記事No | : 1534 |
タイトル | : Re^2: 「一遍上人」。。。だから何? |
投稿日 | : 2012/05/29(Tue) 12:33:00 |
投稿者 | : 桃青 |
しんのすけさん
コメントありがとうございます。
> 宗教哲学だけでなく、エネルギーや原子力の問題の専門家もそうです。
> 学識だけで何も役立てていない、被災された方々のことなど他人事。
> 学者や官僚達の発想の根底にこの南無阿弥陀仏の一遍上人が「いるのではないか?
> はるか平安の昔から現代まで、日本の文化人共通の思想方法なのではないか?だから、社会が良くならない。
そうなんです。
一遍上人もそうですが、他の名僧高僧伝を聴いていても、時々、すごくもどかしく思うところはそこ!なんですよ。
真理をさとれば、それで終わりなのか。
如来の原語は「タターガタ」です。
これには二つの読み方があり、
「タター・ガタ」(如にゆける者、真実に至れる者。)であり、
「タター・アーガタ」(如に来れる者、真如より来れる者)なのですよね。
大乗仏教では、「仏は衆生救済の為にこの世に姿を現して人々を救い(如来)、救い終わって去って行く(如去)」と説きます。
法華経は仏に成れる教えだ。と説くのなら、如へ行ったきりではダメなのです。
救わないとダメなのです。
真理を得たのなら、そこに留まってはダメなのです。
私はねー。前にも書きましたが、一遍上人のように真理(空、無自性)を得られかたは、世間のひとが思っている以上にそこここに沢山おられると見ています。
でも、意外に何もなさらない。
中国の簡体字の愛の字には、心がありません。
「ダカラ、中国人の愛には心ナイネー。」
と、中国人は半分真面目な冗談を言いますが、
真理を得ても、仏菩薩の心が無い!
いや、あるはずですね。一念三千ですから。
でも、見えないのですよ。
阿弥陀の本願と言いますが、衆生に真理を得させることだけが、往生させることだけが、本願なのですか?
如から衆生の元へ帰って来なくて良いのですか?
衆生を苦から救済したいと願って法を説かれた釈迦の本意は、どうなったのでしょう?