不登校問題
不登校問題 体験記
環境省自然大好きクラブ員 阪本 慶二 (自称 自然思人)
揺らぐ心に呼びかけ ためらいの記し始め 記し辛い体験
きっと 幾人かの役に立つと自負して記す
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揺らぐ心に呼びかけ 本文
前編 立ち直りの道
◎ ためらいの記 記し辛い体験
心の揺らぎ乱れを直し、正す呼び掛けをするとき、経験を基にして、揺らぎ
を詳らかにし、直してきた経緯を説けば、よりよく理解し、応えてくれるだろ う。
私は、小学生のとき長期欠席に追いやられ、進学受験では最初に落とさ
れ、二回目には不合格の瀬戸際に立たされ、高校生のとき、学校を辞めよ うと決心させられ、都会の宿所から故郷へ帰る山間の道で思い直した。
その間にも心が揺らぐことが幾つもあって重なり、そのとき、惨めな想い、
心の傷み、隠れ泣きが見過ごされるのが続くと、反発に変わり、僻み強くな り、人を蔑み苛めてみたくなり、同級生を苛めて殴ってしまった。それは、た った一度だったが、悔いは幾十年も続いている。
このように惨めで悔いを残してきた青少年時を過ごしてきた人は少なく、か
つての心模様とそれを直し正したいが出来なく、もがいていたことなどを気 兼ねなく話し合える人は居なく。なお、乱れ悔い心を人に知られたくなく、長 い間、黙り、心の奥深くに閉じ込めていた。
このように苛まれ、惨めだったり、悔いたことなどを忘れてしまいたい人が
他にも居るだろう。原爆や震災に合った惨状を思い出したくない方々が居る だろう。
しかし、今、子供たちの苛めや不登校問題など、心の揺らぎで生じる傷まし
いことが多く、成人の間でも心の持ち方の問題が多く起きている。幾歳でも 心が揺らぎ、直さなければならないときがある。
私のような体験をしてきた人は少ない。その体験を明かす必要があるとき
かも知れない。しかし、余計なことと見過ごされるかも知れないと迷っていた とき、私の祖父が、私が二十歳前のころ、私に、こぼしていたことを思い出 した。
◎ 世の様がよう見えてくる歳 ワーズワースの後押し
その、おりおりに、こぼしていたことを、振り返って、繋ぎ合わせると、おお
よそ、次
のようだった。
「長いこと生きとったらな、勘定はうとなっても世の様がよう見えてくるんや、
けどな、賢そうにしとつたら、今の若い大人たちや、もの言わへんようにな ってしまう。ちょつと
ぐらい恥かいてもええ歳や思て、ほーけたことでも言うて人が機嫌ようなる
ようにしとつ
たらええんや。けどな、こないせなあかんと、きつう思うことがあったら知ら
ん顔しとつたらあかん、 黙っとらんと確り言わなあかん。そやけど、理屈言 うたらあかん、わしの体験からや言うたら仕方なしやけど聞いてくれくれる。 生きている限りは世の中の役に立とうとせなあかんのや」
それを聞いて、祖父から見たら若い大人たちに向かって言えない愚痴を、
私に、言い聞かせているな、と思いながら聞いていた。 そのようなことも、 長い間、忘れていたのだが、近頃の世の様を、これは、これはと心を痛め ながらみせつけられているうちに思いだしたのである。
そして、このさい、かつての祖父を追って、恥をかいても、くどいと思われて
もよい、黙っとらんと、体験をとおして言わなければならない、と、自分を励 まし、それに、世界的自然詩人としてよく知られているワーズワースの詩に 後押しされて明かす気になったのである。 このように、自分では思いつめ て明かす「この記」なのだが、これまで、ことなく、世をすごしてきた人々が 一見すると、きっと、
「たいしたことではない。秘めたり隠したりするほどのことではない」
と軽々しくみて言うだろう。だが、私は、これまで、明かしたくなかった。その
ような心情は、時代や世情には関係なく、同じだろう。
◎ 恩人の木 ことの起こり(詳細前期)
その、問題を生じた原因から。
私は、三歳のとき火傷をした。そのとき、私を助けてくれた兄の後ろに見
えない陰の手があって炎の中から救い出されたとのこと。しかし、重症で医 師に見捨てられたとのことだが、あきらめなかった母はキワダと言う木の皮 を剥ぎ、粉にして私の傷につけ一命をとり止めたと言う。その木を母は、
「お前の恩人の木」
として私に教えてくれた。
◎ 新入一年生の喜び 隠れた不具合
一命を取り止めたのだが、右手の甲一面に焼け爛れ痕が醜く残り、、小
指は屈曲し薬指は半曲がりになってしまったとのこと。
その後、大阪北浜に有った松岡病院に入院、火傷痕の一部に太腿の皮
膚を移植して帰宅したが、醜い焼け爛れは残り小指は「コ」の字形に曲がり 薬指も半曲がりのまま、右手全体を包帯し、首から吊るしていたから、右手 小指薬指が、使えなくなり邪魔になり、しかも、利き手が力不足で鈍感にな っていたとのこと。
でも、その不具合は、手を握り締め、手の甲を伏せると認め難く、一見、
正常な子供と見える状態で小学校に入学したとのこと。どの家庭でも、どの 親子でも、このときの喜びは一入のはずである。我が家でも入学を迎えた ときには他所と変わらずに喜び、私はきっと、はしゃいでいたのだろう。
● 苛め 不登校 傷心の仕掛け人
1 打ち消されていった 新入一年生の喜び 恥じらい 赤面の始まり
しかし、入学してすぐに、朝、全校生徒が運動場に並んでのラジオ体操
で、先生に
「指を曲げるな、伸ばせ」
と言われ、
「曲げているんと違います」
と言って皆に笑われた。
このとき、きっと、顔を赤らめていたのだろう。初めてのショックだった。そ
れまでには、友達との違いを意識していたが恥ずかしいとは思っていなか った。
このとき、入学の喜びが打ち消され始めていたのではないだろうか。なかな
か、忘れられない。このように小学生になって初めて顔を赤らめたことがあ ると思い起こす人は少なくないのではないだろうか。
それから、朝礼と体操を嫌い、雨の日を待っていた。今、振り返ってみる
と、このとき先生か誰かが、
「指を火傷しているの、曲がっているのを気にしないでね」
とか何とか言って、いたわってくれたら、この後、曲がり指を注視されても、
それほど、気にならず、学校嫌いにならず不登校へと向かわなかったので はないだろうか。これが大きな岐路だったのだな、と思う。
このころ、苛めとか不登校とかが問題にされていなかった。それに、私
が、朝礼嫌いになったとき、先生は、私に朝礼を嫌わせ、心を傷めさせるこ とを意図しないで言ったのだし、笑った生徒たちも意図していなかったはず である。
また、先生に
「指を曲げるな、伸ばせ」
と言われただけだったら、おそらく、朝礼嫌いにならなかっただろう。
先生の言に生徒たちの、何等意図しなかった笑いが加わったから朝礼を嫌
い、心を傷めるようになったのである。
だから、自身だけで心を傷めたのだと言われるかも知れない。しかし、心
を傷めた仕掛け人は私ではなかったと言える。
この後、生じた、学校嫌いや不登校、心の傷み、落ち込みについても、仕掛
け人はだれかと疑問視されることが含まれる。
今おきている、いじめ不登校等の問題でも、仕掛け人不明とか、あやふ
やなことが多多あるのではないだろうかと考えさせられ、その参考になるこ とを考慮し、体験を素直に記して、本記を見ていただく方々に判断を任せな ければならない。
この後、授業中に手を開いて上げるときや、黒板に向かって白墨を持って
いる手を皆に見られる。だから、先生に
「黒板に書きなさい」
と言われなようにと、びくびくしている。黒板に書くのは国語のときが多かっ
たから、国語授業が苦になった。
そのころには、先生の教示についてとやかく言う人はいなかったし、先生
は。国語を苦にさせようと意図していなかった。国語嫌いの仕掛け人ではな かった。しかし、今だったら一種の「苛めだ」と言う人が居るかも知れない が。
それに、傷跡は皮膚が弱く感覚が鈍くなっているから、ノートと擦れると、
痛まずに皮膚が破れ、知らないうちに、血が出て教科書やノート、服を汚 し、皆に注視される。これも、恥ずかしいことである。
しかし、血が出ただけでは恥ずかしくは無く、皆から注視されるから恥ず
かしくなるのである。
2 躓きの重なり 突き指を隠す
次に、指を使って数を数えるのにぶつかり、皆と同じにできないから、算
数の時間が苦になった。
それから、皆が、はしゃぎ合う遊び、ドッチボールやキャッチボールのとき
にも知らないうちに傷跡から血が出てボールに着き、皆に嫌がられる。その ときの恥じらい。それも初めて。
遊びのカルタでは右手隠して左手。ジャンケンをするとき、パーをしたくな
いから皆から外される。水を掬うことがうまくできない。などなど。
さらに、修学が進むと、体操で、ボールを使うときや跳び箱では、よく、突き
指をする。
バトンタッチでも小指にバトンが当たると痛み、バトンを落としてしまう。鉄
棒では、右手指三本の力では旨くいかない。
突き指をしたとき、皆は大っぴらに痛がるのだが、痛がると皆に注視さ
れ、劣っているとさげすまれると思い、黙って痛みを堪えなければならな い。
それに、私は同級生の中で一番痩せッぽちだった。顔が青白いとよく言わ
れていた。三つのときから火傷の療養を続けてきたから虚弱なのは当然だ った。
そういうこともあって体操を嫌い、体操授業がある日には、皆が喜ぶのと
反対に、雨が降ってほしいと思う。
全くできないときよりも皆より劣っているときの無念さ、恥ずかしさ。 これ
も、ものごとを一人だけでやっていて出来ないときは恥ずかしくなく、引け目 も感じない。皆に注視されるから恥ずかしいし、人と比べるから引け目を感 じる。
しかし、皆は、恥ずかしがらせようとか、引け目を感じさせようと意図して
いない。仕掛け人ではない。
しかし、このように、初体験で、引け目を感じ、胸が締まり痛むことが重な
り、学校を嫌いになる原因が重なっていった。幼い胸だから受ける痛みは 大きく、その余韻は幾十年も消えず忘れない。
3 運動会の苛め ズル休みの後ろめたさ 空しい秋祭り
それに、私と付き合いが少ないクラスの生徒から曲り指をやゆされること
もあった。
それやこれやで、小学二年生のとき、秋の運動会の練習が始まったときか
ら仮病を使ってズル休みを始めた。これも、仕掛け人は自分だったと言わ れそうなことなのだが。ボールを使う競技や、リレーのバトンタッチで失敗す るのを恐れていた。
運動会は、十月十六日で、十五日の秋祭りの翌日に決まっていた。だか
ら、祭りを見に行くことができなかった。
村の年中行事中で、子供にとって一番楽しみにしている秋祭りを見ること
ができなかったのは、この年だけだったから、よく覚えている。幾十年も残っ ている。
家の庭先に出て、氏神での賑わいを伺っていた。見に行きたかった。行け
なかった。空しかった。
運動会が終わり、十一月三日の体育祭が終わってから、十一月末ごろま
で休んだ。嘘をついている後ろめたさを感じながらの二ヶ月半は永かった。 忘れられない。
そして、再び学校へ行き始めなければならなかったときのこと。嘘つきを
急に止めるのに、どのように、その場をつくろったのだろうか、覚えていな い。
この大節を越えたことについては、あとに記すが、これを越えることができ
たので、私
の小学生時代に明かりがさしはじめた。幸いだった。越えられなかったら、
私の小学生時代は暗いものだけになっていたのだろうと、今でもときどき振 り返る。
4 不登校対策 傷心 落ち込みの度合い
このように、小学入学から運動会嫌いまでを、最近、振り返ってみて、恥
ずかしさ、引け目、傷心の度合いを考えさせられた。
その弱から強まで。
弱―一人―家族中―親しい人中―衆人中―強、の順になることである。
だから、小学入学朝礼時、全校生徒=衆人の中だったから傷心が強く、運動
会では、バトンタッチの失敗などを恐れていて、それが、なお、多い衆人の 中だから、余計に逃げたかったようである。
このことから、不登校を望む生徒は衆目を逃れて一人になりたくなるのだと
考えさせられる。
だから、不登校を直すには、まず、一人になるのを咎めず、次に親兄弟
が働きかけ、従兄弟たちと付きあわせ、次に友達をつくるように仕向けてい ったら良いのではないだろうか。いやいや、そういうことを記さなくても、教 育専門の先生方は、児童心理学で充分に学んでいるはずである。
● 校長に反論 大問題と小問題 不具合の度合いと明暗 ことの重なり
この、小学一、二年生のことごとを記したものを参考にと、二十校余の小学
校の校長宛てに送ったところ、某女性校長から葉書が来て、「小さいことな のに気にして傷ついたようですね」と記していた。
それで、考えさせられた。私の不具合は右手の局所だけで、右手を握り締
め、手の甲を上手に伏せると人目には認め難いものである。
だから、それによる不具合は小さいこと。それを大げさに記していると見ら
れたよう
でもあり、他の子供だったら気にするほどのことではないとの意見なのか。
そして思った。私が小学入学、朝のラジオ体操のとき、私に、「指を曲げる
な」と言い、
「曲げてるのと違います」
との私の言に答えてくれなかった先生と、この校長は同じだ、この校長の学
校では、不登校寸前の生徒が多く潜在しているな、苛めを受けている子が きっと居ると。そして、さらに、この校長の意向に反論することを含めて記 す。
大きい問題は小さい問題の重なりで生じる。安全を唱えるとき、怪我をす
る危険要因が一つのときは、怪我をしなくても、要因が二つ三つと重なった とき大怪我をすると言う。
また、よく見え、認め得る危険要因は排除され、認め難く、ときに見捨てら
れている要因が重なって怪我のもとになることが多く、そのときまで認めら れなかった要因が怪我が生じて認められると言う、全くである。
心の怪我でも、要因の重なりによるところが大きく、その際、よく認め得る
要因は除くように努められ、認め難く、ともすると見捨てられ勝ちな要因が 重なって怪我のもとになるのだと私は思う。
私の不具合は小学入学時、先生や生徒が、よく認め得るものではなかっ
たから、先生は朝礼で忠告し、並み居る生徒も笑い、それが重なっていた。
それから、国語嫌いや算数嫌いと続いたが、
両授業を受けたのは同時ではなく、前者授業から幾日か経って後者授業を
受けた。
よって重なりではないとみられるだろうが、国語授業での落ち込みが頭の
中に強く残っているときに算数授業で落ち込んだ。だから、私の頭の中では 両者が重なっていた。
一要因が生じたのち、心の持ち直し、立ち
直り、落ち込みの打ち消しというのか、忘れるのに掛かる時間が長く、忘れ
ないうちに次の要因が生じると要因の重なりになっていた。
それが、身体の怪我要因の重なりと、心の怪我要因の重なりの違いであ
る。
● 大人心で計り知れない子供心 計りがたい哀れ、惨めの度合い
更に、前記校長の言に対して言い返したい。若人時の心情・心の傷み
は、成人では計り知れないものだったのだと、今、自分でも思うことを記して おきたい。
五十歳代になって、パソコンを習い始めたときと、教壇に立って学生にコ
ンピューター設計製図を教えるようになったときのことである。まず、パソコ ンを習い始めたとき、小指と薬指が不自由なため、五指を連動させることが できなく、人差し指一本でキーを叩かなければならない。
人々より大きく劣るのと、一本指操作と手の傷跡を見られたくないから、パ
ソコンを習いに行けず、独りで習得しなければならない。
辛く惨めな想いをして、この歳でもこの想い、だから、小中学生のときに
は、今の幾倍もの辛さ.惨めさだったのだな、と我が若年時の哀れさを、つ とに、強く感じた。なのに、手が健常な人が一本指でキー操作をするとき、 操作をする人は、笑いながら、
「手始めだから笑わないで」
と言い。見ている人は、
「みんな同じよ」
と言いながら見ている。利き手が健常な人々だから笑いあえる。そうでない
人の、羨んでいる心情は分からないのは当然である。そのような、羨ましさ も、若年時には、今の数倍だったのだろう。
次に、コンピューター設計製図を修得し、教壇に立って学生に教えるよう
になったとき、右手で黒板に書くとき、火傷跡を学生に見られないようにす る工夫と気苦労。
それを、五十歳代になってしてみて、小学生のとき皆の目を意識しながら黒
板に書くときの辛さ恥ずかしさは今の幾倍だったのだろうかと、思ったので ある。
このほか、利き手を気兼ねなく働かせている人々は、きっと、実感していな
いだろうとのことを私は、幼いころから多く実感してきている。
◎ 些細な不具合 だが顔に次ぐ利き手
その幾つかを記しておかなければならない。そうしないと、体が健常な先
生方や人々が、子供たちの些細な不具合をみつけたとき、きっと見捨てて しまうに違いないから。利き手を、人前に、よく出す。人前で目立つのは、顔 の次に利き手の様子と動きである。
言葉に代わって表現するのも顔の次である。だから、私は、幼いころか
ら、ずっと、今でも人前で、箸やペンを持つときは右手の甲を見せないよう にし、湯呑みやコップなどを左手で持ったり、パソコンのキーを一本指で叩 くのを人に見せない。
若いとき、利き手の様子と働きを害され、人並みに思いどおりに出来なか
ったこと、また、人前で恥をかいて顔を赤くするようなことが小学生のころか ら、度々あり、それによって、心を害してゆき、乱れたり恥じたりしたのが残 り続けていて、今では、そのときほどではないが、人が、私の手に目をやる のを気遣って、目を背けるのを見たくない。
それに、手の感覚の善し悪しが手の反射的な働き、反応に影響を及ぼし
ていることと、体で覚えることのうちで、利き手で覚えることが、いかに多い か、それに手の感覚が、い
かに寄与しているのかを実感してきている。 小学生のころ、鈍っていた感
覚が、次第に良くなるにつれて働きも艮くなっていったことを知っているから である。そういうことが無かった人々は、手の感覚の主なものは、手を火に かざして暖をとる。手触りで物の温度や硬さを知るなどのことだとしている のではないだろうか。
◎ ちっちゃな小指の働き 特殊事情
また、小指や薬指の不具合は、五指を使って物を持つときにだけ差障ると
みられるだろうが、箸やベンを持つとき、人指指中指の力を大きく補ってい る。 などなどで、たいしたことではないようにみられるが、私の利き手の使 い勝手は、小学生のころには、健常な人の三分の一ぐらいで今でも半分ぐ らいである。
それが基で起きたことと、そのときの心情などを記すと、健常な人々から、
「取り上げるほどの問題ではない」
という意見と、
「特殊事情をもとにしてのことは総て別にしなければならない」
との客観的な意見がでるだろう。
だか、私は、体験から、原因は特殊だが、そのときの心情は特殊ではなく
ほかの原因によるものと同じだとみている。
それから、前にも記したが、大きい問題は 小さい問題の重なりであり、
小さい問題を一つ一つ、根よく解いてゆくことで、大きい問題を解くことがで きると考えている。
しかし、重なっていることの一つ一つが、常日頃の常識的な目立たないこ
とばかりのときには、重なりを考えてみようとはさせられない。
このように、体が傷ついていることについて記したが、健常な子たちの間
でも発育時には、各々の身体機能の発達の度合がちぐはぐで、ときに、こと ごとによって、人それぞれに出来、不出来が生じる。
それは、知能の面でも同じで、成人は、それぞれの多面をみることができ
て、一点だけの出来不出来を、あまり、気にとめなくなるが、少年時には、 自分が劣ると思う面が心を領してしまい、引け目を感じることがあるのだ と、私はみている。
● 不登校 隠れ泣きー泣き止みー苛めへ
そのようなときの若人の心模様を一言では現し難い。
とにかく、活気、勇気、強気、生気等の反対といえるから、落ち込み、弱気、
引け目、気後れ、ふさぎこみ、惨めな想い、などと言うことができる。
このように種々現したのは、そのときどき、その場その場での違いがあり、
また、人それぞれで、私と受けとめ方の違いがあるとみられるからである。
なお、私の場合は、年齢によっての違いがあった。小学一、二年生のころ
には、落ち込
みだけ。学年が上がってゆくにつれて惨めな想いが加わり、隠れて泣き始
めた。親に言え
ばよかったのにと、ことが無かった人は言うだろうが。
負い目な惨めな想い、隠れて泣かなければならないことを人に言いたくな
い。今でも、言う必要が無ければ言いたくない。隠しておきたいのである。 親や兄弟にも言いたくなかった。親や兄弟は私を可哀相な子とみてくれて いた。その上に、悲しがらせたくなかった。それほどに思わせ続けてきた子 供のときの 心模様だが、私だけのこと。人々は知りたぐないだろうと思い ながら、記しておこうとしている。なかなか分かってもらえない心模様だっ た。
それから、ずっと後のことだが。小学卒業前から中学入学のころには、泣
き止み、惨めな思いを跳ねかえそうとし、人を蔑んだり傷めてみたくもなっ ていった。それから「いじめ」へと曲っていき、同級生の平松君を殴ってしま った。
その詳しいことは、ずっと後に記すことにして、落ち込み、隠れ泣きのころ
に戻っての記。
◎ NHKに提言 見つめないで
この落ち込みなどは心情の乱れ。惨めな想いや僻み、人を蔑みたくなる
のは荒みだと、その正否を質さず、自身だけで受けとめている。そして、重 ねて記そう。そのような心模様を人に知られないように、心を覗かれないよ うにと警戒し、隠そうとして神経を異常に尖らせ、ふれられたり見つめられ るのを異常に嫌っていた。
前に記している私の体験。私の傷跡は皮膚が弱く感覚が鈍くなっている
から、ノートと擦れると、痛まずに皮膚が破れ、知らないうちに、血が出て教 科書やノート、服を汚し、皆に注視される。これも、恥ずかしいことである。
しかし、血が出ただけでは恥ずかしくは無く、皆から注視されたから恥ず
かしくなった。
なのに、テレビや新聞が不登校生徒のことを取り上げているなかで、無神
経に注視しているとみられることが多いゆえ、忠告しておきたく。新聞社や 放送局に
「登校拒否児」
と言うような、その子たちが言われたくない言い方を止めるように、その子
たちに人々の視線を殊更に集めるような言い方、報道を止めてほしいと書 き送った。
それだけではなかったのだろうが、最近、言い方や扱い方が変わってき
た。良いことである。
● 乗り越えの努力
なお、落ち込みから素直に立ち直りたい望み、これも、くじけないとか打ち
勝ちたい、惨めな想いをしたくない、気を晴らしたい、胸が修まっていたいと も言えるのだが、そのような望みを常にもっていた。私だけではないだろう から、これも、見逃さないようにと、強く言いたい。
小学一、二年生のときにも、望んでいた。水をうまく掬えるように工夫し、
三本の指で鉄棒をうまく出来るようになり、黒板に書くときには右手を握り 締め、傾けて傷をうまく隠すようになっていった。
◎ その場では気付かない 諌め 労わり 力添え
以上、小学二年生での大節と、小学低学年での幾つかの小節。それか
ら、ずっと後の二つの大節で、落ち込み、立ち直ったときのことを顧みると、 ゆらぐ心を直したい望みを支え強める力添えや、いたわり、諌めを周りのも のや人々から受けて直ったときがあった。
なのに、そのときは気付かなく、いつも、自分が望むだけで直したのだと
思っていた。周りからの支えなどのなかには、知識でもっての受け渡しでは ないことがあり、受けた場では気付かなく、のちに顧みてこそ、想い及べる ものであった。
表立たない「力添え」「いたわり」。慈母が為す「諌め」とでもいうのが相応
しいと、のちに、思い至ったことごとが沢山あった。全部を書くのは大変だか ら、そのうちの幾つか。
◎ 立ち直り その一 クヨクヨ 苛苛が無くなる所
小学二年生で仮病を使ってズル休みをしたとき、家が留守のときは床を
抜け出し、裏山に登った。家の裏から畠傍の道を百メートルばかり登り、雑 木林に入って、また、百メートルばかり登った所に草原があり、そこから 家々は見えず、山の中を感じる所だった。
人目がなく、だれにも見られずに大手を振って胸も氣も晴らせる所だっ
た。ここで、この後も含めて幾度か大声を上げて泣いたときがあった。
そのころ、母だったか姉だったかが、
「山へ行くと、ちよっとの間、クヨクヨが無くなるし、苛々が修まる」
というような意味のことを言っていた。それで、行ったのかも知れない。それ
に、聞いていたためになったのかも知れないが、山では、気後れなどが遠 のかされ、クヨクヨが無くなっていった。
そのことを、小学二年生のとき、その場では、はっきりとは意識していなく
て、ずっとのちになってから、あのとき、あそこで気持ちが変わっていったの だと気付いたのだが。
それに、家族の者は、私が、ずる休みをしているのに気付いていた。それ
を私は感じとっていた。なのに、皆は何も言わず、そっとしておいてくれた。
私は、皆の「いたわり」を感じ、それに、応えなければならないような気にな
り、心を立て直して学校へ行き始めた。この、小学二生のときのことをはっ きり覚えている。このことを、関わりのない方々に話すと、きっと、
「大したことではないのに長く覚えているのは不思議」
と言うだろう。だが、当人は、ずる休みする後ろめたさ、長い間、嘘をつき続
けなければならない惨めな思いを二度としたくないと心に刻んだから、この ときに登った裏山のことも含めて忘れない。 この後、三年生のとき、やは り、運動会の練習を嫌って一週間ぐらい休んだが、運動会は休まなかっ た。二年生のときの後ろめたさなどを思い出していたのだろう。
四年生のときも、運動会前、練習が苦痛だったが、学校を休まず辛抱して
いた。 その間、裏山に幾十回登ったことか、恥ずかしさを無くしに憂さを晴 らしに泣きに心を立て直しに。そして、五年生のころから、苦痛は少なくなっ ていった。
◎ 恩人の木と山
そのように、私の心を直し正してくれた裏山を恩人の山として覚えている。
このように、木や山を恩人と呼ぶように仕向けたのは母である。
前に少し記したが、母は、私が火傷で医師に見放されたとき、キワダと言
う木の皮を薬にして私の一命を取り止め、その木を「お前の恩人」と言って 聞かせた。そのような言い方を受け継いで、木と同じように私を助けてくれ た裏山を恩人の山として覚えている。落ち込んだとき、何十回も登り。心を 立て直してきた。その様子を書くと長くなる。よって、ごく最近、恩人の山を 思い出し、
「山は招く」
と題して詠った詩を記す。
春だった
君は目尻をちょつと下げながら登ってきた
新学期だね 知らないことに
ぶつかるのが怖いの
物憂なの
息をと切らせながら
咲き誇る桜をめざしてきた
たどり着き
花を仰いで しばらく
山茶花の葉を千切り
草笛を吹き
鼻歌を歌い始めた
歌いながら山つつじの傍に行き
ひととき眺め
目を正し
かすむ山々 かすむ空を見渡し
ちょうをみつけて瞳を大きく聞き
手を伸ばし 背を伸ばした
逃げるちょうを次々追って
跳ね走り 谷に下りて笹舟を浮かべた
君は 清い水を瞳にうつし
口笛を吹きながら帰って行ったね
夏だった
君は目をちょっとしかめながら登ってきた
くやしいことがあったの
笑われたの 恥ずかしかったの
息をと切らせながら
濃く茂る木をめざしてきた
たどり着き
茂りを仰いで しばらく
笹の葉を千切り
草笛を吹き
鼻歌を歌い始めた
歌いながら 猿すべりの傍に行き
ひととき 眺め
目を正し
緑の山々 茂る林を見渡し
せみをみつけて瞳を大きく聞き
手を伸ばし 背を伸ばした
逃げるせみを次々迫って木から木へ
谷に下りて水を浴びた
君は 清い水に瞳を清められ
口笛を吹きながら帰って行ったね
秋だった
君は
目をちょっと伏せながら登ってきた
また 運動会が嫌なの 休みたいの
息をと切らせながら
赤いもみじをめざしてきた
たどり着き
紅葉を仰いで しばらく
色付いた落ち葉を拾い
草笛を吹き
鼻歌を歌い始めた
歌いながら楓の傍に行き
ひととき 眺め
目を正し
紅葉の山々 青空を見渡し
赤とんぼをみつけて瞳を大きく開き
手を伸ばし 背を伸ばした
逃げる とんぼを次々迫って跳ね走り
谷に下りて小魚をすくった
君は 清い水を心にうつし
口笛を吹きながら帰って行ったね
今 また そうしてみたい
と思うときがあるのではないの
だったら おいで
毎週でも 毎月でも
◎ 石投げ
兄は、私によく石を投げさせた。のち、私が、体力検査で良い成績をとっ
たとき兄は私ごとのように喜んでくれた。 それで、兄は黙って、私の弱い右 手を鍛えてやろうとしていてくれたのだということが分かり、嬉しかった。こ れから、兄や家族に心配をかけないようにしようと思い直した。
それに、祖父は私の良い面を見い出して話し掛けてくれていた。悪い面に
気をとられる
のを少なくしてやろうとしていてくれたのだろう。
◎ 失敗を許してくれた同級生 子供たち よく聞いて
確か、小学四年生での運動会前だった。一年生のときから、ずっと隣り合
って机に座っていた福岡君が教えてくれた。おおよそ、次のようだった。
「校長先生が内に来て、おとさんに話したそうだよ。学校で体操が嫌いな子
が居て困る。できんでもええから嫌わんだらええんやが、と言うとつたそう や。君のことと違うか、バトンタッチなんかで失敗してわしらの学級が負けて も皆は怒ってないで」
と。
福岡君は、私と一年生のときから並んで机に座っていて、私をかばってく
れた。火傷痕が破れて血が出ているのを知らないでいるときには、そっと、 よく、教えてくれた。クラスで一番の友達だった。
校長は、それを知っていたはず。校長の言葉が私に伝わることを意識し
て、福岡君の父に話したのではないだろうか。
福岡君の父は校長の意を汲み取って福岡君に伝え、福岡君も同じくして、
なお、同級生の意向を沿えて私に忠告してくれたのではないだろうか。校 長と福岡君の父、福岡君の思いやりは忘れられない。
それから、同級生のことについて、私の僻み心だったのだろうが、十二名
の同級生は一年生のときには、私の火傷痕が物珍しく注視し、私の失敗や 不始末を凝視している、と私は感じていた。
私が二年生で二カ月半ばかり学校を休んで、また、学校へ行き始めたこ
ろから、同級生たちは私の失敗や不始末を注視しないようにしてくれていた し、かばってくれているな、と、私が感じることが切りなくあった。
今、省みてみると、同級生たちは一年のときには私の火傷痕が物珍しく、
私の恥ずかしさと落ち込みに気付かず。そのうちに、私の心情に気付き、 恥ずかしさと落ち込みを起こさないようにしてくれるようになっていたのだ と、私は思う。
そのようにしてくれるのを感じるのが強くなったのは、学校を休んで再び
行きはじめたころからだった。
再び学校へ行こうとせずに休み続けていたら、そのような同級生のことを
知らずに休み続けてしまって不登校生になってしまっていたのだろう。 そ のような、同級生たちの、口に出さない
で、思わせぶらない、いたわりを私は感じとっていた。僻んだりしないように
しようと思わせてくれていた同級生の思いやりを、なかなか忘れない。この こと、今の子供たちに、よくよく言い聞かせてやりたい。
● 直ぐい気持ちになりたい
前にも記したが、同級生と出会った一年生のころ、私は一番痩せッぽち
で、顔が青白いと言われ、火傷の療養を続けてきたから虚弱だった。利き 手不具合の劣りに、青白、虚弱の劣り、それに、小学二年生でズル休みの 劣りが加わり三つの劣りを感じていた。
しかし、反面、劣りを嫌い、捻くれを嫌い直ぐい気持ちになりたいと思って
いた。何かで人に勝ちたかった。勉強で頑張った。
二年生学年末の試験で全科目十点を取り、クラス一番になった。そのと
き、祖父や父母は、顔を綻ばせて喜んでくれた。私の成績と心模様を見て 喜んだのだろう。今でも覚えている。
それを見て、嬉しく、劣り僻みを捨てていこうとするようになった。自分の他
の面に目を向けていった。
自分が勝り誇れるものがあった。手を使う鉄棒やボール競技は人に劣る
が、足を使って走ったり飛んだりするのは人に負けない。それが分かり、友 達にも認められるようになり、気強くなっていった。
成績は三年生でも首位を続け、劣りを頭の隅に追いやろうとしていた。そ
して四年生のとき、福岡君が校長の話と同級生の意向を伝えてくれた。だ から、運動会や体操を嫌ってはいけない。手の不具合を恥じるのを同級生 の前では止めようと思うようになった。五年生のときには、成績を誇ることで 劣り意識を押し伏せようとしていた。
体力を付けるのにも頑張った。同級生の辻本君は相撲が好きだった。五
年生になってから、昼休みには弁当を鵜呑みの様にして早く食べ、廊下に 出て、辻本君と、毎日毎日相撲をとった。このころ、学校へ行き来する道は 二キロばかりであった。毎日の通学で足が鍛えられた。 家に帰ると、一級 上の上西君と歩き回った。運動会を嫌わず、騎馬戦の前馬の役をした。棒 倒しには一番力づくの役をした。このように、修学してゆく内に初体験が少 なくなり、もし、出くわしても乗り越える力がつき、くじけないようにしよう、直 ぐい気持ちで居たいとする方が勝っていった。
◎ 直ぐい心は目蜂子を治した
ここで、ちょっと、前に戻って記しておかなければならないことがある。
三年生の期末のころだった。右目下瞼にピンク色のできものができて、母
は目蜂子だと言い、柘植の櫛を炙って、できものを焼いたり、ホウ酸を湯に 溶かした液を使ってシップをしてくれた。
虚弱でもあり右肩が凝っていた。子供なのに、母に肩を揉んでもらった。
なかなか治らず上下瞼が膨らみ、四年生の秋ころまでかかって、ようやく治 った。福岡君が、校長が言ったことを伝えてくれたころだったように思う。そ のとき、右手が軽くなったと感じていた。
それまで、低学年のころ右手に神経が集中緊張していて重く感じていたよ
うだった。それに、頭には無様で見られたくない手が刻みついていたようだ った。
それは、学校に行き、皆の目を感じると強くなり、家に帰ると弱まる。それ
から、山に登ると感じなくなる。
それを、低学年のころには意識していなかったが、学校に居て、家に帰
り、山に登りを繰り返し、負けないように勝っていこうとしているうちに分か ってきた。
それから、体操苦、算数苦も学校に居るときだけのことで帰れば薄れる。
苦が強く、帰っても薄れが少ない時には山に登れば直ると思い、苦を乗り 越えて勝とう直ぐい気持ちになろうとしていた。それと目蜂子が治ったのは 無関係ではなかったように思う。そして、割合、苦少なく、五、六年生を越え て進学受験のときになった。
世相のいじめ その一
世相のいじめという表現は、良しと認めてくれる人は、きっと、少ないだろ
うと思うのだが、この際、私は、このように表現したい。
今の、平和な世では目立たず、見逃しているのかも知れないことの参考
に、戦時という世情の違いが明らかなもとで起きたことを記しておきたい。
日中戦争の最中、都会へ行き、中学校を受けたとき、身体検査で医師に
不的確だと言わ
れた。私はひがみ、ひねくれた。
受験に付き添って来ていた父は、私を慰めたりはしないで、
「明日、医師の所へ行こう」
と言った。
翌朝、電車に乗り、吊り輪を持とうとし、慌てて、右手をポケットに隠した。
周りの人が私の手を見たがっていると思ったのである。それから、幾十年 も右手で吊り輪を持たないようにしていたから、このときのことを、よく覚え ている。
医院に着き、父は私を待合室に待たせて診察室に入り、医師に私の生い
立ちなどを話し、最後に、
「あの子は体に傷がありますが、心に傷はありません。曇はありません」
と言った。
父は、私に聞かせないようにと、私を待合室で待たせていたのだろうが。
私は聞き耳を立てていたから聞き取った。 このとき、私は、僻みひねくれ ているのは心の傷だ曇りだと感じ、恥ずかしくなり、反省した。この、父の為 しようと言は私の心を大きく支え続けてくれている。
このとき、もし、父が私に向かって、私の心のありかたを、とやかく言った
ら、私の僻みとひねくれ・心の傷は一生無くならなかっただろう。
なお、このときから、心は常に晴れていたいのだとのことを、はっきり意識
し始めたので、この場でのことを総て覚えている。
とにかく、合格した。不合格になっていたら、惨めな思いを跳ねかえそうと
し、人を蔑み傷める方へ向かっていたのかも知れない。
世相のいじめ その二 自己嫌悪
第二次世界戦争が始まった翌年、中学校で軍事教練の視察があり、視察
将校の閲兵を受けた。私は、クラス二百名ばかりの隊を指揮して力強く行 進し閲兵将校に挙手をした。
将校は、私が、指を曲げているとみてとり、叱責して指揮者を変え、閲兵
の受け直しを命じた。
私は、校庭で居並ぶ生徒千人余に注視されて恥を曝した。顔が燃え、足
が浮き、胸がおどった。
私たちの隊は後退させられ、私は、隊の最後部に移され、再び閲兵を受
けた。千余人の目を跳ねのけ、騒ぐ胸を押さえようと体を強張らせて行進し た。
長い行進だった。
このとき、私は人を強く嫌い、人だけではなく、自分をも強く嫌った。強い
強い、自己嫌悪だった。
それは、戦時中という特殊な世情のもとでおきた特殊なことだという人が
居るだろうが、問題は世情により生じたのだが、それにより生じた心情は特 殊ではなく、世情や時代の違いには関係がないだろう。 よって、平和な今 でも、世情による問題が生じているのかも知れないが、世情によるものな のか否か見分けがたいことがあるのかも知れない。 いやいや、きっと有 る、と私はみている。
立ち直りの道 更なる自然観の芽生え 一
翌日、学校を辞めようと決め、故郷へ向かい、都会を離れ、ケーブルウェ
イの終点から山道を、ただ一人歩いた。
山頂の道から山々を見渡しながら二時間ばかり歩き、山腹の森、静かな
杉林の中を走り降り、川沿いの道で穏やかな流れを見ながら歩いているう ちに、
「学校を辞めるほどのことではない」
と思い直したのである。
このときの、山河の印象が長く残り、これに積み重ねて考えさせられるこ
とごとが次々に生じていった。自然への関心の高まりのもとは、このときだ ったのだが、その場では思い至らなかった。
◎ 苛め十秒 悔い永く辛く
記したくないことだが、本記の趣旨を想うとき、記さなければならない。
前記の閲兵で、この上なくわが身を恥じたのは秋だった。 その年の暮れ 同級生の平松君を殴ってしまった。彼はおとなしく真面目で教師の受けが 良かった。
いつの世でも、いつの若者たちのうちにも「やっかみ」連中が居る。 何の
授業だったのか覚えていないのだが、教師が平松君を称え、皆に見習えと いうようなことを言った。
授業が終わり教師が去ると、やっかみ連中の鬱憤、呟きが高まっていっ
た。そしてたれかが、
「級長、一人だけでええかっこするのを止めさせよ」
というような意味のことを言った。私は級長だった。つい、煽てに乗り、そ
れに、過日、わが身を恥じた反動や僻みも手伝って平松君を殴ってしまっ た。
そのとき、平松君に同情していた者も居て、私の行動を非難する態度をと
った。私は悔いた。その悔いは残り、卒業して何十年も同窓生と年賀状を やり取りしていて、そのなかの彼の年賀状を見るたびに悔い、一度謝りの 手紙を出そうと思ったり、いまさらと止めたりしている。
殴ったのは数秒。その悔いが幾十年も残っている。その悔いの永さ辛さを
知ってもらいたくて記すことにした。
●やっときた(きっとくる 成長し乗り越えていくとき
そのように永く悔いているのは今。それを差し置いて前に戻り、悔いを生
じた学校を卒業し、さらに進学試験を受けた。このときにも最後に医師の検 診があったが戦争たけなわのころで、乱雑であった。医師が何人か居て、 各医師目当てに受験生が並んでいて、次々に検診を受ける。
私が診てもらう医師の列とは違う医師の列に並んでいて検診が終わった
受験生は、筆記試験のときに私の横に座っていた受験生だった。彼に、私 は右手を見せて、検診を代わって受けてくれるように頼んだ。彼は、あっさ り引き受けて検診を受けてくれたのである。
そして合格した。これまで、幾つかの試練を受けた結果、このような策を
やるようになってしまった。決して良いことではない。しかし、この手の不具 合は勉学には何ら支障にはないのだと己を慰めようとしていた。
しかし、このような苦策をやったため在学中、右手を隠し続けなければら
なくなった。それは後のことで、受験合格直後のとき、故郷へ向かった。
前に通った道に差し掛かり、ここで思い直したから今の自分がある。幸い
だったと辺りの風情を見つめながら歩いた。
そして、あのとき山頂を歩いていて、自分の体や心が萎縮しているのを意
識し始めた。 山腹の森は静かだった。曲りくねった坂道の両側に立ってい る大樹にふれながら走り降、曲り角で木を蹴って体を翻し、繰り返している うちに休も心も弾んでいった。
川沿いの道から見る流れを、いつ見ても変わらない、と見ながら歩いてい
るうちに、騒いでいた胸が修まって終った。
だが、自分だけでそうなったのではないようだ。山河の風情を見ているう
ちに、雰囲気に浸ってゆき、人中とは違う、「何か」を感じて、そのようになっ ていったようだ。よくは分からないが、とにかく良かったと振り返った。
●やっときた(きっとくる 成長し顧るとき 医師の諌言
この年、私は、小指が邪魔だから切って終ってほしいと父に言い、父に、大
阪天王寺に居る叔父の所へ連れて行ってもらった。
叔父は、元、軍医だったという、阿倍野の鳥潟医院の院長に電話を掛け
てくれた。 翌日、診察してくれた院長は「戦時と指を切る」ことについて長く 言い聞かせてくれた。その中で、強く言ったことの概要を覚えている。
「親に授かったものを簡単に切り捨ててはいけない。この指は体に害を及
ぼしていない。心が害されている。心を確り持ち直しなさい」
私は、納得できず、他の医院へ行きたいと父に言ったが、その夜、思い直
して翌日、帰った。
◎ 再び立ち直りの道 細細したことを考えなくなる所 自然観の芽生え
進学し、学び終えて、ずっと都会に住み、長男が希望していた大学受験に
失敗したとき、家族を連れて故郷へ行くことにした。かれこれ、一年ぶりだっ た。この機会がなかったら、自然のことを深くは考えなくなっていたのかも知 れない。
山間に差し掛かると、長男は、
「ぼくは、ここが好き。ここに来たらこまごましたことを考えなくなる。気が修
まる」
と言い、しばらくして、
「けれど、ここにずっと居たら、そのことを気付かなくなるのかも知れない」
と言った。共に居たワイフは、
「そうね、山へ行くと今まで言えなかった愚知を言いとうなって言ってしまう。
けれど、景色を見ながら話しているうちに、景色に申し訳ないことをしてい るような気になって恥ずかしくなる。ここも同じやわ」
と。
私も、前に、ここで思いが変わり、騒いでいた胸が修まって終った。そのと
きは、そうなって良かったとだけ思っていたのだが、のち、山河の雰囲気の 「何か」が、心のわだかまりを遠のかせるように誘いかけ、なびかせようとし ているようだ。でも、そのように感じるのは、私だけなのかと疑い、すっきり と受けとめてはいなかった。
なのに、二人は、素直になびいて、受けとめたとおりを言った。それで良
いのだ。「何か」は良い方同へ誘い、働きかけ、なびかせる。
◎ 心が望んでいるとき
かつて、私の心が激しく動揺していたとき、「何か」の誘いかけ・働きか
け、なびかせにより、私がなびいていったのは殊更だったから目立ち、受け とめたときの印象が強く残るようになった。
なのに、穏やかにしている常々、心情が大きく変わらなくてもよいとき「何
か」は目立たず、その場の印象が潜在してしまい、それが常だから、印象が 目立ったときに疑うことになる。 「雰囲気と何か」は同じ。だが、感じ受けと めるのは、そのときの心情により違う。
このたび、心の動揺が大きい長男と、それほどには動揺していないワイフ
とでも違った。
それで良い。なのに、このようになるのは自分だけなのか、人はどうなの
かと憶測するとき、いわゆる、雑念が入るとき疑問が増していくのだろう。
後編 気晴らしへの呼びかけ 自然から心に贈りもの
◎ 自然詩人ワーズワースの詩
村の自然の中から都会に戻り、自然詩人ワーズワースの詩を読んだ。そ
の幾つか。
母なる自然の感謝深い命令で
知らない小川 見たことのない丘は
どこで 君を招こうと
必ず喜んで君に報いよう
他の一節
自然の中に 感覚に映ずるものの中に
わが最も純粋なる思想の安住地
わが心情の乳母 指導者 保護者
わが精神的存在の魂を認めて喜ばしく思う
と。
「母なる自然」
「わが、最も純粋な思想、心情の乳母」
の句に感じ入ってしまった。
そして、次の節、
かつて 野も 森も 流れも
大地とあらゆる世の常の眺めが
私には 天上の光をまとい
夢の輝きと鮮やかさに包まれて見えるとき
があった
このように、かつての少年時を振り返り、
そのころに自然にふれたときの印象を詩い、
大人になれば 幻影は薄れ
いずこに目を向けようと
私がかつて見たものを
今はもう目にし得ない
と、若人であってこそ 自然の感化を純に受
けることができると歌い、さらに、
私はまだ少年でありながら
自然の事物の優しい力のお陰で
大自然の力を感じるようになっていたころ
私を導いて 私ならぬ者の感謝を感じさせ
人間と人間の心とについて考えさせた
飾りない単純な物語ながら
素直な心の持ち主を 楽しませるため
記す(しるす)ことにしよう
更には 私なきのち
第二の私となるであろ 若人のために
ひとしを 慈しみをもって記そう
これらの詩を読んで、私の、自然への関心は、すっきり高まった。自然か
ら心に贈り物を素直に受け取れるのは若人の素直な心のときであること。 それに基づいて若人時を振り返り見なければならない。
◎ 火傷と恩人の木
その若人だった私に殊更な自然観をもたらしたことを記しておきたい。 前
記、私が三歳で火傷をしたとき、母は、私を助けようと懸命に努め、木の皮 を剥いで傷を治すのに使ってくれたのだが、後に、そのことを言わず、
「木のお陰」
と、その木を拝み、木に私の心を寄せさせた。 その木の近くに奇麗な水が
流れている谷があり、小魚が居たから、奇薦な水を見たく、小魚を釣りたく て、一年に幾度も行き、木の傍を通っていた。
その度に見る木は至るところ皮を剥ぎとられ、傷だらけになっていて痛々
しく、私のためにこのようになったのかと思うと見るのが辛くて、まともに目 を向けることができず、そっと、盗み見し、手をポケットに入れながら通って いた。 そして、木を恩人として拝んでいた母の心に子供心は寄添ってゆ き、私は、
「私の恩人の薬の木」
として心に止めるようになっていった。
この木と母が、私に、殊に自然を見つめさせ、自然の恵みを知らしめ始め
てくれたのだと言い切っても言い過ぎではない。
幾十年も前に見た木と、木を拝んでいた母の姿と言葉、そして、痛々しい
木を見るのが辛かったことをとても艮く思い出せる。 また、母は、野山のあ ちこちに生えている薬草についても、
「この草を煎じてお前に飲ませ、体力をつけた」
と言い聞かせ、そのときも、私の子供心は動いていた。自然の恵みを受け
た体は心に自然を、よく見つめさせ、心を動かせていた。
子供のころには、特に「体から心へ」なのだろうが、通常では、意識させら
れる機会が少ないのではないだろうか。
私も、子供のときには無意識だったが、傷めた体を治してくれた草木を、
はっきり示され、心を動かせていたものを確り見ていたから、身近なものに よることだけなのだが、子供なりに、自然にふれたときの心の動きを感じる のが特に芽生え始めていた。 ワーズワースの詩は誠、自然の中での若人 の感受性を見抜いていた。
◎ 心に訴える五感
ここまで顧みて、これまでおおよそ分かっていたことが、もう少しよく分か
ってきた。 長い間覚えていた事象は強い心象を伴っていたことであり、覚 えていなければならないこと、中でも覚えていて良いことだけに選りすぐら れている。
薬の木のことからはじめ、綴っていくうちに、幾十年も前に受けていた印
象が残っていて、次々に浮かんできた。今、そこいらで、傷薬になるという 木の皮がはがされているのを見たら「薬になるから」とだけ、そのときに思う だけで印象は残らず事象もすぐに忘れる。それでもよいことだから残らな い。
五感は受けたものを心に伝えてその場の役を終え、心は伝え受けたうち
の良きものを残そうとしている。その歳々、そのときどき、その場その場で 心にとって良きものを。そして、のちのち、心のありかたに影響を及ぼして いるものを、より長く残し続ける。 自然から心が受けるものは表わし難い。 しかし、自然に触れて長い間、覚えている事象を記していくうちに、心せず とも、ごく僅かながらも心象が伴っていき、その傾向は、覚えていた期間が 長いぼど艮くなり、選りすぐったものになる点でも艮くなる。
それをとおして、なおのことは読み取りあうようにしなければならないと。
三度 恩人の山
次に、今でも心に残っているのは、裏山のこと。小学二年生のときに学校
を嫌いになり、仮病をつかって休んだときに登った山で、前に恩人の山とし て記した山のこと。この山に一年に何回も登っていた。
家から四百メートルばかり登った所なのに家は見えず人声もしない山の
中だった。雑木が多く茂っていたし、見晴らしが良く連山を見渡せた。
登り初めたのは、四つ年上の姉に誘われてだった。多いときには、週に二
回ぐらい誘われ、あちこち連れ回されていた。姉はこの山を余程好きだった のだろう、嫁いでからも里帰りして来たときには、また、私を誘って登った。
その姉の感化を私は大きく受けていたのだと、今では考えさせられる。
小学二年生のころから、ときどき、一人で好んで登るようになり、歳とともに 一人登りの回数が多くなった。
この山には、薬の木のような特に印象に残るものはなく、様々な木々が茂
っていたから、少し広く自然に目を向けていた。木々の芽吹き、山桜、萌え 出、湧い緑一色、紅葉の彩りを良く見せてくれていた。それらの大樹の元に は小木が沢山生えていて、大樹の僅かな木漏れ日を受けるだけなのに健 気に育っていると思わせていた。山吹や草花も多く咲いていた。
いちごや、ぐみ、あけびや栗なども実っていた。兎も居たし、小鳥が巣を
作って飛び回っていたし、昆虫も沢山住みついていた。
それら、見るものだけではなく、四季によって変わる山間の匂を匂わせた
りして、季節が変わりゆく気配を、よく、感じさせていた。
その山間の道を、ただただ歩き回ったり、林の中に入って見たりしていた
ときの子供心のありようを詳らかに、一口では現せないが、ひととき、心の わだかまりなどは遠のき、とにかく、
◎ 心を良い方向へ誘う所
「子供心は和み、良い方へ向い、修まっていった」
なぜ?、と考えてみたくなるのは今である。
子供のときは考えず、素直に心のわだかまりを遠のかされ、向かわされる
ままにしていた。
しかし、度々 登ろうとしていたから、そのようになる所 そのような雰囲気
を好むようになっていた。全く表立たない、ありふれた山だったのに。
それは、心が曇ったり傷み、萎縮していたときには特にだった。曇りなく、
良くありたいとしている子供心に、その方が良いと想わせるように働きかけ られるようだったのだ、と今では考えさせられる。
それに、山では、花弁が足りない花でも健気に誇らしげに咲いていたの
や、大樹の下で、か細くとも健気に育つ潅木が子供心に感じさせるものが あったのだろう。そのため、今、人が造った造花に違いがあると不自然に感 じるのに、野の花の弁が足りなくても不自然とは感じないこと。また、林の 中では、大樹を、ざっと見て、その下のか細い木々に目をやるのは人並み 以上になっているのだろうと、今、考え深くさせられている。
◎ 陰の労り(薬では無く心の糧)
このように人の心に働きかけ、修めてくれている自然のありよう、成しよう
を人が言い表わそうとするのは無理である。それを押して、人なりに例えて みようとするとき、かつて、父や母や兄が表立たずに私にしてくれた「いた わり」に似ていた、と言うことができる。「かげのいたわり」と言うのが相応し い。
中学生のときも、別の山間で、同じようないたわりを受けたし、その他の
山辺や川辺でも、素直に、いたわりを受けて心が癒され、膨らんでいた。薬 ではなく、「心のかて」になっていた。疑っていたら、心のかてには、決して ならなかったのだろうとも、今では考えさせられる。
◎ 賢母と慈母
ここに、顧みた素朴な自然を慈母にたとえ、名勝を賢母にたとえたら良い
のではないだろうか。名勝は表立って見るべきものを示し、ときに、強いて 目を向けさせる。だが、素朴な山河は表立たず、思うように見させ、想わせ ながら人々の心を和ませ、正させる。
ときには、賢母の教示も艮く、ときには、慈母の導きも艮い。だが、幼いと
き、若いときには、より、慈母を慕い、慈母が必要なのではないだろうか。
それらのことを踏まえて、今の子供たちに理屈を言わず、ただただ、今、
より多く自然にふれるようにすすめ、自然を見る目を肥やすように仕向け。 子供たちを養育している万々にも、自然を見る目を肥やして、子たちに良い 感化を与えるようにすると艮いことを伝えなければらないのではないだろう かと思い至ったのである。
◎ 気晴らし 湯浴みの野山 人の知恵が及ばない所
気晴らしに野山へ行くと言う。私は気晴らしと心の湯浴みに行くとしてい
る。体の湯浴みは、体を洗って綺麗に、温め解す。心も綺麗で晴れていた いと望んでいる。ときに、憂い汚れ曇ったときも晴れを恋う望みはなくならな い。
そのようなとき、野山や河辺、海辺へゆくと、晴れを恋う望みに「何か」が
働きかけてくるようだと感じ、それを受けたいと望み始めるとき、憂さは遠の き、心は洗われ晴れ、ほのぼのとして解れていく。
それを繰り返していると、野山や川辺、海辺へ行かず、思うだけでも心は
晴れていき、山川の記や画を見るだけでも晴れていく。その晴れを感じるの は。心が、曇り憂い強く、晴れを強く望んでいるときには強く感じ、平穏で心 の変化を望んでいないときには感じが薄れる。
そのように自分が為すのか、自然が為させるのかー――。
それが、雑念、考えなくてもよい。山河は、人の知識が及び難い「もの」
を、考え及ばせずに、そっと感受させ「曇(どん)より」を遠のかせ、晴れへ 誘って直させる。
自然から受けて、心の糧になり、感性が養われるものは、「素」や「空」で
感受するもの。あれこれ思わず、自然に触れる機会を多くすれば多く受け られる。それは確かだ。
そして、私の若いとき、心の糧になっていた、見えないものは、多くの体験
を明かしているうちに読み取ることができる。それも確かだ。 その山河を、 ただ、私の体験から、慈母とし、それらが、私に働きかけたり、心を正させよ うとする「何か」や「もの」の一面を、ただ、体験から、かげのいたわり、慈母 の諌め、力添えとし、さらに、体験から、かつて、自然から心が受けたもの を「心の糧」としておきたく。
このように決めるのに、幾十年も前の体と心の傷みを顧みたり、心の修ま
りを顧みたり、今をみたりして長々と記さなければならなかった。自然や心 の様々なありようを現すに、私の筆は及び難く、もぞかしく、投げ出そうとし たり。思い直して、もう少し、もう少しと記してきたからである。
そして思う。
今、子供たちは前よりも、ずっと多くの知識を得なければならず、得させら
れているとだれもが思っていて、子たちを養育している方々は、より賢明な 賢母(賢父)でなければならないと、させられているのではないだろうか。人 は賢母(賢父)と慈母(賢父)の両面を備えていて、子たちに両面を示そう、 偏りがないように努めなければならないとだれもが考えてはいるのだろう が。慈母のありかたの難しさを思う。
そして、子供たちよ、体の成長とともに心も成長している。体にも心にも栄
養=「かて」が必要なのだ。心の糧をすすんで受けようとしていくとき、その 中で、かげのいたわりも受ける。そうしていったら、体と知識を、もっと良くし ていける。
だがね、心が受けるものは、その場では、はっきりと、分からないことがあ
りますよ。 私は、あれが、心のかてになっていたのだ。いたわりだったの だ。人にも自然にも与えてもらったのが良かった。その自然も慈母だったの だと言いたくなっている。
そして、それで、私は少年時代を無事に過ごすことができたのだ、と思い
付いたのは、自然からのものを受けてから三十年も五十年も後になってか らだった。
そのことを、声を大きく、強く言いたい。
◎ 不自然を感じさせない自然 知識の一人がけを防ごう
自然から、体が受けるものは明らかだが、心が受けるもの、自然体験は
どのような効があるのか、また、不自然と感じさせないものを具体的に記す ことはできない。
ただ、各々の自然体験を明かし、それをとおして各々が読み取りあうよう
に古からしている。それに従わなければならない。
心を正すのを先にして得た知識は、知識だけが独り駆けしようとはしない
のではないだろうか。そうではなく、得た知識は、知識だけが独り駆けする ようになるのではないだろうか。
若いときには特に。また、知識に溺れないようにしなければならないので
はないだろうか。 |