記事No | : 1526 |
タイトル | : Re^4: 誰のほうを向いて話すのか |
投稿日 | : 2012/05/18(Fri) 17:19:12 |
投稿者 | : 桃青 |
しんのすけさん
レス有難うございます。
しんのすけさんくらいなものですよ。
「釈迦の本意はどうした?!」という私の嘆きをわかってくださるのは。
> 他人に話をしようとする場合、「相手が喜ぶ話」というより、「喜ぶ話し方」というのがより良い僧侶だと思います。
まったくその通りですね。
でも現実難しい。
> 僧侶や宗教家の役割は信者に対して、考え方や生き方のアドバイスをすることだと思うけれど、拒絶されてしまっては導く事ができない。
「あなたー。お義母様にハッキリ言ってくださいよー。」
「いや、こういうことはね。いきなり言っても拒絶されるだけだから、折を見つつに、ね。」
「そう?お願いだから、チャンと言ってくださいね。」
うーん・・・これは一つの例ですが、経験上、こういう会話が取り交わされる場合、ハッキリ言う折などまず、来たためしがない。
拒絶されまいとすれば、相手の意を汲みつづける他はなく、
「そろそろ」と、相手の意に染まないことを言った途端、それまで相手の意を汲むことによって成り立っていた関係はあっさり崩れてしまう。
四悉檀を自由自在にされるのは、仏様くらいなものでしょう。
日蓮聖人は、拒絶も怖れず、相手の間違いを正し、ハッキリと説かれた。
いいなあ。素晴らしいなあ。
> 話はわかりやすく、教判はハッキリしなければと思います。
> 相手の間違いを正さず心地よい話ばかりするのは僧侶ではないですね。
> しかし、そういう方が繁盛し多すぎる。
日蓮聖人のように、暖かい心をもって真っ直ぐに法を説くかたは、もう出ないのだろうか?