【5】

「…って日向、いつからそこに居たワケさ」
「あ、いつから…だったかな。飯、作ろうとしたらまともな材料無くってさ。出て、外に出た時は、あー、そっか。明るかったんだよな、まだ…」
 やべェ。また日向が壊れてきてる。彼女と別れたのが原因だろうか。
 若島津は嘆息ついでに公園へ足を踏み入れて、日向のすぐ傍までブラブラと歩いて行った。
「メシ、今日はこのまま二人でどっか食いに行こっか。何だったら呑みでもいいよ」
 今度は逆に、努めて明るい調子で切り出してみる。
「とにかく腹減っちゃってんだよ、俺。これからだと、日向が作り終わるまで待てそうに無いし?」
 ああ、うん。しかし声には出しても、日向はそこから動く気配を見せなかった。無理に立たせるのもおかしいので、若島津はしばらく黙って横に突っ立っていた。
 自然と見下ろす形で日向を眺める。硬そうな髪。少し前髪が伸び過ぎだよ、日向。この前に散髪行ったのはいつだっけ。あと、羨ましいくらいの肩の筋肉。シャツが薄手なんではっきり判る。首と腿の筋トレやってるって言ってたけど、肩回りも前より出来上がってきてるよな…。
 突然、するりと、鎖を掴んでいた日向の手がほどけて膝上に落ちた。同時に彼は俯き、深い深い息をそっと吐いた。
 その息は不思議と、野生の、ビデオか何かで見たサバンナの生き物を思わせた。死ぬ間際まで走るんだ、野生の動物は怪我をしてても可能な限り走ろうとする。痛みに鈍いから?、そうじゃない。野生ではね、走れなくなった時が死ぬ時なんだ、生きていけないってことなんだ。彼らはそれを知ってるんだよ、……───。
 小学生の頃、誰かに聞かされた話が脳裏をよぎった。若島津はとっさに大きく叫んでいた。
「ひゅうが…ッ!」
 ばっと、日向が頭を上げた。
 一瞬、怯えた目のように見えたのは錯覚だろうか。親父が死んで、初めて会った時の日向がこんな目をした。若島津が声をかけて振り返る一瞬、向こうで彼の弟や妹達が泣きじゃくっているのを眺めていたすぐ後の一瞬。あの子供はただの一度も泣かなかったけれど。悲しいとも悔しいとも、一言だって漏らしたりはしなかったけど。
 何か、むちゃくちゃな力を持った怪物みたいなものがそこに居て、それが彼にだけ見えているような表情だった。むちゃくちゃな力、十かそこらの子供には抗いようのない力。
「ダメだ、日向…!」
 今、今になって捕まるなんて馬鹿げてる。若島津はわけが判らない衝動ながらも、日向の右肩を気付いた時には掴んでいた。振り払われるかと思ったのに、日向は凄まじい力で若島津の腕を掴み返した。なのに顔は背けてしまう、歯を喰いしばっているのが上から見える。
 泣くのを、必死にこらえる子供みたいだ。
 こんなに、必死で、ずっと彼は一人だった。それをその時、唐突に若島津は悟ってしまった。日向は知っていたんだ、自分が王様だということを。
 専制君主なんてのは、まともに自覚があったらこれほどしんどい商売も無い。だけどずっと彼はその荷を負い続けてきた、一度も不平を唱えなかった。ひたすら王国を守って走り続けた。だって、
 ───だってきっと知らなかったんだ。あの子供はそれ以外の方法を。
「ごめん、……ごめん日向、俺…、」
「お前が、クソ、なんで、……っ」
 謝るんだ、と日向は掠れた息で吐き捨てた。握られた腕に、日向の指先が喰い込んできて熱かった。時間の蓄積と、何よりひょっとして若島津自身が、日向を傷め続けたのかもしれなかった。その事実に思い当たった時、若島津の方が喚き出してしまいそうな気分に襲われる。もちろん、それを実行に移すわけにはいかなかった。これ以上、彼を傷つけたいと思うはずが無かった。
 大丈夫だよ、日向、ごめん大丈夫だよと、懸命に若島津は繰り返した。判ったから。大丈夫だから。もう、一人で傷つかなくていいんだ、日向。
 彼の指は頑なに握り締められ、それは強情さというより、矢張り痛々しさの目に見える形であったろう。
 そんなんじゃない、と日向は喉の奥の奥からしぼり出した。
「──…ケガとか、そんなんだけの話じゃない、そんな大層なことじゃない。俺はお前にバレるのが怖かった。俺は、お前が思ってるほど、凄くなんかない。俺が、お前が思ってるより弱いって、バレるのがずっと怖かったよ……!」
 
 
 ───止まらなくなって、考え出したら止まらなくなって、こんなにお前が大事になってて、余計に怖くて頭がおかしくなりそうだった。
 後に日向は若島津にそう言った。──いつからだったのかはもう判んねえよな。もしかして、お前が黙って俺の横を歩いてたあの日、キーパーやるってムッとした顔でいきなり言い出したあの時から、俺はずっとお前が好きだったから。お前と一緒に居るのを俺が勝手に決めた、お前が俺を選んだのが判ったあの日。あの頃から、多分俺はお前を失くしたくなかったよ───。
 
 
「ごめん、お前がしんどいの、俺見ないフリしてたんだ。完璧なんて、だって無理だよ日向。だから、」
 だから、お前がお前ならそれでいいんだ。泣きたきゃ泣けって、我慢なんてするから壊れるんだ、バカ。
「なあ、ずっと一緒に俺が居るよ。日向が好きだよ。…大丈夫なんだ。お前が、好きだよ」
 やっと言えた。どうしてだかそんなふうに思った。今まで一度もここまでの切実さで考えたことなんか無い、なのにその時は本当にそう思った。
 やっと言えた。好きだって、日向に。
 やっと、届いた。
 日向は声を殺して泣き続けた。十年分、懸命にこらえ続けた涙だった。若島津の片腕を鷲掴みながら、憤りも痛みも全てを吐くように泣き続けた。若島津はもう片方の腕で、日向のその額を自分の胸に引き寄せた。シャツの胸元が熱く湿るのが判った。真夜中近くまで、そうやって小さな子供を抱き締めていた。
 
 
 
 結局、自分達は、高等部の頃の女子のウワサ話を肯定したということになるのだろーか。後々、若島津はその事実に愕然とした。普通は驚く順序が逆のような気もしたが、デキちゃって(?)から気付いたのだから仕方が無い。好きだと思って抱き締めちゃって、それから「あ、相手が男だ」と思ったのも事実なんだからしょーがない。えらい間抜けな真似をしている自覚はある。
 まぁ日向がその分、勝手に長年悩み続けていたらしいので、今さらこっちまで悩むのも馬鹿らしかった。案外、自分の神経が図太いのかもしれない、というのは若島津にとっては新たなる発見だった。
 とはいえ、事態はさして進展もしてないかもしれない。あれから、とにかく若島津は腹が減って死にそうだったので!、日向を説得して国道添いの24時間営業ファミレスにしけ込んだ。日向は赤くなった目許をオシボリもらって冷やすので精一杯だったし、若島津はと言えば欠食児童と化してるし(だからハードな午後練の後だったんだってば)、色っぽくなどなりようが無かった。それに今のところ、そこまで互いの要求が切実では無いのも本当だ。
 夜、日向の布団でくっついて眠る。
 知らなかったが、日向は割と毎日夢を見る方だ。時々、声も出さずにうなされて、汗びっしょりになって飛び起きる。寝つきのいい若島津は、こんなふうにして寝るまでその日向の性癖に気付いてなかった。
 大抵、親父か若島津が事故に合う時の夢らしい。口にはしないが、顔を見ていればどんな夢だかは想像がつく。
 親父の分は、…辛いけどもうどうしてやりようもない過去なので、若島津は替わりに日向の頭を抱いてやる。そうすると、日向の息が少しずつ楽になり、やがて穏やかな寝息になっていくのを聞くことができる。どうもこのポーズが癖になりそうだ。
 いつか、そんな辛い夢を、日向が見ない日が来ればいいと思う。部活に復活した日向は相変わらずよく怒鳴り傍若無人で、若島津とぶつかることも少なくない。
 ヤツは確かに王様だけど、宰相くらいは置いてもバチは当たらん!、という話を反町が島野としていてかなり笑えた。
 
 
 クーラー買わなきゃなぁ、という相談を日向としている。この体勢で夏場も寝てたら死ぬかもしれない。現在、二人のアパートには扇風機(しかも旧式)しか常備されていないのだった。あと、そうそう、若島津にはもう一つ、新たにして大きな発見が最近あった。
 ───日向ってば、かなり、相当、キスがうまい。
 ちょっとショックだ。




[....END] 

 


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