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記事No : 1687
タイトル 全ては選びの結果、という単純因果律
投稿日: 2012/10/05(Fri) 11:34:02
投稿者桃青

某M教徒が大好きなモノの見方に、
「全ては自分の選びの結果」
というものがあります。

彼らとやりとりしていると、この言葉がいろんな場面に出て来ます。
またはっきりと言わないまでも、言動の背景に「全ては選びの結果
」という思想が読みとれることもあります。

某大統領候補のオフレコ発言が、問題になりましたが、
あれも、
下層が下層であるのは、彼らの選びの結果である。
すなわち「彼らが望む結果を得られなかったのは、選択を誤ったか、あるいは努力しなければいけない時に努力しないほうを選んだから。」
という某教会員らしいモノの見方が見てとれます。
もっとも某M教会員ばかりでなく、アメリカ人には、そういうモノの見方をするひとが圧倒的に多そうですが・・・。

「全ては選びの結果」
これもまた単純な因果律です。
個人の身の上に起きる事どもは、全てそのひとの選びに帰着できると言う点で、便利で、解りやすく、しかも、話が
「ああすれば、こうなる。」「AならばB」
「こうなったのは、ああしたからだ。」「BなのはAだったからだ。」
という単純な因果律に乗っているので、論理的破綻がない。
なので、いったんそこに嵌ると抜け出せない。

抜け出すには、現実の出来事をひたすら観察して、
「いや、そうなったのは選びの結果ばかりでないぞ。」
と、言うことに気付いて行くしかないのですが、頭から
「選びの結果である。」と、思いこんでいると、なかなか、気付かないのですね。
気付かない、というより、「本人の選びの結果」に帰着できない出来事を見ても、頭の中で、「選びの結果」のストーリーを拵え上げて、現実の出来事と辻褄を合せて、「やっぱり選びの結果だわ。」と、納得してしまう。

また、「選びの結果だけではない。」と、気付いても、
「選びの結果にしておいたほうが、都合が良い。」
と、いうひともいて、そういうひとほど
「選びの結果だ。」と声高に言い立てるということもあります。


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