聞こえて欲しいと思ったわけじゃない。きっと言葉にせずにはいられなかった。許しを請う気だって更々。だって判ってる、お前はオレを許したりしない。
 もし、未練が自分にあるのなら。
 日向は自嘲気味に考えた。そうだな、未練だって後悔だって山のようにある。当り前だ、これは世間で言う「若い身空」だの「あたら惜しい才能を」だのの慣用句が嵌りに嵌るシチュエーションだ。けど一番にくるのはそんなことじゃない、書きかけの論文や携わっていた新プロジェクトが気になっているのでも、恩知らずなことに育て親を想って残す後悔ですらない。
 ───お前と、寝ときゃ良かったよ。
 青紫色の唇に自分のそれを掠らせる。参るだろ、この期に及んで真っ先にくる未練がそれなんだ。
 一回くらい、お前と寝ておけば良かったよ。
 機会なんて多分いくらだってあった。十代の初め頃から、こんな戯れの延長線のようなキスだって何度かした。ならどうしてと尋かれても日向には答えられない。若島津にだって答えることは出来ないだろう。強いて言えば、それは何かを壊しそうだと気付いたからか。
 そっと、可能な限りそっと彼を床に横たえさせる。髪の毛が中途半端に日向の指先に絡んで残る。
 手を離すのには、なけなしの体力よりも、気力の方がほんの少し余計に要った。最後に交わした会話を思い出せない。ラウンジへ出る通路、振り返りながら。おい、お前にチケット預けてたよな、そんな他愛のない雑事だったろうか。
 表情を失っている顔を見下ろし、結局は日向は自分の考えを打ち消していた。未練を残さず済めば、だって? オレには無理だ。寝たら寝たで、きっと違う形の未練が溢れて、自分の首を絞めるのがオチじゃないか。
 いつだったか、日向は彼にこう言われた。
 日向は怖いものなんか無いんだろうね、と。確か少し揶揄う口調で彼は言ったのだ。日向はその彼の表情まで覚えている。呆れた素振り、親しい者にだけよくしてみせるあの曖昧な笑み。
 今ならオレはこう言い返してやれる、オレはお前を見失うことが怖かったんだ。そんな日が永遠に来なければいいと、心臓が止まりそうに願ってたんだ。
「──…チクショウ。うまく、動かねえぞ…」
 壁に手をつき、左足を引きずりながら立ち上がる。額の油汗が流れ落ちて目に滲んだ。拭えるだけの余裕は無い。叶うなら彼の顔に最後に触れておきたかったが、それはもう諦めていた。さっき、ほんの少し触れただけで、自分の掌の血のりが彼の頬を汚したからだ。これ以上、何一つも彼に残していきたくはなかった。
 ああ、もう一つだけ未練があるな。
 日向は霞む視界を歯を食いしばって引き戻した。もう一つ、思い切れない未練があるな。今さら格好つけて言うんでもなくってさ。
 お前に別れを言いたかったよ。目を見て、言葉にして最後に何かを言いたかった。でも残さない。許されるとも思わない。
 懸命に、文字通り最後の力を振り絞るようにして、埋め込み式の非常ボックスへ辿り着く。開けっ放しのそこから、掌に乗るほどの筒状の物を引っ張り出す。
 小型パラライザー。通常、シャトル内では銃火気の類いは禁止されていた。これも外科用の玩具みたいなものだったが、今の自分の出血量と心拍数では、目的を達すのに問題はなさそうだと日向は思った。冗談抜きで、ほっといたって数時間あればくたばりそうだ。それも言い訳だと誰かなら罵るだろうか。…狙うのは頭じゃないな、やっぱり心臓の位置が妥当かな?、……。
 ズン、と床が斜めに振動して、その衝撃に日向は肩ごと壁にすがって座り込んだ。しかし右手に鷲掴んでいるものは離さない。意識はかき消える寸前だった。許せとは言わない、卑怯だと知っている、オレは許せとだけはお前に言わない…。
 仕方が、無いんだ。
 霞みがかる視界の隅で、指先が安全装置を無造作に外す。オレはこういうふうにしか出来なかったんだ。

 ああ、夢みたいな空だ。ふと、日向は見えるはずのない真空の空間に瞳をすがめた。


 嘘みたいに綺麗だ、夢のような空だ。





[END]

 


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