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日記のフリindex

2002.052002.07

日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0206.htm#20020601


2002年6月

その他
スーザン・ソンタグ「戦闘速度に乗って」/松岡正剛『すでに書きこみがある遊学の話』
ピエール・ド・マンディアルグ「東洋の無を食べる」ジョン・ケージ「チャンスは何度だってある」、ミルフォード・グレーブス「宇宙をドラムで叩く」、フランシス・イエイツ「精神の考古学へ」、ルイス・トマス「病気は言葉で治る」、ナム・ジュン・パイク「時間をヴィデオする」、J・G・バラード「結晶を時間が流れる」、フリッチョフ・カプラ「物質の歌を聴く」、ロジェ・カイヨワ「私はサンスクリットだ」/同上

岡倉覚三著・村岡博訳『茶の本』
寺門琢己・田口ランディ『こころのひみつ』
向山昌子『アジアへごはんを食べに行こう』

松尾スズキ『ぬるーい地獄の歩き方』
伊藤俊也『女囚701号 さそり』@東京国立近代美術館フィルムセンター
デイヴィッド・シールズ編 永井淳 戸田裕之訳『イチローUSA語録』
宇多田ヒカル『DEEP RIVER』
ファジル・サイ『ファジルを聴け!』
井上剛『やったモン勝ち!』
谷崎潤一郎『文章読本』
万田邦敏『UNloved』@ユーロスペース
カジヒデキ『A LONG WEEK-END』
法月綸太郎『法月綸太郎の功績』
ジュリアン・デュビビエ『奥様ご用心』


6/30(日)
ジュリアン・デュビビエ『奥様ご用心』(仏=伊・1957)@シネ・リーブル池袋。

美女たちの住む館に女たらしがやってきて、もう!もう!もう! したいほうだいです。ああ、モテとは何ぞや。才能だろうか。「奥様」って誰のことかと思ったら、ジェラール・フィリップのお相手はみーんな「奥様」だった。まさか複数とは思わず。恋の国、恋の時代。

さて、残り15分ほどのところでいきなりフィルムが飛びました。映像が消え場内まっくら状態がしばらく続いてから電気がつき、劇場の人が「申し訳ございません。古いフィルムのためフィルムがすれて切れてしまいました。つないで巻き戻して再上映いたします。いましばらくおまちください」と平謝り。みんな静かに静かに待つ。そして再開されました。

久しぶりな友達と会う。話しているうちに頭がスッキリしてきたし元気が出た。やっぱり土日は外に出たい。


アンケート。

いただいたメッセージが切れてしまうことがあるようです。確実用のメールアドレス。natsume@bc4.so-net.ne.jp

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メールアドレス (メッセージが切れていた場合確認したいので、できればお願いします)

コメント


6/28(金)
朝4時頃の空はまだ暗いと思っていたのがみるみる明るくなっていく。こんな時間に起きやすくなっていることになにか意味があっていつかわかったら面白いな。

夜明けを見逃す者は人生を棒に振る、これが私の信条だ。(ルイ・ポーウェル)

6/27(木)
たとえば朝起きたときの憂鬱な気分を、どうしてだろうと考えてみると必ずなにかしらの理由が見つかる。理由が見つかって「ささいなことじゃん」と自分に説得するのも手。うすうす気付いていてもはっきりした原因は多分つかめないだろうとわかるときもあって、そういうときは憂鬱さ自体を忘れるほうが良さそうだと思った。顔が笑っていると気持ちも笑ってくる。

投げたボールの返球具合が期待した通りじゃないと悲しくなるけど変化球がまずかったのだろうと直球を投げなおしたりする。それで結果が得られれば過程なんてどうでもいいや。

しょんぼりの陰にかまってほしさがあるような気がした。ふと。

法月綸太郎『法月綸太郎の功績』講談社ノベルス,2002から最後の短篇「縊心伝心」を読み終わった。これでまた数年待つのかな。


6/26(水)
トルコは負けちゃったか。ずいぶん前の話になるけどトルコを旅行中、会話にサッカーの話題がのぼることが多くて国内のチーム名をいくつか聞きおぼえた。タクシーに乗ったときもサッカーの話題になり、運転手のおにいさんにどこが好きかと聞かれたのでおぼえたチーム名「ガラタサライ」と答えたら、そうかそうか自分もだとガラタサライのキーホルダーをくれた。

法月綸太郎『法月綸太郎の功績』講談社ノベルス,2002 から「中国蝸牛の謎」「都市伝説パズル」「ABCD包囲網」を読む。「中国蝸牛の謎」は地の文が大きなヒントを与えてくれちゃってた。昨日読んだ「イコールYの悲劇」ほどこれらに惹かれないのは、動機に「昏さ」がないからだと自己分析。昔は「やむにやまれぬ」といった感じの動機が好きだったのになあ。

「ちゃんと元気?」「いつだって元気」。合言葉のようになってきた。


6/25(火)
法月綸太郎『法月綸太郎の功績』講談社ノベルス,2002 から最初の「イコールYの悲劇」を読んだ。

人によって語られた人物像にこれほど恐ろしさを感じるなんて。本人が独白するよりも明らかにインパクトの強さを感じさせる書き方になっていると思ってうなる。昏い読後感を嬉しいと思ったのは、たぶん『頼子のために』を思い出したことと関係している。ああいういやな感じに惹かれるんだな、と。


6/24(月)
ハネデューメロンを丸ごと一個もらってしまった。大きくてきれいで割るのがもったいないくらい。

自分がどういうときに徒労感を感じるかわかってきた。そう気付くのは全然楽しいことじゃない。


6/23(日)
カジヒデキ『A LONG WEEK-END』(PSCR-6043)。曲がつくと歌詞のぐへえ〜甘甘〜という感じがいくぶんやわらいで聴こえる不思議。一曲目を歌詞カード見ながら聴いていたら「ばっかじゃん!」と思って笑いそうになったんだけど能天気ぶりが素晴らしいと思う。心から。

宇多田ヒカル『DEEP RIVER』(TOCT-24819)。一つしか選べないなら「Letters」。胸がかきむしられてどきどきしてもリピート。


6/22(土)
久しぶりにスケートに行くと一緒に習っている人は急遽休みで先生とのマンツーマン。「頭で考えすぎ」と何度も言われる。スケートは流れに身体をあわせていくもので、身体を自分でコントロールしようとすると無理が生じ物理の法則が崩れうまくいかなくなる。その流れにどう慣れてゆくか、そこが難しい。ごくまれに流れと身体がピタッと一致するときがある。大げさに言うならばまるで世界というパズルの中に自分というピースがピタッとはまったような、偶然と必然を同時に感じるってこういうことかなと思うくらいの快感。

途中左足が乗れなくなったと思ったら紐がほどけてた。スケート後、街中を歩いているときにも左足の靴紐がほどけた。左足首がやわらかい?

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万田邦敏『UNloved』@ユーロスペース。高望みをせず日々の生活に満足している光子(森口瑶子)は、エリートの勝野(仲村トオル)に好かれ付き合うようになるが生きている世界が違うことに違和感をおぼえ別れを切り出してしまう。その後、階下に住む下川(松岡俊介)とひょんなことで交流が始まるのだが。

ゴツゴツとした耳障りな脚本と棒読みのセリフ回しはわざとなのか。物語は最初から最後まで淡々と、主人公である光子の生き方をあらわすように進んでゆく。彼女をめぐる二人の男性の設定は、対比のありすぎるあまりにもステレオタイプなつくり。と、ここまで書いてきて思ったけれど、やっぱり脚本もセリフ回しも設定もすべてがわざとなのかもしれない。というのも、でこぼこさや不自然さが3人の思想を思い出すいい手がかりになっているようにも思えてきたから。

分相応を愛しペースをくずさない光子はとても強い。自分を知りそれを認めることはこれほどの強さをもたらすのか。私が感情移入した下川には、いま自分が思っているようなことをそのまましゃべられているような気がして正直まいった。とってつけたようなラストは不服。

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渋谷の東急プラザに入っているCD屋さんが今月28日で閉店になるため新譜を除いて全品20〜50%オフです。カジヒデキ『A LONG WEEK-END』(PSCR-6043)を20%オフで買う。まずは歌詞カードを眺めると恋心爆裂っぷりに不安が。

『ハレチカ デパ地下・地下街完全攻略』(人文社)は便利かな少し物足りないかな。一休宗純『狂雲集』(中公クラシックス)を軽く立ち読みし、思った以上の恋心爆裂っぷりに俄然興味が。

カジヒデキと一休の違いとは。


6/21(金)
谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫を読み終わる。日本語の特性を活かした書き方の推奨。私たちは外国語で文章を綴るのではなく日本語を使って文章を書いているのだということを改めて認識させられた。その認識の上にある自由は少し気を楽にしてくれる。

蚊にさされてしまった。ウナクール万歳。


6/20(木)
電車の中の小さい男の子とお母さん。まつげが似てた。

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宇多田ヒカル『DEEP RIVER』(TOCT-24819)ファジル・サイ『ファジルを聴け!』(WPCS-11283)を買った。ファジル・サイはトルコ人のピアニストで、これは来日記念の初回限定生産のようです。今までのアルバムからの抜粋。

「サイの凄さは、指が「触覚」のように感じられる点だ」(諸石幸生)(Warner Music Japan「今、ファジル・サイを聴かねばなりません!」より)。うまいことを言う。

浅田彰【ファジル・サイの「春の祭典」】

「世紀末に現れた鳴り物入りの“爆発ピアニスト”は確信犯?」

モーツァルト、ソナタ自由自在。何者?夢のディスクを手にしたら。ファジル・サイのピアノ版「春の祭典」

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資生堂の「ゴールデンメロウ」という乳液は、さらっさらでなかなか良い。安いし。香りがトルコのコロンヤみたい。コロンヤというのはレモンの香りのコロンで、トルコで長距離バスに乗ると車掌さんが順番に席を回って手にばしゃっとかけてくれるサービスがあります。それを手や首すじにピタピタするのです。香りはすぐに消えてしまうくらい軽いので気にならない。街中の薬局などで普通に売ってました。

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スケートの先生から電話。3月末に身体の具合を悪くしたときFAXで「当分休みます」と連絡を入れて以来全然滑りに行っていなくて、2回分のレッスン代を預けたままだし、そろそろ連絡取って滑りに行くか! というタイミングでした。というのは言い訳です。7/M〜9/Mに高田馬場のリンクが閉鎖のため神宮で教えるようになるので、夏の間に来るのであれば会員証用の写真を大至急送ってくださいとのこと。夏はどうするかわからないけれど、とりあえず今週末に滑りに行きますとお願いした。さすがに9月まで滑らないと離れすぎてしまう。

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井上剛『やったモン勝ち!』筑摩書房,2002 を読み終わる。副題が「海外でタイヤキを売るという無謀でささやかなワーキングホリデードリームズ」。

お気軽さも浮ついたところもない、かといって堅苦しくない体験記。勤めていた会社で全力投球しつつも、新しいステージへ向かうためワーキングホリデーでのタイヤキ屋を目指す。ノウハウは得ても地位は捨てる。退職してからタイヤキ屋開店を実現させるまでの日本での生活のしかた、というよりそこで語られた思想に頭をガーンとやられた。

誰しもこんなふうにできるわけじゃないし、私にはこうはできないとわかったけれど、それでも根にある思想の部分では見習うべきことがあると思った。

手に入れたものを守るのではなく捨てる=リセットすることで瞬間瞬間を大切に生きようとしている姿がいさぎよすぎてかっこいい。

この瞬間のために、僕は生きている。
この瞬間のために、今を捨てる。(p.245)

6/19(水)
マザーグースの詩。

Roses are red,
Violets are blue,
Sugar is sweet
And so are you.

形のない甘さもお菓子の味を思い出すように自分のどこかで記憶できたらいいのに。

眠くなるのは無防備のせい。


6/18(火)
木の下を通ると葉っぱの上の雨が落ちてくる。少し前の雨。それでまた傘をひらく。雨が止んでも。


6/17(月)
はてなアンテナ」が更新しても拾ってくれず11日のままになってるなあ。

デイヴィッド・シールズ編 永井淳 戸田裕之訳『イチローUSA語録』集英社新書,2001 を読み終わる。イチローの発言は禅の公案のようにも聞こえるらしいです。

異郷シアトルで暮すことに不安を感じるかときかれて、イチローはこう答えた。
「まだ英語も話せないし、プレッシャーは大きいです。ものの考え方や習慣が違うので、気をつかわなければならないこと、予想外のこともたくさんあります。しかしストレスの原因となることがあるとしても、それはそれでおもしろいと思います。ぼくが生きていることの意味を感じられるのは、そうしたことのおかげではないでしょうか?」(p.26)

6/16(日)
女3人で伊藤俊也『女囚701号 さそり』(日・1972)@東京国立近代美術館フィルムセンターへ。

「篠原とおるの人気劇画を大胆に映画化」らしいんですけど、本当に劇画。悪徳刑事に囮捜査と言われて騙されて捨てられた梶芽衣子が復讐に燃えるのだ。刑務所内の陰湿ないじめだの、暴力だの、エロだの、見られない場面もあったけれど、真面目に作ってこうなのか狙った外しなのかわからない微妙さが面白い。どんなに痛めつけられても叫ばずにギッとにらみかえす梶芽衣子が美しい! 強いまなざしや、すらりとした肢体にほれぼれ。「騙されるのは女の罪」だってさ!


6/15(土)
大抵うつぶせで眠る。左腕を身体の前で折り曲げて、つまり、右腕の外側へ出すように下敷きにして、左半身が軸になったようなうつぶせ。目が覚めたときは左を軸にした横向きになっている。あるいは左右をまったく逆パターンにしたもの。仰向けに眠ったほうが身体のためには絶対にいいとわかってはいても、あんな無防備な格好で眠るのは怖い。とはいえ、ミンザイを飲めば大の字で眠れるというのは実証済み。

壁を作っているということに、「外部のものを中に入れない」という、外→内の方向ばかり考えていたけれど、「自分の内面を外に出せない」という、内→外というのもあったのだと改めて思った。出せないといってもマイナスの感情は出てきやすくて嬉しい楽しいの感情がうまく表現できない馬鹿さ加減が最低。

こんなに寒いのに半袖の人が歩いていて不思議だった。


6/14(金)
社食に置いてあるTVでサッカーを見ていた。適度なボリュームで「おっ、うまい」というつぶやきや「うわー」とかいう言葉の重なりが聞こえるのは楽しい。後半、ロスタイムが1分と表示されたときの「1分」という驚きの混じったどよめき具合がおかしかった。

明治通り沿いを渋谷方面に向かって歩いていると、青い服を来たサポーターたちが仲間を見つけては抱き合ったりしていた。気をつけて見なくても、店の中にTVをつけているところが目立つし、「サッカー中継しています」と張り紙していたりもする。某カフェへお茶しに行けば、入口に「TVつけててうるさいですけどそれでもよければ…」の文字が。中に入ると確かにTVが付いていて、あ、そういえばここの店長さんは昔サッカー少年だったと聞いたことがあるようなないような。窓の外では相変わらず大きな声がする。TVを眺めながら栗ミルク(お酒)を飲んだ。

渋谷駅の南口方面で待ち合わせたのは正解だった。サポーターたちの抱き合いに巻き込まれそうになったり、青信号がいつのまにか赤信号になっていて、あわてて渡ったり。

ライブの開始を待つ間に飲んだたった1杯のジントニックで酔っぱらってしまった。高揚して喋った記憶だけあって内容を覚えてない。ところが、ライブの合間の休憩のころには酔いもさめてきてダウナー気分への前兆が。

音楽のある場所へ自分から赴いたのなんて本当に久しぶり。音楽の一回性を思う。

栗ミルクとジントニックで酔っぱらうというのがそもそもおかしいと気付くべきだった。ライブ後、焼酎を2杯飲んでも酔いは戻ってこないし、なお悪いことにわけもわからず一気にダウナー全開。こんなことは今までなかったし理由がわからないし気分の高低差が悲しくて本当に泣きそうだった。


6/13(木)
高校時代に使ってた本を参照してたら「じゅーよー」なる書き込みが。それも微妙に丸文字で。


6/12(水)
松尾スズキ『ぬるーい地獄の歩き方』文春文庫を読み終わる。「ぬるーい地獄」生活を送っている人たちへのインタビュー(?)。かなり(肉体的に)痛そうな記事があって飛ばす飛ばす。


6/11(火)
寺門琢己・田口ランディ『こころのひみつ』メディアファクトリー,2002と、向山昌子『アジアへごはんを食べに行こう』講談社文庫,2002 を読み終えた。

前者は、一般的な内容を読みたい事柄なのに対談だと個人的内容が入りすぎて内容が薄まる印象だった。寺門氏だけが書いたもののほうが好きだ。

後者には、おいしそうな食べ物がたくさん出てくる。からだは食べ物でつくられているという当たり前のことを思う。旅行記を読んでも旅心がくすぐられてしょうがないということはなくなってきた。遠い日の花火? それでも、

雨が降ってきても、足早になるでもなく普通に歩いている。いよいよ雨が本降りになってきたなと思うと、いつのまにかみんなその辺で雨宿りしている。
日本のようにタクシーを拾ったり、安い傘を買ってそのまま歩き続けるようなひとはまずいない。場所にもよるが、雨宿りのあいだお茶を飲むこともあまりしない。
強くたたきつけるような雨の向こうに、雨雲で薄暗くなった街をじっと見つめながらただ立っている。(pp.236-237)

そういう旅がしたい。

..

少し前の映画のみかたを思うと、映画が自分のあせりをぶつける対象であったことを否めない。いまその対象が変わりつつある。そして、そこにやみくもなあせりはない。以前はつんのめって走っていたのが早足くらいには落ち着いてきた気がする。

ボンベイ・サファイア+トニック・ウォーター+レモンを飲んで勉強していたら途中からやけに眠くなりうたたね。お酒を甘くみていた。

土曜に届いたfaxに返事をしないまま本が積み重なってゆく。時間が経つってこういうことか。

「今日も一日がおわりました」


6/10(月)
白い花と緑だけの花束を作ってもらい、「先生、これドドに」。命日は5/28。先生はまだぐったりしているようだし目もうるんでいて少し困ったけど、「ドドのことを書いていたら涙が出てきちゃって」と言うので、書けるだけでも良かったと思った。

花束がうまく持てない。


6/9(日)
昨日、映画2本みるよ、なんて宣言していたのにずっと眠ってて夕方6時すぎから散歩に出た。それでもあまり後悔してない。帰りに商店街を通ったとき八百屋さんが「すいぶん急いでるんじゃない?」なんて揶揄されながらバタバタ片付けをしていた。たしかにいつもらしく、ない。夜の8時5分前。


6/8(土)
このごろ4時5時台に一度目が覚めることが多いのは早く寝てしまっているからなんだろうなあ。早朝に外を眺めるとその日が晴れに思えない。でも今日も晴れるんだろうな。晴れたほうが断然いい。寝よ。06/08/02 05:15:22

生まれ育った場所の散歩を少々。小さいころ良く歩いたはずなのに、駅から駅への道を歩くのにこころもとない。いろいろなルートで歩いていたから風景の断片は残っているんだけど、それをつなぐのが難しくて一番無難でシンプルなルートになってしまった。

昔よく連れていってくれた古本屋さん(北條書店?)はまだ健在、寄ればよかった。八百屋の真っ赤なプラムに惹かれてついつい買ってしまう。坂の下の牛乳屋さんは違うお店に、小学校近くの文房具屋は中華料理屋に。小学校は遊び道具も3階建なのも変わりなく。歩道橋の上から富士山が見えるかどうか確認しなかった。小学校裏の神社を、お久しぶりです帰りにまた寄ります、と心の中で言いながらショートカット。夕方になると笛を鳴らしてやってきていたお豆腐屋さんに看板がかかっているのを見たときにはさすがに胸がきゅんとした。土曜日だからやっていなかったのか、もうやっていないのか。

遊びに行った先で冷たく甘いものと温かい煮込み。煮込みは夏でもおいしい。陽射しと風と風鈴の音が心地よくて眠くなった。ふと吹く風が気持ちいい、そんなとき漠然と「生きていけるかも」なんて思うことがある。

帰りの道は真っ暗で神社を通るには危なすぎ、行きに約束したつぶやきを反故にしてしまった。懐かしい道を歩いていると、記憶が正しければ嬉しいし惑わされればせつないし離れて初めて知ることもあったりする。「ジャイアンふるさとに帰るの巻」なんて言われつつ、たしかに、鬼の目にも涙チック。


6/6(木)
人に会うと、私は言葉と沈黙と笑いの力を信じていると実感する。会うということは五感を総動員させてその人を体験することだ。


6/5(水)
昼休みと帰りで岡倉覚三著・村岡博訳『茶の本』岩波文庫を読み終わった。美学美学美学! 語りが確信に満ちているのがいい。いや、それが必要。挿入されたエピソードにも印象深いものが多かった。

利休はその子紹安が露地を掃除し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら一時間もかかってからむすこは父に向かって言った。「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石燈籠や庭木にはよく水をまき蘚苔は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹を揺すって、庭一面に秋の錦を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。(p.55)
春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を観賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。(中略。)原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。(中略。)彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。(p.70)

帰宅してからは、松岡正剛『すでに書きこみがある遊学の話』工作舎,1981。残りの対談を一気に読む。ジョン・ケージ「チャンスは何度だってある」、ミルフォード・グレーブス「宇宙をドラムで叩く」、フランシス・イエイツ「精神の考古学へ」、ルイス・トマス「病気は言葉で治る」、ナム・ジュン・パイク「時間をヴィデオする」、J・G・バラード「結晶を時間が流れる」、フリッチョフ・カプラ「物質の歌を聴く」、ロジェ・カイヨワ「私はサンスクリットだ」。以上。

2冊を読み終えて、老子に興味を持った。それにしてもさすがに頭が疲れてばたんきゅー。


6/4(火)
先日、時間をつぶすために入った古本屋で岡倉覚三著・村岡博訳『茶の本』岩波文庫が目に止まり買った。帰りの電車の中で読んでいる。岡倉覚三=岡倉天心だと知らなかった。

宋代のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈迦牟尼、孔子、老子が人生の象徴酢瓶の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸いと知り、仏陀はそれを苦いと呼び、老子はそれを甘いと言った。(p.43)

酸いも甘いも。


6/3(月)
習い事の先生のうちにいた犬のドドが先週の火曜日に死んだ。正直、「ドドが死んだら先生は悲しむだろうけど、私は先生の望むように悲しめるだろうか」なんてひどいことを思ってた。馬鹿だった。実際はそんなこと思う余裕もなく泣いた。先生の憔悴しきった顔。18歳でした。

松岡正剛『すでに書きこみがある遊学の話』工作舎,1981。ピエール・ド・マンディアルグとの対談を読む。


6/2(日)
天気のいい日に洗濯して掃除する。それだけで気持ちは晴れる。あとは外に出て少し歩いて甘いものをちょっと食べて涼しい風でも吹けば、それ以上に。

同じくらいの距離を歩いて同じくらいの時間に家に戻って来ても夏特有のだるさが残る。夏の午後は(しなかったけど)昼寝だな。

松岡正剛『すでに書きこみがある遊学の話』工作舎,1981から、スーザン・ソンタグとの対談部分を読んだ。バルトの『表徴の帝国』の中の、中心が無・真空ということを思い出したり、「間」について考えたり。気配、隙間、余地。

(ソンタグ)ときには、D・H・ロレンスの本の前に立つだけで、本をとり出しもしないことがある。出さなくてもわかるんですよ。そこになにがあるのかが。かれがそこに居てくれるとおもうと、それだけで満足なんです。(中略。)好きな作品はそばに置いておきたい。これは敬意の表明でもある。本を沢山もっているということは、キーが沢山ある楽器を持っているようなもので、その時どきに合わせてキーが選べる。ただ眺めて、どんな音かを想い出すだけで充分なこともあります。本やレコードは物質的というより、もっと別なものを与えてくれるものとしてある。私は書物を体験する。(p.26)

6/1(土)
デパートの中を歩いているうちに服を買いたくなった。けれど欲しいものが見つからない矛盾。あそこなら好きな服に出会えそうだという店を思い出し面倒だけど行ってみることにする。結果、来て良かった! と思うほどに気持ちがはじけ、欲しいものばかりでくらくら。以前ならば試着する前にあきらめてたに違いないタイプのスカートを試着。髪が伸びるにつれ、女の子らしいスカートを穿きたくてしょうがない気持ちが叶ってくる気がする。夏に髪を伸ばす“間違い”は夏のスカートの素晴らしさの前には掻き消されるよ。


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2002.052002.07