火刑法廷 The Burning Court
[紹介]
出版社に勤務するエドワード・スティーヴンズは、届いたばかりの作家ゴーダン・クロスの新作原稿を見て愕然とした。添付されていた十九世紀の毒殺犯の写真は、彼の妻マリーの姿としか思えなかったのだ。そしてその夜、訪ねてきた隣家のマーク・デスパードは、先日亡くなった伯父のマイルズ老が毒殺されたという疑惑――十七世紀の毒殺魔ブランヴィリエ侯爵夫人の扮装をした犯人は、密室から煙のように消え失せたらしい――を語り、墓を暴いて死体を調べるのに協力してほしいという。だが、厳重に密閉されたはずの納骨所を開けてみると、マイルズ老の棺は空っぽだった。そしてエドワードの脳裏には、妻に対する恐ろしい疑惑が浮かび始め……。
[感想]
シリーズ探偵が登場しないにもかかわらず、しばしば代表作の一つに挙げられる、傑作と名高い本書ですが、『三つの棺』とはまた違った理由で“最初に読むカー作品”としてはおすすめできません。本書はカー作品の中でも随一の異色作であり、先に他の作品を読んでカーの作風に触れてからの方が、より楽しめるのではないかと思うからです。
本書はもともと、グロテスクなものを排した日常的な状況の作品を、との出版社からの要請を受けて書かれた(*1)ものですが、出版社勤務の編集者というごく普通の人物を主人公とし、何の変哲もない(1929年米国の)現代的な日常の一場面から始まるものの、最終的には怪奇趣味が最も色濃く表れた作品となっているのがカーの困ったところ(苦笑)。しかし、皮肉なことに本書が傑作たる所以は、その怪奇趣味がミステリのプロットにうまく取り込まれ、両者が見事に融合している点にあるといえます。
主人公の日常に超自然の影が少しずつ忍び寄ってくるという、他の作品とは一線を画した抑制的なスタイルが採用されることで、オカルト要素が物語から浮かび上がることなくうまく溶け込んでいるのが巧妙。加えて、個々のオカルト要素もどちらかといえば控えめで曖昧なものが多く(*2)、さほど荒唐無稽な印象を与えることなくある種の実在感を備えることに成功しています。
また、登場するだけで“怪奇”が合理的に解体されることを確信させてくれるフェル博士やH.Mのような、物語を“怪奇”の側から“合理”の側へと引き戻すべき明確な探偵役の不在も、明らかに怪奇色を強めるのに一役買っています(*3)。二つの“消失”という不可能状況が(逆説的に)物語をミステリの側につなぎとめてはいるものの、全体としては怪奇小説さながらの雰囲気に覆われている感があります。
そしてもちろん、様々な出来事を通じて主人公エドワードの中で疑惑と不安――妻のマリーが毒殺魔、しかも“不死の人間”なのではないか――が膨れ上がっていくサスペンスフルな展開もよくできています。終始だれることなく緊張感が維持される中、何かあるたびに激しく揺れ動くエドワードの心理が切実に伝わってくることで、読者も物語に引き込まれずにはいられません。
いつの間にか超自然の“霧”にすっかり覆われた事件に、思わぬところから合理の“光”が当てられ、怒涛の推理が披露される急転直下の終盤は見ごたえがありますが、圧巻はやはり、解決からそのままなだれ込んでいくエピローグの趣向です。後の作家がしばしばオマージュとして類似の趣向を取り入れているため、今となっては既視感があるという方も多いかもしれませんが、裏を返せばそれだけエポックメイキングな趣向であったということで、カーの最高傑作に推す声が多いのも十分納得できるところです。
なお、本書の終盤で少しだけ言及される別の事件をもとにして、小林泰三が「ロイス殺し」という短編を発表しています(『完全・犯罪』、及びカー生誕百周年記念アンソロジー『密室と奇蹟』収録)。興味のある方はぜひそちらもお読みになってみてください。
1999.12.30再読了
2008.08.06再読了 (2008.08.24改稿)
皇帝のかぎ煙草入れ The Emperor's Snuff-Box
[紹介]
粗暴な夫と離婚したイヴ・ニールは、やがて向かいの家に住む青年トビイと婚約した。そして、新しい生活が始まろうとするその矢先、トビイの父親であるサー・モーリス・ローズが何者かに殺害されてしまう。自宅から窓越しに事件の顛末を目撃することになったイヴだったが、ちょうどその夜彼女の寝室には、いまだ未練を残す前夫のネッドが忍び込んできていたのだ。状況証拠からイヴに殺人の容疑をかけた警察に対して、スキャンダルと引き換えにアリバイを主張するしかない彼女は……。
[感想]
カーの数多い作品の中にあって、“名作”といっても過言ではないほど出来のいい作品の一つですが、色々な意味でカーらしくないために“代表作”とはいいがたい、“突然変異”ともいうべき作品です。
本書の最大の特徴ともいえるのが、カーの作品とは思えないほどすっきりしている点です。文章もカーにしては驚くほど簡潔ですし(*1)、ただ一つしか起こらない事件に焦点を絞ったプロットもまた異例。さらには、“複雑なトリック”というイメージを覆すシンプルなトリックが効果的に使われているところなど、とてもあの『三つの棺』と同じ作者が書いた作品とは思えません。
また、女性が主人公となっているのもカーにしては珍しいところです(*2)。カーの作品に登場する女性は概して類型的に描かれているきらいがあるのですが、本書の主人公であるイヴはそれらの女性とは一線を画した、他に例を見ない印象的なキャラクターとなっており、その点でも異色の作品といえます。
物語がいつになく序盤からテンポよく進んでいくのも見どころで、前夫ネッドの深夜の侵入に始まり、婚約者の父親が殺害され、しかもなぜかその容疑者とされてしまうという具合に、主人公のイヴがあれよあれよという間に窮地に追い込まれていく展開は、十分に読者を引き込む力を備えています。とりわけ、容疑を晴らそうとすれば致命的なスキャンダルを覚悟せざるを得ないという、板挟みの状況には興味を引かれずにいられません。
四面楚歌のイヴの前に現れるのは、捜査陣を率いる警察署長ゴロン氏(*3)の友人にして心理学者のダーモット・キンロス博士。本書が唯一の出番であるキンロス博士は、フェル博士やH.Mといったカーが創造したシリーズ探偵と比べると印象が薄くなっているのは否めませんが、狂言回し的な役割を振られているゴロン氏とのやり取りを通じて描き出される人物像のコントラストは、なかなか面白いものになっています。
中盤は若干遠回りしているように感じられる部分もありますが、それでも決して冗長というわけではありませんし、クライマックスの演出も含めた解決の鮮やかさは特筆ものです。そして、解き明かされるトリックの巧妙さもさることながら、それを支えるためにカーが張りめぐらせた周到な罠には脱帽せざるを得ません。
前述のように、あまりカーらしくない――カー独特の“味”が不足しているのがファンとしては難といえば難ですが、裏を返せばカーの(意外な)幅の広さがうかがえる作品ともいえるでしょう。
“カーが大いに関心を持っていたとされる文章の点はどうかというと、いつもの饒舌が抑制され、コンパクトな形にまとめられ、かなり高い水準のものとなっている。なにか別人の作か、それとも、誰かがあとで手を加えたのではないかと思えるほどだ。”(ハヤカワ文庫版297頁)と記されています。
*2: 短編まではすぐに思い出せませんが、すくなくとも長編ではカーター・ディクスン名義の『かくして殺人へ』くらいしか見当たりません。
*3: 短編「銀色のカーテン」(『不可能犯罪捜査課』収録)にも登場し、そちらではマーチ大佐とコンビを組んでいます。
2008.03.18再読了 (2008.03.30改稿)
2013.02.15創元推理文庫【新訳版】読了 (2013.02.21改稿)
九つの答 The Nine Wrong Answers
[紹介]
ロンドンからニューヨークへやってきて一文無しになったビル・ドーソンは、弁護士事務所で出会ったラリー・ハーストから
[感想]
この作品では、読者が予想すると思われる解答を、欄外の注釈で次々と否定していくという趣向になっていますが、これはさほど有効に機能しているとは思えません。しかし、やや長すぎるのが難とはいえ、プロット自体はよくできていると思います。