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読後メモ index

2010.022010.04

日記の フリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。

e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary1003.html#yyyymmdd


2010年3月

その他


3/29(月)
朝 の丸ノ内線、茗荷谷駅でアナウンス。銀座駅で信号機トラブル、全線運転見合わせ。いつもかなり余裕を持って出てはいるものの、待つのもなかなかにつらい。 情報が入ってこないし、茗荷谷という中途半端な場所なので、都営バスとか有楽町線まで歩くとか言われてもかえって不安。20分くらい待ったあと、改札口に まで近づいてうろうろしていたとき、何らかの気配を感じてあわててホームへの階段を駆け下りると電車が出るところ。駆け込み乗車をしてしまった。電車は約 30分の遅れでした。
ま だなんとなく頭に来ていたので、きょうは私から電話をすまい、と思ってたんだけど、やっぱり電話してしまった。昨日はお風呂に入ったようだ(たぶん機械式 の。海老フライみたいに?)。作業療法も結構スムース。起き上がりの角度がずいぶん90度に近くなってきた。車椅子に乗る練習を近くするかも、とか。そん な話。
で、お互い気分が良くなったところで、土曜日に頭に来たことをズバッと言った。そうしたら謝られたのでそれで気が済んだ。
夜は、水曜日ぶりにステップとエアロ。

3/28(日)
のんびりしたような、調べものばかりしていたような。午後、買い物。昨日のことでむしゃくしゃしたのでケーキを買って憂さ晴らし。昨日、頭に来たことを ケーキを食べながら話していたら、やたらと涙が出てまた泣いてしまった。

3/27(土)
午前中、不動産会社から電話があり、審査が通ったとのことで、賃貸契約を交わす日を4/18にしてもらった。
夕方、母と妹と電話で話す。父の兄の一人、つまり伯父がお見舞いに来ていろいろ話したという。母との会話で私はひどく頭に来たことがあったけれど、ぐっと こらえて電話を切った。要は、「物には言い方があるだろう」ということ。
『Another』を読み終わった。
3/26(金)
本をあれこれ読んだりした気がする。

3/25(木)
きょうから31日まで妹が母の家に滞在する。
二人で父の作業療法を見たという。以前見たときよりスムースな動きをしていたらしい。なにかできるといちいち喜んだと言うので「赤ちゃんみたいだね」と言 うと「そうそう、そうなのよ!」だって。それでいいのよね。
帰りの電車から、綾辻行人『Another』を読み始め た。でもだめだ。座れるのをいいことに眠ってしまって全然進まない。

3/24(水)
父の、連休前から(腎臓を悪くしていたあたりから?)続いていたしゃっくりがまだ止まらないらしい。午後に母が帰るときには、止まっていた気がする、らし いけど。なので、言語療法は本日も中止。午後の作業療法はたぶん行われたのじゃないかと思う。
母 がそばにいるときには、(鼻に付いているチューブを取らないための)左手にかぶせている手袋を外しているんだけど、母が席を外すときにはそれをまた付けな くてはならない。ところがきょうは、それをすごくいやがって、手袋をギューっとつかんで離さなかったり、隠したり、あげくの果てには投げてしまおうとした らしい。結局、母も自分では付けるのをやめて、近くにいた看護婦さんに付けてもらったという。一度、鼻に付けたチューブを外したことがあって、それをもう 一度付けるとなると大変だし、本人もとても痛いのです。だから、まあ、手袋をしていじれないようにするのは仕方がないのだろうけど……。

3/23(火)
夕方、母へ電話をすると、父の状態は落ち着いているようでまたリハビリが再開されそうだ、とのこと。そういった先生と母の会話を聞いていた父は、涙ぐんで いたという。きょうは明るい気持ちで帰って来た、と母が言うので嬉しかった。

3/22 (月・祝)
なんとなく早く目が覚めた。3人で物件に着いたのは、10時少しすぎ。張り切ってると思われたかも。母も、やはり南に窓がある部屋がいいと言う。というわ けでお願いします、となったのだが、初期費用にかかるお金の説明に入ったときに、「ちょっとすみません」と母に呼ばれ外に連れ出され「貯金がそんなにない し不安だ。贅沢じゃないかしら」と言いはじめた。母の不安そうな顔を見たら、「なんとかするから!」と言うしかない。なんとかしますとも。促して席へ戻 る。
いろいろ細かい書類を書いて、必要な書類を揃えて送るように言われ、終了。あとは審査。受かるといいのだけど。駅に着いたら12時になっていた。
ヴィドフランスで軽く食べ、母は帰宅の途へ。私たちも家へ。
妹へ報告の電話をする。

3/21 (日)
午前中、夫とともに賃貸物件を見に行く。ところが駅に着いてあせった。地図を忘れてきてしまったのだ。場所の確認をしようと一度鞄から出したあと、しまい 忘れてしまったのだ。なんとなく覚えてはいたものの、こういう状況に弱いので一度帰ろうか…と気弱になる。でも、なんとか到着できました。
水曜日に書類が届いたときには、2階に1部屋、1階に3部屋空いていたのが、とうとう1階の3部屋のみになったようだ。まずモデルルームとなっている南と 東に窓のある部屋を見せてもらったがさすがにとても明るい。次に、南と西に窓のある部屋を見せてもらい、同じく明るさを感じる。そして、次に北と東に窓の ある部屋、北と西に窓のある部屋を見せてもらうが、やっぱり南に窓のあるなしって大きいのだなあと思った。介護の場にもなる部屋だったら、やっぱり南に窓 が欲しいなあと私は思い、部屋が埋まらないか焦り出す。
その後、丁寧な説明をしてもらい、申し込むのであれば住む人本人、つまり母に来てもらわないとダメだとのこと。もうこの物件しか適当なものは見つからない と思い、駅までの道を歩きながら母に電話、「明日、物件を見にこられない?」と打診する。連休中ということもあり、朝の移動は渋滞に巻き込まれたら不安な ので、「これから夕方出てきてうちに泊まりなよ」と聞いてみる。了解してもらい、少し落ち着いて帰宅。物件の担当の人へ、お礼と明日改めて母とともに伺う 旨メールを出しておいた。
母は意外に早く到着。あれこれ話をして早めに寝た。

6 日から20日までは、20日に思い出しなが ら書きました。
そのあいだに、『ミレニアム 2』の 上巻と『正弦曲線』を 読みました。『正弦曲線』の なかで特にすばらしい箇所があったので、いつか抜き書きしておきたい。
20日以降に読んだのは、『正々堂々がんばら ない介護』『介護を受ける人の気持ちがわかる本』『まちがいだらけの片まひリハビリ』『老人介護 じいさん・ばあさんの愛し方』
『まちがいだらけの片まひリハビリ』は、『新しい介護』の中の片まひに関し て新たにまとめたもの。コンパクトなので電車の中でも読みやすい。
『老人介護 じいさん・ばあさんの愛し方』は、『新しい介護』の中の囲み記事のも とになったエピソード。読みごたえありで参考になる、というか参考にしなきゃ、と思う。
3/20 (土)
UR賃貸の高齢者優良賃貸物件が本日から申し込みができ、自宅近くの物件も出ていたけれど、ここはエレベータがないので却下。残念。

3/19 (金)
妹から朝メールが入っていた。腎臓に血栓ができ、きょうのリハビリは中止。とても心配。土日の宿泊も中止をし、賃貸見学は母抜きでお願いしたいとのこと。
私の住む県内のリハビリ病院から受け入れ可の連絡が来たと、ソーシャルワーカーさんが念のためどうしますか、と聞いてくれたらしいが、やはり今の病院のと ころでとお願いをしたらしい。
父 の兄から母へ電話。兄姉たちは、使わないお金があるのだから困ったらいつでも言ってください、ということだったらしい。これだけ書くといやらしい(?)け ど、なんというか、母にとってはありがたい安心する言葉だったようで、私へ電話する声が涙ぐんでいた。娘たちがお金のことを心配するな、というのとはまた 別の安心なのかしら。
図書館から、『脳から見たリハビリ治療』と『新しい介護』という本を借りた。後者はとくに実際的実践的で手元においておきたいと思った。父が今の状態を乗 り切ったら購入を考えたい。

3/18 (木)
昼 休み、母から電話があって、今入る病院に併設されたリハビリテーション病院に決まりそうだ、という。朝、担当医の先生とゆっくりお話をする機会があり、娘 のいる県のリハビリ病院へ移すのもいいけれど、まだ病状が落ち着いていないので、なにかあった場合ここの病院だと連携も取れて安心なのでは、ということ だったという。ソーシャルワーカーさんとも話をし、母の一存で、お願いします、という流れになったとのこと。
もし、私の住む県の施設を探すということになっても、責任を持って探しますとも言われたらしい。
ソー シャルワーカーさんに任せきりにして、家族がのほほんと何もせずふんぞりかえっていいのだろうか、とか、ソーシャルワーカーさんは私たち家族一人だけの担 当ではないのだし、と思い、勝手にいろいろ動いたりしてしまったけれど、もっと頼ってよかったのかもしれません。その点を、今度謝っておいてほしいと母に 伝 えた。
母にはまだもう少し大変だけれど、まずは少しほっとしました。
自分たちが住むかもしれない部屋はやはり実際見たほうがいいだろうと思い、土日に、泊まりがけで母に来てもらうようにする。昨日資料が届いた、うちから一 番近い賃貸へ日曜日に見学に行きたい旨メールを入れ、返事が届く。

3/17 (水)
母がソーシャルワーカーさんへ聞いてみると、私が県内で候補に挙げたリハビリ病院から連絡があり、お断りされたとのこと。それを聞いて、まだ一件だけなの に相当落ち込んでしまう。
リ ハビリ病院は、母か私が現在住んでいるところではないとお願いはできないのが原則のようで、もしそれ以外に東京でお願いしたいとなれば直談判するくらい じゃないとだめですね…、と言われていた。自分で電話をすることは構わないとは言われていたので、一件断られてあせってしまった私は夕方ある都立O病院へ 電話をした。するとケンもホロロとはこのことかという(私にとっては)冷たい対応を受け、本当にショックを受けてしまい、電話を切った途端緊張の糸が切 れ、父が倒れて以来初めて大泣きに泣いた。母と妹には吐き出しにくく、夫にわりと冷静なメールをしたら非常に珍しいことに電話がかかってきた。様子がおか しいと察したのかもしれない。しゃくり上 げて泣いてしまって会話にならなかったので、早めに帰ってきてくれた。
少し落ち着いてから、夜、母に東京の病院は無理そうだよ、と連絡をした。今いる病院に併設されたリハビリテーション病院もあるけれど、母が通うのに大変だ ろうと思って考慮に入れてなかったが、そういう選択肢も考えないといけないね、と話し合った。
月曜に資料請求していた賃貸より書類が届く。空きはあるようだ。

3/16 (火)
午前中、父に「元気そうだね。またね」と言うと、手を振ってくれた。でもなんだか涙ぐませてしまったような気もする。
県の住宅供給公社へ電話をして高齢者向け優良賃貸物件の空きを確認するも、今は空きなし。ただ、空き待ちをすることができるとのことで、念のため書類を 送ってもらう。
いっ たん帰宅。16時頃、昨日をしていた物件の見学をしに行く。駅はあまり好きではない雰囲気。物件自体はかなりいいと思った。不動産会社の人は定休日なの で、管理人さんが案内をしてくれた。見学後、コミュニティスペースに案内されると、居住者の女性二人がいて、少しだけお話をした。
悪くはないと思ったので、母に印象を説明し、とりあえず申し込みに必要な住民票や源泉徴収票などの取り寄せ準備をすすめてもらうことにした。
携帯に病院から電話があったようなのだけど、あとから気付いた。妹が病院に連絡を取ってくれたが、病状についてではなく、どうやらソーシャルワーカーさん だった模様。この日は連絡が取れなかったので、翌日母に直接聞いてみてもらうことにする。

3/15 (月)
母とともに、ソーシャルワーカーさんと面談。
今後どうしたいか聞かれ、私の住む県内でリハビリテーション病院を探し、そこに入院をしてもらい、その間母にはうちに居候してもらい、新しい住居を探した い、と答えた。
リハビリテーション病院は、こちらが望んだから入れるものではないことを知った。回復が見込めない人は入院させてもらえないということ。まず適応があるか どうかを確認し、相手先へ問い合わせをするが、適応があるからといって受け入れてもらえるとは限らない。
大変なことになったぞ、と不安になる。ワーカーさんがその場で担当医の先生に連絡を取ってくれ、適応はあることはわかった。
リハビリテーション病院を退院後は、どうしますか、の質問。
自 宅に引き取って面倒をみたいと答えるも、実質的に母一人での介護になるため、特養も考えに入れておくべきだと言われた。自宅に引き取ってやっぱりだめだっ たというのより、まず施設を探しておき、いつでも引き取れるような準備もしておくという順番のほうがいい、ということ。
これが現実なのだなあ。
また、リハビリテーション病院がまったくどこも受け入れてもらえないときどうしますか、との質問。自宅か有料老人ホームか。有料老人ホームは月30万もか かるというので、とてもじゃないけど無理だ。じゃあ自宅? それだって今の環境では無理だ……と、答えにつまる。
「よくて車椅子」と言われているので、ともかくバリアフリーの賃貸を探さなくてはならない、と思った。
帰宅して、高齢者専 用賃貸住宅でいろいろ当たりをつける。情報が古いので問い合わせてみると空きがあったりなかったり。2件から詳細をFAXで送っても らった。そのうち1件は翌日見学させてもらうお願いをした。さらに1件、パンフレットの送付を依頼。
バリアフリーの賃貸、って探すのが難しい。高齢者向けだとなおさら。
ピアノの先生に事情を説明したところ、まずはおやすみという形を取ってみたら、とアドバイスのメールをいただいた。かつ、練習ができなくても、レッスンの 時間は心休まる時間にします、と書かれていてホロリときた。6月いっぱいまで休みを取らせていただくことにする。

3/14 (日)
父の顔をみたけど、私が来てもあまり嬉しそうでなかった。諦めと、無念と、かなしそうな顔。先週は、まだ倒れて2日くらいで自分の状態がそんなに悪いと 思っていなかったのかもしれない。なにも声をかけることができなかった。また明日ね、くらいしか言えなかった。

3/13 (土)
母のところへ行く。

3/12 (金)
11日と12日、この2日間は、リハビリ テーション医療についてのFAQを読み、リハビリテーション病院についていろいろ探し始める。というか、車の運転ができない母が今の ところに住むのは無理で、今後の住まいをどうするか、も含めていろいろ考える。妹や母と電話でよくよく話す。
私としては、自分が今住んでいるところの近くに引っ越してもらい、リハビリテーション病院もこの県内で探したい。
でも、母はそんなお金はないという。金銭的にも物理的にも、娘たちに頼るのはいや。妹とは意見が一致するんだけど、いまのところ母か頑固なので煮詰まる。
ところが12日になってもういちど話してみると、納得した模様。気弱になったのか、素直になったのか。

3/10 (水)
明日から一般病棟へ移りリハビリ開始らしい。が、危機を脱したのとはまた別の話とか。
3日間いたK棟はすばらしい設備と厳重なセキュリティのところで、一泊いくらか聞くのが恐ろしいところ、らしい。望んで入ったわけではないのだけど、この 場合の請求ってどうなんだろう。

3/9 (火)
母 が、父の兄姉へやはり連絡したほうがいいだろうと判断し、まず一人に電話をすると11日に揃ってお見舞いに行くということにしたという。ところが、父にそ のことを話すとすごーーーく嫌な顔をされたとのこと。で、仕方がないのでお兄さんたちには事情を説明し、今回は止めたもらったとのこと。父に「今回は来な いよ」というと、ニヤッとしたという。父らしい。入院しているときのお見舞いを控えてほしい気持ちはわからないことはないのだが。

3/8 (月)
勤め先の人たちに父が倒れたことと急に休むことがあるかもしれない、と伝える。お昼頃、妹からメール。状態が安定してきたとのことで、K棟の集中治療室に 移ったとのこと。CTも撮った。
「手足を動かしてください、というのには反応できるようです。また、顔色もよくなった気がします。少し、うんんだけでなく、横にふった行動もありました。 意識は、あるようです」

3/7 (日)
病院へ。父に「自分でびっくりしたでしょう?」と聞くと、ちょっと苦笑いをして「参ったな」という顔をしたように見えた。「昨日も私たちが来たのは覚えて る?」と聞くとうなづく。
担当医の先生に病気の状態と今後のことを聞く。レントゲンで見る血管の状態は驚くほど悪く(左の太い血管が首あたりから途切れている)、これは相当重いの だな、と納得する。
発見されて3時間以内、かつ、条件を満たしていた患者のみに使用できる薬(?)を使い、処置を施したという。しかし、後遺症は相当残り、よくて車椅子、歩 くことは困難でしょう、言葉にも障害が残るとのこと。
この一週間は、頭が圧迫され、腫れたり意識障害が起きる可能性があるとのこと。もし乗り切ったら乗り切ったで、今後リハビリテーション病院への転院なども 含め、早め早めに動いたほうがいいと説明を受け、同病院内のソーシャルワーカーさんへ面談の予約を取る。15日。

3/6 (土)
お昼ごはんを食べていたら、母から電話があった。「驚かないでね」と前置きをしたあと、「パパが倒れたの」。
状況は以下の通り。今朝、新聞を取りに行ったきり、戻るのが遅い。窓から見ると傘が置いてある。溝に詰まった葉っぱを取り除いているのかと思ったが、それ にしても遅い。見に行ったら倒れていた。どうしたらいいのかわからず、隣家に助けを求め、救急車を呼んでもらった。
入院の手続きをして帰宅し、娘に電話をした、という次第。
脳梗塞。
相 当症状は悪いようで、お医者さんからは、娘さんたちに連絡をして呼んだほうがいい、とのこと。お医者さんたちが下を向いていて、書類にサインを書く手が震 えたわ……と言う。電話を切り、少し涙が出たけれど、泣くことはなかった。まだ実感がない。大阪に住んでいる妹にも連絡を取り、取り急ぎ母のもとへ向かっ た。 妹と合流し病院へ着いたのは夜8時を回っていた。
父は元気そうに見える。意識もあるし、私たちに気がつくと、手で挨拶をしようとする感じ。この日は帰宅。


3/5 (金)
朝、駅へ向かう途中でうぐいすが鳴く練習をしているのをきいた。まだ下手だった。
P・D・ジェイムズ 青木久恵訳『秘密』を 読み終わる。あと少しだなあと思ってからが長かった。帰りの電車で座れたはいいものの、ぐっすり寝入ってしまい全然進まず。でも、電車の中で読み終えるに は余韻がありすぎると思ったので、こうして珍しく家で、そして夜中にまでかかって読み終わるというのは良かった。
殺人事件の解決にひっそりとたたずむ真実を知ったとき、人は本当にすべてを隠して死ぬことはできないのかもしれないと思った。というより、それに関わる何 かしらを共有する人がいる(と知っている)からこそ死ねるのかもしれない、と。
それが、愛情で(ある必要)はなく、信頼なのかもしれないな、とも。
こ れは、P・D・ジェイムズ2008年のときの作品。彼女は今年2010年の夏に90歳なので、88歳のときにこれを書き上げたのかー。すごいとしか言いよ うがないです。ポルトガルのマノエル・デ・オリヴェイラ監督(現在101歳、現役)とともに、長生きして欲しい二人です。
3/4 (木)
今年はひな人形を片せずそのまま。週末に片付けます。
出してひなあられを供えたくらいで、並べてからはあんまりちゃんと顔を眺めてないな。一年に一度なのに。
まあ、出すたびに顔は見ているからいいか。それより毎年、人形の保存状態にドキドキします。今年は、五人囃子のうち一人、頭に載せてる帽が髪とともにズリ 落ちて、落ち武者のような風情に…。がんばれ。

3/3 (水)
和菓子屋さんで、桜餅と道明寺を買って帰る。どっちか選べなくって…。桜の葉がいきているのは桜餅、食べごたえなら道明寺かな。

3/2 (火)
藤田香織『やっぱりだらしな日記+だらしなマ ンション購入記』を読み終わる。マンション購入記部分がより面白かった。

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