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記事No : 1683
タイトル 選択の自由と自己責任
投稿日: 2012/10/02(Tue) 12:46:02
投稿者桃青

「選択がそのひとの運命をつくる。」
「運命とは選択なのだ。」

と、言う言葉が指し示すのは

その人の受ける全ての結果は、そのひとの選びによってもたらされたものだ。
という某M教的自己責任の考え方です。

本当に、全ての結果は、自分の選びによってもたらされたものでしょうか?
望むような結果とならなかったのは、自分の選択が間違っていたからでしょうか?
本当にそうなのでしょうか?

まずは、「選ぶ」ということを見てみましょう。

選ぶと言うからには、選ぶ対象があってのことでしょう。
選ぶ対象は、どのようにして「そこ」にあるのでしょう?

そこにある以外の対象が本当は他にもあって、それを知っていたら、そちらを選んだかもしれないでしょう。
どんなに選択肢を並べられても、そういうことです。
常に、知っていたらそちらを選んだかもしれない選択肢はあるかもしれない。
つまり、我々は、常に、自分が選んだわけでは無い対象が並んでいる中から、しか選択ができない。
たまたま自分の狭い視野に入ってきた選択肢から選んでいるだけなのに、
「運命は自分の選びの結果」など、おこがましいですよ。


また、眼の前の選択肢が、自分の意思だけでは選べない巧妙な仕組みになっていることもあります。
実は、こういう例は社会には多いのです。
こういう場合、その巧妙な仕組みを作った側が、
「いくらでも選ぶチャンスを与えたのに、チャンスを生かせなかったあなたが悪い。」
と、言いたてることもあります。
こういう場合「運命とは選択だ。」ということしか頭にないと、そのずるい者がつくった巧妙な仕組みに気付かないということもありますよ。
気が付かなければ、巧妙な仕組みを作った狡い者達の思うがままですね。


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