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日記のフリindex

2002.042002.06

日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0205.html#20020501

最新の日記


2002年5月

その他
プラネタリーブックス#3「科学的愉快をめぐって」
フランク・ボーゼージ『第七天国』@東京国立近代美術館フィルムセンター
プラネタリーブックス#11「気談」
田中優子『江戸の恋』
チャウ・シンチー『少林サッカー』
阪本順治『KT』@シネマスクェア東急
チアン・ウェン『鬼が来た!』@シアター・イメージフォーラム
沼田允茂『やさしい論理学』
森下典子『日日是好日』
赤瀬川原平「トマソン観相の記」/夏目房之介「マンガのコマ学」『「ふと…」の芸術工学』
国木田独歩「第三者」『明治の文学』
ジャン・ルノワール『ピクニック』『ゲームの規則』@アテネ・フランセ文化センター


5/31(金)
帰り、電車を降りたら見知らぬ駅だった。乗り過ごしなんて何年かぶり。それも降りて歩き出してから気付くなんて初めてだ。


5/30(木)
留守電に入っていた件でやっと母に電話。声を聞くだけで私の心はほっとするやらしんみりするやら。なんでだろ。梅酒を作るから今度来たときに持って帰れば、だってさ。


5/29(水)
総勢9名での飲み会。え、9名! 鍛えられてゆく自分を感じる。久しぶりにのぞむさんと喋れて良かった。もちーの酔ってる姿も見られたし。


5/28(火)
昨日の一合3000円のお酒は、そうだ、火入ら寿(ヒイラズ)でしたね。会社で「昨日おいしいお酒飲んじゃって…」と言ったら「そういえばお酒くさいです」「顔も赤いし」と言われたのでびっくりして聞き返すと「冗談ですよ〜」だって。「十四代っていうのもおいしいよ」と教えてもらった。

ゴディバのチョコバーが配られた。包み紙に描かれている絵の由来が語られながら。ぐっとくる話。窓を閉めるところが。


5/27(月)
XIさんとご飯。かつての南国備忘録現在のメモ日記。今言ってほしいことをいろいろ言ってもらえて元気が出た。人生は一度きり、とか、法に触れない限りは何をしても、とか。お、文章にすると過激。飲んだのは二人で日本酒を三合+αくらいか。一合3000円もするお酒はさすがに至福の味。

このところ人と会うたび元気をもらっている。

食欲が出るCDをまだ聴いてないなあ。グールドはどうですか眠くならないでいますか。


5/26(日)
poさんと眼鏡ツアー。poさんのサイトの50000人目だったということで、かわいらしいお花をいただく。はあ〜嬉しいよう〜。 お花をもらうと自分の性別が心地よく刺激されるなあ。

阿佐ヶ谷の東京オプチカルへ行きあれこれ見ているうちにpoさんにピッタリの眼鏡を発見。似合うものって、かけたとたんに「お!」としっくりくるのは本人も周りも同じなようです。左右脇のフレームとレンズのつき方が変わっている。そして、鼻あてが赤なのがとてもかわいらしいのだ。その後、渋谷でZoff、しかし、なにをかけても「う〜ん、さっきのが…」と二人で顔を見合わせてピンとこない表情。ぼんやりと切り上げ、中国茶を飲みながら、もちーを待ってみる。眠くなったり、雨に驚いたり、ゆっくりした時間の中でゆっくりと話をして過ごした。雨が止んで999.9へ移動。それでもやはり、東京オプチカルの眼鏡を超えるものを見つけられず。「やっぱりあれだねえ」なんて話をしながらタワレコ経由カレー屋さんへ。“サラダなんて気取ってる場合じゃない”くらい大きなお皿でやってきたカレーと格闘、というほど格闘もせず、ペロリ。

24日は、1,2行目と3行目の間にブランクがあって、3行目はボンベイ・サファイアを飲んだ少しあとに書いてた。読み返すとちょっと変。というわけで、どうもありがとう! 今日の帰りにさっそくトニックウォーターを買って帰りました。さっそく割って飲んでみる。……ああ、この味!!!


5/24(金)
佐野元春『Someday Collector’s Edition』(ESCL-2314/5 )と、朝比奈隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団『ブルックナー:交響曲第7番』(VDC-1214)が届きました。

ブルックナーのほうは、第二楽章が終わったときにちょうど教会の鐘の音が鳴ったんです。それが録音にちゃんと入ってる。

とうとうボンベイ・サファイアを買ってきたんだけどさあ、どうにも、もっちーんちで飲んだときのほうがおいしいんだよね、どうして? 絶対違う。薄いと思って足して、それでもなんか違うんだよ。もっと甘さがあった。もっちーどれくらいの割合で水割りにしたんだか教えてください。やだなあこんなことはメールで聞くべきじゃん。


5/23(木)
アテネ・フランセ文化センタージャン・ルノワール『ピクニック』(仏・1936)『ゲームの規則』(仏・1939)前回感想)をみに行った。

『ピクニック』は40分。溌剌としたブランコの場面に、(婚約中なんだけど)恋を知らない女の子の無邪気さを見た。素晴らしい場面の一つ。しかし、本当の嵐より先にやってきたのは恋の嵐。嵐は彼女から無邪気さを奪い、その後に静けさは訪れない。彼女は毎晩毎晩たった数時間で落ちた恋のことを思う。たぶん死ぬまでの長い間ずっと。それを「甘美な苦しみ」と名づけることは簡単だけど、そう言うのをためらうほどにせつなすぎる。思い出にまでならないと、そう言えないような気がする。

『ゲームの規則』は二度目。これぞ悲喜劇だ! って改めて思いながら存分に楽しんだ。扉の開け閉めの使い方がやっぱりとてもうまいなあと感嘆しまくり。

ルノワールはいいなあと思いながら駅から歩いて帰る道、心地よい空気だし、見上げると月が見えているし、そういえば夜に映画をみて帰るのは久しぶりなんだった。そぞろ歩きたくなって困った。たとえば公園のベンチに座ってぼーっとするのでもいい。だけど、夜、女が一人でそんなことをするのには無理がある。月を見ながらなるべくゆっくり歩いて帰るしかなかった。せつなさの余韻が私を歩かせるよ。

..

トルコに飛んでエフェスの村で長距離バスが来るのを日がな一日眺め、日本人が降りて来て客引き相手にどうしようかなあという顔をしながら「ついていって大丈夫でしょうかね?」なんて聞かれたら「私が泊まってるペンションきますか? わりといいですよ」なんて自分も客引きめいたことをする。今したいことの一つ。


5/22(水)
リクエストしていた本が届いたというので取りに行くと思いのほか大きくて重かった。松岡正剛『すでに書きこみがある遊学の話』工作舎,1981。別の図書館の書庫から約7年ぶりにひっぱり出されてきたもののよう。

スーザン・ソンタグ、ピエール・ド・マンディアルグ、ジョン・ケージ、ミルフォード・グレーブス、フランシス・イエイツ、ルイス・トマス、ナム・ジュン・パイク、J・G・バラード、フリッチョフ・カプラ、ロジェ・カイヨワ、以上10人と松岡氏との対談。

たとえば、ジョン・ケージお気に入りの俳句。「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」

そしてたとえば目次におけるロジェ・カイヨワのところ。「遠く離れたふたつのものも、対角線で折れば重なり合う、という“恋”のような科学がある」


5/20(月)
うん、グレン・グールドです。今度会うときにビデオとCDを持っていきます。昨日みたビデオは『グレン・グールド 27歳の記憶』という約1時間のドキュメンタリー。CDでは録音技師の苦労のかいあって歌声は裏に回っているけれど、どうもその声を探すように聴いてしまう。そしてなんだかほっとする。対してビデオではそれはそれは朗々と歌ってるのが見られます。……って、大したことじゃないのだった。


5/19(日)
グールドのビデオをみて、『「ふと…」の芸術工学』工作舎の赤瀬川原平と夏目房之介のを読み、国木田独歩「第三者」『明治の文学』筑摩書房を読んだ。

自分が歌えない分グールドに歌ってもらい、赤瀬川原平「トマソン観相の記」の写真に少し笑って、夏目房之介「マンガのコマ学」の間(マ)の分析に開眼。

「第三者」。第三者って冷静に観察できて“わかってる”存在だなんて思っていたのに、当事者以外はどうしたって第三者だ、と突き放される読後感。第三者はあくまでも第三者、当事者から近い/遠いっていう距離の差があるだけなのだ。

涙もろい。


5/18(土)
森下典子『日日是好日』飛鳥新社,2002を読んだ。お茶を始めて26年目の著者がその間に気付いたこと感じたことを綴ったもの。

非日常のようでいてとてつもなく日常な未知の世界。

「なぜ動作をこのようにするのか」の理由を教えてはくれず、季節によって天候によって毎回使う道具が異なる。頭で覚えようとすると注意される。狭い空間での窮屈な作法を繰り返し繰り返し行なっているうちに、ふとコップから水があふれ出るように五感で感じるということを体感できるようになった著者。「なぜこうするのか」その理由を言葉にせずに飲み込んで、いつか自分で理解できるのを待っている、そんな先生の姿に気付くようにもなる。

著者はお茶の場で「一期一会」という言葉について考えつつ今ひとつピンこない。あるとき父親から著者のもとへ珍しく会いたいという電話がある。折悪しく都合がつかずその旨を告げると、父親は「そうか。いいよ、いいよ。また会える」と電話を切る。妙に心にひっかかってその晩実家に電話すると、父親はもう寝ているという。今度の土曜日に寄ると伝えて電話を切る。ところが前日の金曜日に父親が倒れ、3日後、意識が戻らないまま息を引き取る。結局、「そうか。いいよ、いいよ。また会える」というのが最後の会話になってしまった。

このことによって「一期一会」が理解できたという。(素晴らしい)体験のすべてがお茶を習うことによって「直接」得られたというよりは、お茶を通して考えるきっかけを得ることが多かった、そういうことなんだと思う。

会いたいと思ったら、会わなければいけない。好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。花が咲いたら、祝おう。恋をしたら、溺れよう。嬉しかったら、分かち合おう。(p.192)

たとえばこのようなことはお茶を知らなくてもそう思うではないか。

もちろん、お茶によってしか得られないものが確実にあるのもわかったのでその魅力に触れてみたいとも思ったけれど、自分で体験するのではなく知識でもって先に深さを知ってしまった気がして、そのもったいなさのせいか読み進むにつれて躊躇の気持ちを覚えるようになった。

おかしいな、すごく感化された気がしたのに読み終わったら離れて見ている。

..

午前中に本を読んだあと寝てばかりいた。本当に久しぶりに紅茶を飲んだらおいしく感じた。夜、ふいに両親に会いたくてたまらなくなる。こんな感情は珍しくてとても変。会って馬鹿な話がしたい。父には息子のように母とは友達のように。電話だと少し違う。だからかけない。“Guess How Much I Love You.”


5/17(金)
沼田允茂『やさしい論理学』あすなろ書房,1979 を読み終わる。最後のほうの「意味のあいまいさ」という章に「まちがった求め方」という節があって、それまでの「理づめの世界」=「つめたい世界」を踏まえた上でそれを読むと深みがあって美しかった。

「悲しい手紙」は手紙が悲しいという性質を実際もっているのではなくて、その手紙を読んだ人の気持ちが悲しいのです。ですから、別の人が同じ手紙を読んで、反対にうれしくなることだってあります。「美しい絵」のばあいも「良い本」や「真の日本人」のばあいにも、少しずつもつ気持ちはちがいますが、同じことがいえましょう。
ところが、このような表わし方はすべて自分の気持ちを物の中にあるかのように表わしています。悲しみも、美しさも善良さも真理もみんな、物の側にあるように表現します。そこでなにかわたしたちの外に真とか善とか美というものがあるように思って、真や善や美を発見するために、チルチル、ミチルのようにはるか遠くに出かけるのです。しかし、ほんとうはこのような青い鳥は、遠い世界のかなたではなくて、わたしたちの家の中にいるのでした。
もちろんわたしたちは真理や美や善をさがすのに、じっさいに遠くまで旅行するのではありません。ただ遠くへ旅行すると同じようなものの考え方をしてしまうのです。(以上p.205)

..

もともと「目的」とは、わたしたちが「そうしたい」ことなのです。(中略)そして「そうしたい」のは「それがわたしにとって良いことだから、そうしたい」のです。しかしなにが良いことかは、わたしたちがなにかやりはじめたあとでわかってくるものです。なにもやらないならば、なにがいいかわかりません。(中略)なにもしないで人生の目的という大まかな、はっきりしない目的を追っていることは、じつは「人生には目的がある」とか「目的を知る」といういい方が、ひとりでにあなたの考え方をまげてしまったのでしょう。(pp.207-208)

5/16(木)
ポケットの中のキャンディ。自分以外の誰も知らない小さな秘密に触れて歩く。秘密を持つのは楽しいけれど、口さみしくてなめはじめればすぐにとけてなくなってしまう。

音楽を聞くのではなく聴くために気持ちを能動的なモードに切り替えたい。

昨晩ふいに訪れた二つの音楽。一つは「今度聴いてみたい」とごく最近思ったもの。もう一つは随分昔に名前だけ聞いていたもの。「いいなあ」と聴いていたら内容を知って「え、これがそうだったのか!」と。記憶の底で眠っていたのが起き出したみたいだった。あるいは星の光。

“なにか”がぱあっと降り注いで自分が間違ってたことに気付いた…そんな時間を過ごしたことがある。勝手に「奇跡の一日」と名づけた。「こんな私に」という自分の意識になにか優しいものが与えられると泣きたくなる。二つの音楽が訪れた昨晩も私はやっぱり奇跡と言いたい。


5/15(水)
インパクトの強い映画をみるとしばらくその余韻で過ごせてしまう。ビデオで映画をみる気分じゃなくなっちゃったし……。アテネ・フランセ文化センタージャン・ルノワール『ピクニック』(仏・1936)『ゲームの規則』(仏・1939)感想)がかかる。『ピクニック』はビデオ化していないと最近知ったばかりなのでかかるのは嬉しいけれど、みにいけるかな。

久しぶりの頭痛に珍しく薬が効いた。

小中学生向け論理学の本を途中まで読んでたことをずっと忘れてた。今この深夜に眠くなければ読みたかった。明日になればもうわからない。


5/14(火)

なぜ始まりは、悲しみの色を帯びているのだろう。子供の誕生しかり、荒玉の新年しかり、ベートーベンの交響曲の出だしの意気揚々とした楽音しかり、目覚めつつある牧草地の野鳥のさえずりしかり。どんな約束の瞬間、歓喜の瞬間といえども、奇妙な甘いメランコリーに感染していないものはない。(チェット・レイモ)

始まりどころか始まる前からメランコリック。始まりを待ち望みつつ、始まるまでのカウントダウンがずっと続けばいいとも思う。

旅に出る前の日に眠れなくなったりするのは次の日の楽しさを思うから。それでは少し足りない。終わったあとのさみしさも想像しているからだ。


5/12(日)
チアン・ウェン『鬼が来た!』(中国・2000)@シアター・イメージフォーラムが素晴らしすぎて、しばしボーゼン。昨日阪本順治『KT』(日・韓=2002)が薄れちゃったよ……。

もったいぶらず「麻袋」を登場させテンポがいい。日本語中国語の加速していく応酬に乗ったユーモアの乱れ咲きや近い近いカメラの絶妙な距離と動きなど、物語に惹き込ませる要素は充分。戦争物を描きたいんだったらこれをお手本にすべきだと言いたくなるくらい、冷たくもぬるくもない、フラットで的確な視点。

バランスの取れた状態というのは崩れる危険性を最も秘めている、その緊張感でドキドキだった祝宴の場面。音楽は狂気を彩りつつ状況とかけ離れていてむやみに響くのが怖い。

結局、「麻袋」を持ってきたのは誰なのかは明らかにされないが(八路軍らしい)、「運命」だと解釈するのは変だろうか。

監督・主役のチアン・ウェン、香川照之、そして澤田謙也の資質と才能に乾杯。

興奮しすぎると案外冷静にしか書けないのかも。

この映画のカメラの距離の近さに強く惹かれたせいか、基本的に遠いカメラは好きじゃないようだと気付いた。遠くても近い場合や、遠さが必要な場合もあるけれど、もったいぶったり気取るための遠さは憎みたくなるほど嫌い。大切なことを離れてしか語れないのならば、語らないほうがマシだ。

中国映画のあとに中国茶。やっぱり眠くなった。ぽわんぽわんといい気分。


5/11(土)
東京国立近代美術館フィルムセンターで6/4から始まる「日本映画の発見VII:1970年代(1)」。タイトルだけみるとなにがなにやら知らないものばかりなんだけど、それぞれの解説を読んでいると面白そうでわくわくしてくる。みるとすれば『遊び』『あらかじめ失われた恋人たちよ』(だって石橋蓮司だし!)『関東緋桜一家』『約束』『忍ぶ川』『 無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた』(原田芳雄!)『女囚701号 さそり』『仁義なき戦い』かな…。一般500円です。学生とシニアは300円。子供100円。

シネマスクェア東急で阪本順治『KT』(日・韓=2002)をみたあと、上記東京国立近代美術館フィルムセンターマイケル・パウエル/エメリック・プレスバーガー『黒水仙』をみるためにとりあえず銀座まで移動したんですが、軽い頭痛がしてきたので少し考えて映画をやめることにしました。かわりにというのも変だけど、京とうふ藤野でにんじんの豆腐、豆腐のおはぎ、ふるや古賀音庵でごま団子を買い、サガパーの豆腐バニラアイスを食べて帰ってきました。

阪本順治『KT』(日・韓=2002)。金大中の事件は、「そういうことがあって事件自体が謎に包まれている」ということしか知らない。映画をみていくうちにある程度は理解できていくんだけど、それでも「この映画を理解するには」私は金大中の事件を、というより時代背景を知らなすぎるんだ、と思えてきた。それをもう少し頭に入れてからみるべきだった。映画自体には魅力を感じられたので余計に残念。

・実は一番心情を理解できなかったのが佐藤浩市で、そのことにも「知らなささ」を感じたのです。

・現役大統領を悪く描くことはないんだろうけど、金大中の描き方はいいですね。一人裏階段を不自由な足をひきずりながら降りてゆく姿とか。詩とか。

・光石研が金大中の足に「安心」と指で描くシーンにぐっとくる。金大中の祈りのセリフも。

・原田芳雄は相変わらず魅力的。監督だったら使いたい役者だなあ。

・映画内で使われた『仁義なき戦い』の映像をみて(目からそらして)、みられないと認識。


5/10(金)
部内の女子が、サンダルを履いて夜会巻をしていた男性を日比谷線でみたらしいです。服は紺のスーツ。

おみやげにちんすこうが配られた。「どうぞ」と箱を差し出された人の席で「こんなに種類があるんだー」と声が聞こえる。いざ自分のところに回ってくるとやっぱり「わー、こんなにあるんだー」と言ってしまうくらいあった。黒糖、パイン、グァバ、紫いも、パパイヤ、マンゴなど、見た目も色鮮やか。シークァサーと泡盛を選んだら「もしかして酒飲み?」。

6/1公開の周星馳『少林サッカー』をVCDでみました。チャウ・シンチーらしい面白さはちゃんと健在なんだけど少しだれるのとCG使いすぎな気がする。新しいおもちゃを手に入れて遊びすぎの印象。っていうか、カレン・モクとセシリア・チャンの使い方が贅沢すぎてがっくりだよう。あれだけしか出ないなんて〜。

私の場合、チャウ・シンチーにはパロディに面白さをみているかもしれないなあ。チャウ・シンチー/リー・リクチー『喜劇王』(香港・1999)でのジョン・ウーパロディとか、バリー・ウォン『ゴッド・ギャンブラー 賭神』(香港・1989)をパロった、ジェフ・ラウ『ゴッド・ギャンブラー 賭聖外伝』(香港・1990)や、バリー・ウォン『ゴッド・ギャンブラー2』(香港・1990)など。

バリー・ウォン『ゴッド・ギャンブラー』は、チョウ・ユンファが主役。これをパロったのがジェフ・ラウ『ゴッド・ギャンブラー 賭聖外伝』で、こちらはチャウ・シンチーとアンディ・ラウ。これが本家を抜き大ヒット。それをみた本家『ゴッド・ギャンブラー 賭神』の監督バリー・ウォンがチャウ・シンチーを引き抜いて作ったのが『ゴッド・ギャンブラー2』


5/9(木)
眠いと感情が麻痺して少し楽。


5/8(水)
どうしてお酒を飲みながら仕事しちゃいけないんだろう。煙草だって同じ嗜好品なのに。「酔ってないよ!」なんて言いながら酔ってる場合があるからか。飲んでいる本人じゃなくて周りの人で匂いで酔う人がいるとまずいとか。冷蔵庫にこっそりボンベイサファイアの瓶を常備しておいて、グラスに一杯だけ入れて机の上に置いておいても全然わからないような気がするのに、と思ったのは、朝飲んだブランデーシロップ入りカフェオレのせい。ちなみに、オハヨー乳業の「カフェリッチ カフェオレ カフェロワイヤル」。

1日に手に入れたのは、『オデッセイ 1971-2001』工作舎,2001 です。“『遊』創刊号からフランシスコ・ヴァレラまで工作舎30年の出版物より厳選した珠玉の断片集”(帯より)。これを手にとってパラパラ眺めていると言葉っていいものだなあ……と思う。土星は30年周期で公転するんだね。


5/7(火)
雑談をしたそうなのがありありわかるほどに、最近、1時間の習い事が1.5時間にのびつつある。連休中に持病の心臓が悪くなって横になると呼吸ができなくなったから起き上がって夜を過ごしたなどという身体の具合が悪い話を聞いているとき、先生が明るく話すのに対して私の反応はどのくらいの程度で合わせるべきなのだろう。雑談が長くなればなるほど先生自身の病気に対する不安が伝わってくるような気がして、私にできることはせめて真面目な生徒でいることくらいなんだろうかと殊勝なことを思いつつ、9時頃寝た。

3つ要因が重なると電池切れるのかもなあ。「天気悪くて寒い」のも場合によっては要因の一つになるし、それに落ち込み要因が2つ加われば「今日は早く寝よう」となる。


5/6(月)
朝の目覚めはすっきりしていたのに、あれよあれよというまに気分がエアポケットに入ってしまった。たださみしい。なにをしようとしても今はこんなことしたいんじゃないと思う。きょうもまた眠っていたい。それでも少しだけ気持ちを沿わせて散歩に出てみた。

結局どうしたかったのかがわかった。知った。じゃないな、認めた。

少し先に楽しみがないと立ち止まったまま動けなくなるときがある。その楽しみのためならば今の楽しみをあきらめてもいい。反面、今今今をつかまえる欲もちゃんとある。叶えられるなら両方手に入れたいのはやまやまなのだ。

素直って難しい。照れたら挨拶。素直になって照れるくらいなら、お茶を濁してそっぽ向いてしまいたい。……と、うそぶいてみる。でもやっぱり、素直は難しいけど素敵だと思う。

「自分が今手にしていて大切なものをなくさないように、あるいはそれを保ちつづけていられるように努力したい」なんてメールに書いたのは改めて読むと決意表明みたいだ。

整理して書こうとしているのに全然うまくいかない。まったくつながりが見えない文章の羅列になってしまった。広場に人が行き交うように考えがただ横断している。


5/5(日)
友達とみにいく予定だったチアン・ウェン『鬼が来た!』は、まるでテレパシーを使ったように「延期にしよう」と決まり、夜みに行く予定だった橋本忍『幻の湖』(日・1982)もやめにしてしまった。

たっぷり眠ってなんとなく起きて、プラネタリーブックス#11「気談」工作舎,1979 をめくり始めたら最後まで読んでいた。「気」をめぐる対談・鼎談。

途中だった田中優子『江戸の恋』集英社新書,2002 も読み終わる。自分や知人の体験談を盛り込みすぎ、あるいは気持ち入りすぎな筆のすべりを感じたものの、内容に応じて取り上げられる関連作品が興味深いし、噛み砕いてわかりやすく説明されていてとにかく面白い。開放と現実的な割りきりがある江戸の恋。遊女のシステムや、この時代の結婚の意味を知り、経済的な問題が恋愛を左右するシビアさに改めて気付いたりもした。著者は自分の好みについてはこだわりがありそうだけど、恋愛自体に関してはかなり自由な思想の持ち主に思われて、それが読んでいて気持ちが良かった理由なのかもしれない。


5/4(土)
「猫がいるよ」という姪のささやき声で目が覚めた。散歩道、まっすぐな道のむこうにいきなり海が見える、そんなできすぎの風景にときめく。階段に座ってしばしの間ぼーっとする。遠く眺めただけで海に触れなかったことに今ごろ気付いた。

動き回る姪たちにてんてこまいしている間に1日は過ぎ両親とは大して話もしないまま帰りのバスの時間になる。30分遅れてバスが着き、その先の渋滞は思った以上でトータル1時間45分遅れ、1時間半で到着する予定が約3時間かかった。つまり倍以上かかったことになる。

電車と車どちらが好きかと聞かれた場合迷わず電車を選ぶのは時間通りに着くからではないみたい。バスに乗っているあいだ、走っても走っても続く渋滞がむしろ面白くて、いつ着くかわからないのっていいなと思ってた。予定が狂う旅というのはいいものだ。言い換えれば、旅は予定が狂ったり狂わされたりしながら調整したりしなかったりいきあたりばったりに転がってゆくものだ。


5/3(金)
ぎりぎりまで寝てから、フランク・ボーゼージ『第七天国』(米・1927)@東京国立近代美術館フィルムセンターをみに出かける。昨年みた映画の中で恋愛ものとして一番印象に残った映画(感想)。まさかスクリーンでみられるとは思わなかったので狂喜乱舞。

サイレントで、英語字幕、日本語訳なし。1927年という古さを感じさせる雨が降っているようなフィルムの状態も、慣れればいとしいまばたきのようなもの、気にならない。スクリーンでみる好きな映画の評価はさらに一段階上がってしまう。そう、この場面! このセリフ! と思い出しながら素晴らしさを再認識する。ポイントとなるセリフはやはり"I'm a very remarkable fellow!"。前回同様だらだら泣いてしまってかなり恥ずかしかった(エンドロールがほとんどなく、すぐに照明がついてしまうので)。

サイレントはいい。字幕で内容を把握そして映像に集中、この繰り返しで物語が織られていくのは、自分の中で字幕と映像を一致させる作業が必要かと思いきやそういうことはなくて、むしろ物語はすんなり頭に入りかつ映像に集中できるというメリハリ感がある。

その後JRバスで両親のもとへ。JRバスの人たちってかっこいい人揃いではないか。渋滞のため1時間遅れて到着。大阪にいる姪はすっかり大阪弁のイントネーションを身につけちゃってた。


5/2(木)
プラネタリーブックス#3「科学的愉快をめぐって」工作舎,1979 は面白く読んだ。今は断片的なもの対談的なものが読みやすい。

「好きなもの いちご 珈琲 花美人 懐手して宇宙見物」
しかも、これローマ字で書いてあるんだって? こういう歌を寺田寅彦が詠んでいる。(p.25)

こういうのを読むと(いちごの絵を描いた風呂敷を弟子に配ったなんてエピソードもある!)、やっぱり寺田寅彦が読みたくなる。岩波文庫の『柿の種』を探してみたものの探しているときに限って見つからない。学会によるハゲの人数の違いについて、なんてのがあったと思う。

そうそう、歌といえば朝永振一郎の色紙の言葉を思い出した。

明日は映画をみてから(あくまでも映画優先)、引っ越した両親のところに遊びに行ってきます。さかなさかなさかな〜。

..

庭に出て星空を見上げ、銀河を見ると、自分が宇宙のとても小さな一郊外に住んでいるような気がする。(J・G・バラード)

5/1(水)
もらった人は幸せになれるというすずらんの日。今日会う人に無造作に渡してみたかったけど目当ての花屋さんで「(季節が)もう終わりました」と言われ別の花屋さんにも置いてなかった。ブーケを持って女の子に会いに行きたかった春はもう春とは呼べなくなってきている。

人は、言った言葉より言われた言葉のほうを覚えているものだという。音声言語について、発話者たちのあいだにあるようなどこか共有されたイメージを持っていた。でも、「言われた言葉のほうを覚えている」のならば、やはりそこには「渡す/受け取った」というやりとりがあるように思える。言われた言葉より書かれた言葉を信じるものだ、というのもあるらしいけど、どうだろう、音声言語に付随する声や顔の表情の存在も捨てがたい魅力だね。

目にもせず手にしたこともなく、ただ期待だけで発注してみた本が届いた。まずその大きさ、というより小ささが手になじんで嬉しくなり中を開いてもっと嬉しくなった。すこしのあいだ内緒にしておきたい。

..

「少年」ということはつまり「秘密の眩暈」ということです。(ロジェ・カイヨワ)

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