記事No | : 2136 |
タイトル | : Re: 感覚鈍磨 |
投稿日 | : 2013/07/03(Wed) 09:53:59 |
投稿者 | : 桃青 |
感覚が鈍磨すると、さすがにうんこ祭りはこたえるが、大洪水くらいは「あらま、しちゃったのねー。」と、何も感じない。
股間にぷらん、とぶら下がったもっこりリハパンなどちょろい、ちょろい。
などなど、これ以上は母の名誉のために書けませんが、ま、そういうことです。
介護度1から3あたりまでの母の様子は、母が正気であれば、公表されることにとても耐えられないでしょうから、その全ては書けませんし、実生活でも、介護認定を受けるための聞きとり調査以外では、全てを話したことがありません。
これは、私ばかりでなく、おそらく御家族のかたの多くは、そうでないかと思うのも、体験してみて見えてきたものの一つです。
垂れ流される大小便と格闘していたころは、
「「お母さんはわざわざ認知症になってまで、あなたに法華経を受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
と、力説されると、腹が立ったものですが、
感覚が鈍磨した今は、この言葉がどこか遠いところで語られているように聞こえ、この言葉に対する感覚も鈍磨したのではないかと思われるのです。