる「冬の風物誌」として有名となっている。ただし、現生のヤクニホンザルは全員犬山生まれの犬山育ちらしい。焚火の中には、サツマイモが放り込まれていて、午後2時過ぎに飼育員よりおサルさん達に振舞われる。サル達もその時間になると、我も我もと焚火の周りに集まってきて、飼育員の掘り出した焼き芋の確保に余念がない。焼き芋を手に入れると櫓の高所に運んでゆっくりと独り占めするサル、熱い焼き芋を水辺で冷やして食べるサルなど様々である。飼育員は芋を掘り出す前にボス猿に蜜柑を与えていた。それを持ってボス猿は櫓に登り、離れた場所から芋を奪い合う様子を冷やかに眺めながら、蜜柑の皮を剥いていた。このボスは芋より蜜柑を好むようだ。最終的には、来園者にも別に用意された焼き芋が配られた。美味しい焼き芋だった。

   
ボスザルは蜜柑を食べながら下界の騒ぎを見守る こっそりと焼芋を
楽しむサル
大きな焼芋を得て
得意そうなサル
   焼芋を水辺に運んで
冷まして食べるサル
     
 ワオキツネザルは
野外に設えた暖房器具の前を離れない
ヒヒの城では約70頭のヒヒが陽だまりを求めて群れる
   リスザルの島は楽しい。サルが宙を飛ぶ。
おばあさんザルも生後間もないリスザルも
同じように小さく枝に留まる。

サル動物園の園内を一周したが、世界から集められたサルの種類の多さに驚いた。マダカスカル館、南米館、アジア館、アフリカ館があり、約70頭のヒヒの群れがいるヒヒの城、ゴリラ、チンパンジーやマンドリルのいるアフリカセンターなどがある。ワオキツネザルやリスザルは、夫々に放し飼いの島があり、人間がその島に入って見学する。小さいボリビアリスザルが頭上を飛んで反対側の枝木に飛び移る。サルの思うがままの世界である。島への扉の開け閉めやサルの行動に気を配っている飼育員が居て、彼・彼女達は、個々のサルの顔と名前が識別出来るらしい。新人は月に82頭の顔と名前を覚えるのがノルマとなっていると話してくれた。

ビジターハウスは霊長類について学べる博物館になっている。霊長類とはヒト、類人猿を含むサルと呼ばれる動物で、約200種ほどが知られている。とくに、200〜150万年前のホモ・ハビリス、 160〜20万年前のホモ・エレクトゥス(原人)、25万年前〜現在のホモサピエンスは人類の発生と進化に重要な知見を与える。ホモサピエンスはネアンダ―ル人(旧人)とクロマニヨン人以降の人類(新人)の二つの亜種に別れる。
ケニアなどアフリカで発掘されたホモ・ハビリスの頭骨、下顎骨、右大腿骨、ホモ・エレクトゥスの頭骨、ホモ・サピエンスの大腿骨足骨が展示されていた。類人猿で人に一番近いオランウータン科の大型サルとして、アフリカのゴリラ、チンパンジーとピグミーチンパンジー、アジアオランウータン、テナガサル科のサルが知られていると紹介されていた。人類の起源・進化は霊長類研究の主要な興味深い課題の一つである。

庫裡から急な石段が始まる。途中左に不動堂があり、そこから頂上が見える。小さなスロープカーが坂の右端から出ている。 本堂(右)と回廊でつながる隋求堂(左)。隋求堂の前に鐘楼、さらに西側奥に弘法大師の筆塚がある。筆塚からは大展望が開ける。

犬山寂光院は真言宗智山派の古刹で、654年に孝徳天皇の勅願により奈良元興寺・道昭和尚が開基した。本堂本尊の千手観世音菩薩は秘仏であるが、前立の像を常時拝することが出来る。銀色に輝く美しい像である。本堂と回廊でつながる隋求堂には、本尊として祀られるに珍しい大隋求菩薩が祀られていて、月に二度御開帳される。大隋求菩薩は胎蔵界曼荼羅の一座を占める菩薩である。ご開帳時には堂内に入れる。

駐車場から坂道を登ると、庫裡事務所があり、山上の本堂までは320段の急な石段(七福坂)が続く。途中に不動堂がある。この参道に併行した高低差90m、全長160mにスロープカーが施設されていて、4分で到達できる。しかしながら、お寺の雰囲気を味わうために往復徒歩で上下したが、登りの最後の数段はきつかった。
山上には、弘法大師の筆塚や弁天堂、鐘楼などがあり、眼下の木曽川の流れと遠くに名古屋市街の景観が望める。寺域から峰越には東海自然歩道が延びている。隋求堂には開基・道昭、中興・慶源とともに、修験道の租・役行者が前鬼・後鬼を従えて祀られている。素朴な風情を残す山寺である。


14/11/24 野川会(名古屋城・日間賀島)(愛知県)

名古屋城

復元された本丸御殿の表書院
日間賀島(西港)から見る早朝の知多半島先端(釣船が集まる)
割烹旅館の前で記念写真(菅さん撮影)
(1度の旅行で500〜1,000枚の写真を撮る撮影者と、寸暇を惜しみ取材に出かけ紀行文を遺してくれる津屋さんが写っていない)。

11月18日ー19日、3年ぶりの「野川会」への小復帰であった。
「野川会」とは、半世紀前の同期入社・同寮の10人余が、還暦前後から続けて来た旅仲間であり、野川とは寮のあった川崎市の土地名である。半世紀前とは東京オリンピックが開かれた頃で、当時は右肩上がりの景気で就職には新築の寮が用意された頃である。学生気分の抜けきらない連中が全国から集まり、楽しい寮生活を送った。そんな友人達が老いても健康であるようにと、年毎に一度の旅をする。佐賀葉隠れの旅から始まり北海道から奄美大島まで、下北半島と津軽、出雲と鳥取、種子島と屋久島など、往復を航空便を使っての三泊四日の旅の記録がある。

メンバー全員が溌剌としていた8年前(2006年)の旅を想い出す。歩きを重視しての”熊野詣”で、中辺路を”滝尻王子から急坂を登り近露まで”と”発心門王子から熊野本宮大社”までを歩き、更に雨中の大日越えで湯峯温泉へ、熊野速玉大社を詣でたあと那智山に向い、浜の宮王子と補陀落山寺に立寄った後、大門坂を熊野那智大社・青岸渡寺・那智大滝に向かった。仕上げは神倉山の石段を登り、ゴトブキ岩(天磐盾)を拝した。

リタイアしていたここ3年間は、同様な日程で四国周遊・東北への震災見舞い・五島列島の旅が続いていた。今回は日程を二泊三日とし、私も参加し易いように東海を巡る旅を計画してくれたが、、本人または家族に病人が出るメンバーも出て、3名が不参加となった。名古屋近辺の二日目の午前中までヨタヨタと附いて廻ったが、独りで気儘に小旅をすることには慣れてきていても、団体行動はまだまだ足枷になる。そこで、名古屋城の正門前で東京から来る「野川会」を待ち受け、旅の前半である名古屋城見学と日間賀島での宴会に参加することとなった。
これは体調以上に心のリハビリとなった。久しぶりに気の置けない仲間に入って少々興奮気味であり、日間賀島の旬のフグ料理とタコのまるゆで、中でも久しぶりのヒレ酒は美味かった。本来ヒレ酒はあまり好みでなかったのに妙に美味かった。高速船に乗ることも新鮮な感覚だった。名鉄”神宮前”で別れ、野川会は二日目の後半と三日目の行程(岡崎城・蒲郡・久能山)に向かった。帰宅後、幼児のように”知恵熱”が出たが、翌日には依然にも増して爽快となった。忘れていた生活リズムに刺激を与え、バリアを一つ越せたかもしれない。


14/10/18 岐阜県博物館と塚原遺跡 (岐阜県関市)

今月も「徳山ダム」のつづきである。旧徳山村の発掘調査報告書は、電子化された”遺跡資料リポジトリ”で閲覧できる。遺跡資料リポジトリとは、一般には流通しにくい報告書を、インターネット上で学生・研究者を中心に誰でも手軽に利用できるようにしたものである。とは言っても、厖大で難解な資料を素人が目を通すには限界がある。手っ取り早くには、旧徳山村での発掘品が展示・公開されている岐阜県博物館に出かけ「徳山村の縄文文化」に触れることを手始めとした。更に、長良川を挟んで対岸にある「縄文時代の集落遺跡である塚原遺跡」を見学した。春日井から関市へは、名神・東海北陸自動車道で60km(1時間)、あるいは多治見経由国道248号線で46km(1時間30分)である。往路は目的地へ有料道路で一目散に、帰路はむしろ田園地帯を悠遊と繋がる一般道をドライブする方が楽しい。

縄文土器と旧石器の展示:
左半分は渦巻模様の飛騨の土器など。右半分が旧徳山村(塚奥山遺跡、戸入村平遺跡、はいづめ遺跡など )の土器で、
部は戸入村平の中期の土器)と 旧石器(寺屋敷遺跡(旧徳山村)出土の4点のナイフ形石器と多数のスクレイバー)
:姶良火山灰層(25,000年前)下から発見されたとのこと。

岐阜県博物館では、写真撮影の是非をフロアの女子係員に尋ねるとN学芸員と連絡をとって貰えた。すぐに駆けつけて下さったNさんは、当博物館所有の徳山村出土品はOKと許可して呉れたばかりか、小一時間も徳山村出土品を中心に説明して下さった。
徳山村の25ケ所の遺跡についての予備知識を遺跡資料リポジトリから得ていたので、遺跡ごとに纏められた出土土器群は見易かった。北陸の影響を受けた土器、むしろ太平洋岸の影響を帯びた土器、近畿圏内の土器、岐阜県でも飛騨色の強い土器、そして当地域の特色豊かな土器など説明してもらえた。現代社会では廃村の憂目に逢う山間の地が、縄文中期(4,000ー5,000年前)のネットワークの拠点となっている。「徳山村の発掘調査に関しての特別展」を3年後に計画していることも教わった。

弥生時代のパレス土器、絵画土器の展示もあったが、S字型口縁土器は東海地方の特色ある土器である。Sさんはこの土器を子供達に説明する時に、S字型という形に拘らず、薄手の土器の変形強度確保の為には口縁の丸味が必要なことを、紙コップを例にして説明しているとのことであった。考古学資料としての土器への興味・理解は、年代相応に対処しなければならない例であろう。


龍門寺1号墳(5世紀前半)の石室内埋葬状態。
 鎧が頭上に副葬され、被葬者が武人であることを示している。
円満寺山古墳(4世紀中期後半の前方後円墳)出土品

円満寺山古墳と龍門寺1号墳に関しての展示がある。最近の発掘情報などを含め展示されていて、展示品はレプリカであっても、出土情況が把握できるので興味深い。いずれも三角縁神獣鏡を出土した古墳として有名である。畿内政権より配布された三角縁神獣鏡の同範関係を調べ畿内初期王権とのつながりの深さを議論する時に、両古墳に副葬された鏡はよく引合いに出される。4年前の美濃の古墳巡りで、円満寺山古墳へは夕方に霊園裏の山を登り野猿に驚かされた。現状の足では危険・遠慮する場所である。龍門寺1号墳は分かり難くパスした古墳で、近い中に再訪しようと思っていた。然しながら古墳の現状は、跡形も覚束ないとのことであった。

今回は徳山村中心の博物館見学であったが、岐阜県博物館は本館(3Fに自然展示室、4Fに人文展示室)とマイ・ミュージアム棟(エントランス、ギャラリー、ハイビジョンホール、マルチメディアスタアディオ)が一体となり、百年公園内にある。岐阜県の自然美とその成立ち、白山信仰、斎藤道三の下剋上・国盗り物語、美濃焼と刀剣、恐竜など話題が豊富だ。

塚原遺跡公園を北側の展示館屋上より見る。縄文時代遺跡と古墳時代遺跡が重なっている。葺石のある古墳(1号墳)と縄文2号復元建物の合間に縄文広場がある。前方の林の直ぐ南に長良川が流れる。館内のパネルとパンフレットで遺跡分布が分かりやすく示されている。

塚原遺跡は、縄文遺跡と古墳群が重なった珍しい遺跡である。それだけに、この地は、大昔から住むに適した土地なのであろう。遺跡の前面には長良川が流れ、背後には小高い山々が連なる。遺跡は公園化され、その一画に遺跡から出土した遺物の展示館が設けられている。ここでも、展示品の写真撮影の許可を頂いた。自分で撮った写真は、ホームページに掲載する為ばかりでなく、帰宅後に記憶を呼び起すために重要となる。特に初見の遺物の場合は、撮影した状況を呼び起すことにより記憶が蘇ることが多い。ここでもただ一人の見学者に二人の館員が時間を割いて下さった。

縄文時代早期(約7500年前)にこの地を訪れた縄文人は定住というよりキャンプ地として利用していたと解されている。早期の土器が復元され、遺跡内には8基の屋外炉の中の一基が復元されている。中期(約4000年前)の縄文遺跡は、竪穴建物・17基、掘立柱建物19棟が中心となる広場の周辺に多重に配置されている。土器捨場5基と蒸焼場7基が中心より遠い位置に配されている。関東・東北で見慣れたお祭り広場(縄文広場)を中心とした住居構成だが、他地域でよく見られた土偶が捨てられた跡などは無かったらしい。随分と立派な縄文集落だが、祭祀がどのように行なわれたかは不明である。

縄文遺跡に重なる古墳群は、古墳時代後期(約1400年前)の古墳群である。4〜500m離れた丘陵麓にも幾つかの古墳が残っていると教わった。昭和62年に発掘された16基の古墳が遺跡公園内に残され、2基の古墳が復元(1基は葺石を伴い、1基は芝生の土盛り)され、4基は中央広場下に埋め戻され、他は残存高で保存されている。全ての横穴式石室は無袖型で、石室入口は一様に南向きである。被埋葬者が壬申の乱の功労者・ムゲツ氏と関係するか否かは分からないが、ムゲツ氏の墓所とされる池尻大塚古墳(円空館の側)とは2km圏内で無関係とは言えまい。

出土場所が分かるように復元された中期縄文土器が台上に並んでいる。早期縄文土器は、復元された屋外炉の写真とともに展示されている。岐阜県博物館で見た徳山村出土土器にも当てはまるが、美濃の中期縄文土器は、火焔土器(新潟)や水煙土器(山梨)などのように口縁部が立上っていくような派手さは無いが、口縁部が分厚く脹れ上がり文様も賑やかになるようだ。 出土した古墳が分かるように台上に展示された
古墳時代後期の土器

壺、蓋坏、??(はそう)、堤瓶(ていへい)など種類が多い。須恵器が多いが土師器も見える。遺跡内の古墳は、6世紀後半から7世紀の終わりまで引続いて造営された。古墳の副葬品としては、鉄鏃、耳環、刀子など金属製品も出土した。

岐阜県博物館に展示された「揖斐川上流域の旧徳山村の縄文土器群」と「長良川中流域の塚原遺跡に遺された縄文土器群」は、縄文中期(4,000ー5,000年前)という縄文文化爛熟期と東海・美濃地域の背景の中で、色々な妄想をかきたて新しい問題を与えてくれる。未知な問題が膨らめば膨らむほど楽しさが倍増する。・・・そんな願いを与えてくれる心地よい小旅の一日であった。


14/09/17 徳山ダム (岐阜県揖斐川町)

徳山ダムは多目的ダムとして、濃尾平野の西北端・揖斐川の最上流部に計画された。濃尾平野を形成する木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)は、平野西中央部(海津市)で併行し、南下して伊勢湾に注ぐ。この豊かな水資源が濃尾平野を潤し、その発展に大いに貢献したが、時には洪水被害の元凶ともなった。揖斐川は奥美濃の冠山(1,257m)を水源とし、降水量も多く、一気に濃尾平野に南下し洪水を起こす。揖斐川流域の濃尾平野を洪水から守り、或はその水資源を利水・発電に有効活用するべく、徳山ダムの建設が進められた。

徳山ダム建設予定地には、奥美濃の美しい自然環境とそこに先祖代々暮らしを営んできた466世帯の生活があった。自然環境と住民の生活を守る調査・交渉が昭和32年以来進められ、51年の年月を費やして、平成20年(2008)に管理運用にこぎつけた。現在、ダム直下に徳山発電所の建設工事が行われている。

徳山村から奥美濃の山々を通過し滋賀・福井に連絡する林道があることを知ったのは、ダム建設計画が既に始まっていた頃である。最初は冠山峠の稜線上の東側に当たる高倉峠を越えて、R476に出て越前今庄に走行した。徳山村で途切れるR417から林道冠山線で北上し、越前大野市で再びR417に戻ったりもした。その後も奥美濃の素朴な自然に魅せられて、何年かおきに冠山周辺を訪れたが、その入口となる徳山村を通過する度に「ダム建設反対」の看板が目立ち、ダンプには頻繁に会うが村の様子は次第に寂しげになり、林道入り口までの村内通過道路も迂回路が目立ち、遂には堰堤建設の姿が見られるようになった。

ロックフィルダムの前面(ロック部)。左下に発電所建設工事現場が見える。堰堤上(コア部の天端)を歩く。ロックフィルダムは、ロック(ダムの外壁となる岩)、コア(水を遮断する粘性土)、フィルター(コアを保護する砂礫など)よりなる。 水を満たした徳山ダムの上流部(徳山湖)。貯水池側のロック部の緩やかな勾配が穏やかな雰囲気を醸し出す。徳之山八徳橋(全長503m)の向こうに見える三角錐の山は若丸山(1,287m)。その左の冠山は山影になり見えない。 堰堤端の斜面に夏毛の日本カモシカが遊びに来ていた



R417を奥に進み、徳之山八徳橋で揖斐川を右岸から左岸に渡りさらに奥へ。八徳橋の橋詰で本巣市根尾方面の道が分かれる。「全面通行止め」の看板が出ていたが、根尾近くの馬坂峠は昔から難路だ。 徳山ダムの前面。左に放水路、その右に傾斜1/2.25(ダム側は1/3.00)のロック部。ロック部の下方に発電所が建設中。

徳山ダムの現状を知るべく、ダムサイトのダム管理所を訪れ、職員から説明を受けた。
総貯水容量は6億6千万?で日本第1位、浜名湖の約2倍で黒部ダム約2億?の3倍となる。洪水調節などの治水機能を第一とするが、発電所も現在建設中で、最大出力も15.3万kwに設計されている。黒部ダム(第4発電所)33.5万kwの半分近くある。
昭和32年(1957);調査開始、平成元年(1989);466世帯の移転契約完了、平成12年(2000)堤体建設着手、平成17年(2005)堤体盛立完了、平成18年(2006)徳山バイパス全線開通・試験湛水開始、平成20年(2008)試験湛水完了・管理運用開始となった。調査開始から管理運用開始まで51年の歳月を費やした。

満水のダム湖の大きな人工的な風景も確かに美しいが、小さな美しい日本の原風景が大きな人工的な風景に変わっていくのは淋しい。徳山村に見られた原風景は縄文の昔を彷彿とさせる小さな風景であった。事実、水面下に潜った徳山村には、旧石器時代(2万5千〜2万年前)の寺屋敷遺跡、塚奥山遺跡を始めとする25ヶ所以上の草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の全期に亘る縄文遺跡(約1万年〜2.5千年前)があった。発掘調査は揖斐川本流(東谷)及び西谷川流域て行われ、水資源開発公団・?岐阜県文化財保護センターの報告書も残されている。”東と西の縄文文化をつなぐ宝庫”としての湖底に沈んだ徳山村の価値は大きい。発掘品の収納・展示状況は今回の旅では実見できなかったが、今後の楽しみが増した。徳山村の持つ環境は、山の深さ、川の流れなど、山中で小動物を追った縄文人の匂いがする。新潟県村上市の三面ダムに沈んだ三面村を連想する。三面ダム近くには「奥三面歴史交流館」があり、縄文遺跡・出土品が見事に展示されている。

ダムの最奥でダム管理道路は終わり、簡易舗装の塚冠山林道に接続する。ようやく昔の姿に出会う。駐車場とトイレがあり、冠山や若丸山への登山道がある。揖斐川の清流と川中で立ち枯れた木を見る 冠山峠に向かって少し進んだが、最近のゲリラ豪雨の為か、尖った落石が多い。昔のダート路面が簡易舗装され、その裂け目もバーストの危険をはらむ。準備不足なので早々に引返す。

冠山周辺に張り巡らされた林道群は、岐阜北西部と福井・滋賀を結ぶ生活林道の役目があった。時代の変遷は、北陸道と木之本町に通じるR303の整備、根尾村から温見峠を越すR157の整備で事情が変わった。さらに、冠山の下をトンネルで貫き、R417で岐阜・福井をつなぐ計画もあるらしい。

長年に亘って色々な問題を提出してきた徳山ダムだが、出来上がったダムを見ると、ダムを含めた景色がごく当たり前に見えて来るから不思議だ。
ロックフィルダムは、構造上、堰堤はなだらかな傾斜をもつ。コンクリートの塊のような黒部ダム(アーチ式コンクリートダム)の垂直な傾斜を持つ堰堤に比べ柔らかい景色だ。堰堤上からは、美しい徳之山八徳橋と、遠くに見える若丸山の三角錐が印象的だ。堰堤端のコンクリートで固めた斜面にカモシカが遊びに来ていた。

4km下流には藤橋城なるプラネタリウム館・道の駅がある。徳山ダムの中ほどに1軒だけのレストラン・宿泊設備(徳山会館)がある。満天の星が美しいという。
名神大垣西ICから徳山ダムへの途中、美濃赤坂や大野町などには古墳が多い。西国33ヶ所の結願・谷汲山華厳院など著名な寺院も多い。

今回は訪れなかったが、徳山ダムの下流にある横山ダムからR303を少し走れば、龍神伝説のある「夜叉が池」登山口への分岐がある。更にR 303を走れば、滋賀県長浜市木之本町に至る。泰澄を開祖とする白山信仰(修験道)が己高山(こだかみやま)の山麓に伝わる。石道寺、鶏足寺や村のお堂には十一面観音像が祀られている。白山信仰は十一面観音と白山比刀iひめ)を習合し、両白山地(白山を主峰とする加越山地と能郷白山を主峰とする越美山地)の峰々を介して修験者により伝えられた。浅井(北近江)・朝倉(越前)・信長(尾張)が争った戦国時代には、身丈大の十一面観音像を村人が背負って戦火を逃れたという。

揖斐川山間部への小旅は、名神大垣西ICを経由して片道約103km、懐かしさと豊かな広がりに出会う旅であった。

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