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暗い鏡の中に/H.マクロイ

Through a Glass, Darkly/H.McCloy

1950年発表 駒月雅子訳 創元推理文庫168-07(東京創元社)

 物語の中心となっているドッペルゲンガー*1という怪異は魅力的ですし、それがライトフット校長自身をはじめとした数々の証言に支えられることで、しっかりした謎として読者に提示されるところもよくできています。その反面、それを支えるトリックは“双子トリック”のバリエーションにすぎず、少々脱力を禁じ得ないところではあります。

 もっとも、ドッペルゲンガーとは端的にいえば、“ある人物が同時に二箇所で目撃されること”――アリバイトリックの一種――であり、偽装の対象が〈時間〉・〈場所〉・〈人物〉のいずれかに限られる(→「アリバイトリックの分類(仮)」を参照)ことを考えれば、“同時に”及び“二箇所で”という目撃状況が強固であればあるほど、〈人物〉にトリックを仕掛けるよりほかなくなってしまうのは自ずと明らかといえるかもしれません。

 ドッペルゲンガーの正体が男性であるため、フォスティーナとの容貌の相似が目立たなくなっているのはうまいところですし、“彼”が女装して学院を訪れる理由にも説得力があります。そして、ライトフット校長がドッペルゲンガーに何の匂いに気づかなかったことを合理的に説明するとともに、ドッペルゲンガーの正体を特定する手がかりとなっている、レモンヴァーベナの香りのマスキング効果が秀逸です。

 とはいえ、それも決め手というには少々力不足で、解決が全体として弱くなっているのは否めないところ。骨格を同じくする短編版の「鏡もて見るごとく」『歌うダイアモンド』収録)では、千街晶之氏による本書の解説でも指摘されているように“最後に犯人が罪を認める”(本書295頁)という形で決着してはいるものの、実際にはかなり強引といわざるを得ません*2。その意味では、本書の方がより自然な展開というか、長編化に際して付け加えられた“趣向”は短編版の弱点を補う――というよりも逆手に取ったものだといえるかもしれません。

 その“趣向”は、形だけをみれば“犯人と名指しされた人物(レイモンド・ヴァニング)が罪を認めない”というにすぎず、面白味に欠ける部分もないではありません。また、解説でも先例として挙げられているジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』に比べると、インパクトという点で及ばないのは確かです。しかしながら、千街晶之氏のように“恐怖度にかけては本書の方が遥かに上だと思う”(本書295頁)という見方もできるでしょう。

[以下、本書の結末を『火刑法廷』と比較しますので、そちらを未読の方はご注意下さい]

 『火刑法廷』では、謎が合理的に“解決”された後、超自然的な“真相”がその“当事者”の独白という形で、読者に対してのみ示されます。つまり、超自然的な“真相”に恐怖を覚えるのは読者のみ。それに対して本書では、超自然的な“真相”が作中の登場人物であるレイモンドとウィリング博士によって共有されることで、恐怖がより強調されている感があります。
 もう一つ、『火刑法廷』では最後に示される超自然的な“真相”を否定する立場が作中に存在しないのに対して、本書では超自然的な“真相”を示唆するレイモンドとそれを否定するウィリング博士が真っ向から対立することにより、結末で宙吊りにされたような感覚がいつまでも続くのも特徴といえるでしょう。

[ここまで]

 そう考えると、本書と『火刑法廷』の“趣向”は方向性を同じくするとはいえ、だいぶ味わいの違うものではあり、それぞれの魅力があるといえるように思います。

*1: 余談ですが、奇しくもこの感想を書いている間に読んでいたのが三津田信三『生霊の如き重るもの』で、ドッペルゲンガーを扱った表題作の中では本書の短編版「鏡もて見るごとく」やエミリー・サジェ事件に言及されるなど、大いにニヤリとさせられました。
*2: 短編版では、ウィリング博士が現場で犯人と出会った途端に“きみが祖父の非嫡出の娘、フォースティーナ・クレイルを殺した”(『歌うダイアモンド』195頁)と告発し、さらに“脅迫”を加えることで自白を引き出すという展開で、謎解きが披露されるのはその後になっています。

2011.06.27読了

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