記事No | : 1724 |
タイトル | : 治ると信じることが家族の役目 |
投稿日 | : 2012/11/06(Tue) 10:54:15 |
投稿者 | : 桃青 |
亡くなったひとを被告として裁判を起こしたことがあった。
こちらもすぐに、裁判ということではなかったのだが、相手に話に行ってくれたかたの
「とうてい話し合いのできるひとでも一家でもない。
これ以上は警察とも連絡をとり、裁判にしたほうがよいかもしれない。」
と、いう御意見もあり、裁判を起こしたのだが、結局、第一審の判決がでるまでに10年かかってしまった。
今、振り返ってみれば、そのひとも、そのひとの家族の何人かも、ボーダーライン、あるいは神経症だったのだろうと解る。
また、そのひとの家族の中には糖尿病のひとも何人かいたのだが、現在、糖尿病と精神病との間には何らかの相関関係があるらしい。という見方も出てきているようだ。
このひとと関わったお陰で、私は一生行くことがないであろうと思っていた、警察署の中で話をきかれ、裁判所の証言台にも立ち、精神病の勉強もすることになった。
が、そのようなことがなければ、これほど熱心に法華経、仏教を求めなかったのではないか、とも思う。
精神病の勉強をする一環として、精神病のMLに参加していたことがある。
そこに参加していた精神科の医師が、繰り返し
「家族の役目は、必ず治る、と信じることです。
いいかえれば、家族ができることはそれしかありません。」
と、書いていた。
私は、「精神病は、治る、ではなく、本人も、周囲も、どのように病気と付き合っていくか、その方法を見つけて行く。」
が、現実的対処法ではないのか?
と、理解していて、現在もその理解は変わっていない。
私のように理解している精神科医もおられて、私のような考え方を「ノーマライゼーションというのだが、その考え方は、患者にも家族にも人気がない。」
と、教えていただいた。
確かに、そのMLでは、
「治ると信じることが家族の役目」
という考え方が家族にも本人にも、すんなりと受け入れられていて
悲しい出来事があるごとに
「でも、必ず治ると信じることが家族の役目ですから、治ると信じて頑張りましょうね。」
と、互いに励まし合って悲しく辛い症状に耐えておられた。
現在では、その当時よりも、精神科領域での治験も薬物も多くなり、どちらかというとノーマライゼーション的考え方のほうが、広まっているように見えるのだがどうなのだろう?
「治ると信じることが家族の役目。
家族にできることは、治ると信じることだけです。」
こちらも、今、振り返ってみると、その心情だけを見れば
それは、「私もあのひとも、あのひとも、いつか、仏に成る。」
と見る心情に、似ているのかも知れない。