〈夢裡庵先生捕物帳〉

泡坂妻夫




シリーズ紹介

 このシリーズは〈宝引の辰捕者帳〉に続いて発表された、捕物帳です。夢裡庵先生は、本名を富士宇衛門という八丁堀の同心で、柔術の達人であると同時に筆も立ち、“空中楼夢裡庵”という雅号を持っていることから、“夢裡庵先生”と呼ばれています。当世風の小細工を嫌う武骨な人物ではありますが、人情には厚く、たびたび犯人を見逃すこともあります。

 このシリーズの特徴は、登場人物に関する趣向です。例えば第1作の「びいどろの筆」で謎解きをしている以前先生(赤沢松葉)は第2作の「経師屋橋之助」では視点人物となり、森林木十が謎解き役をつとめています。その森林木十は次の「南蛮うどん」で視点人物となり、今度は蕎麦屋「天庵」の女主人・照月が事件の謎を解いています。つまり、登場人物たちによって謎解き役と視点人物のリレーが行われているのです(詳しくは「主要登場人物一覧表」参照)。

 そして夢裡庵先生自身は、シリーズのレギュラーではありますが、それぞれの作品では重要な脇役といった役どころです。事件の真相に気づいている場合もありますが、読者に対する説明は謎解き役に譲り、一歩引いた位置で物語の幕を下ろしています。




作品紹介

 7篇ずつを収録した3冊の短編集が刊行されています。ほぼ年に1篇ずつという気の長いペースで雑誌に書き継がれてきたこのシリーズも、20年ほどかけてついに完結です。


びいどろの筆  泡坂妻夫
 1989年発表 (徳間書店・入手困難ネタバレ感想

 個人的ベストは、「びいどろの筆」「芸者の首」

「びいどろの筆」
 絵馬に描かれた人間が矢を放ち、人を殺した――そうとしか見えない状況に、夢裡庵は首をひねる。死んだのは絵師で、首の後ろには破魔矢が突き刺さり、絵馬には今まさに矢を放ったばかりという射手の姿が描かれていたのだ……。
 あまり詳しく触れることはできませんが、事件の謎が非常にユニークです。一見関係のなさそうな“びいどろの筆”のエピソードも、後で重要な意味を持ってきます。丹念に組み立てられた傑作です。

「経師屋橋之助」
 席亭「むら咲」で講釈師・神田伯馬が読んでいる〈経師屋橋之助〉。妻の仇の首を手拭で締め、鯵切り包丁で喉と胸に止めを刺し、川の中洲に放り出すというその一場面を、そっくりそのまま真似たような殺しが起こったのだ。伯馬の講釈はすっかり評判となったのだが……。
 『煙の殺意』に収録された「開橋式次第」にも通じる作品です。講釈の一場面を再現した動機は意外なもので、よくできているとは思いますが、推理はやや飛躍しすぎでしょう。

「南蛮うどん」
 店を飛び出した若旦那が、町内の主立った者を集めてご馳走したいという。店との間を取り持ってほしいようなのだ。料理は穴の開いた“南蛮うどん”によるうどん尽くし。だが食後、火のついた蝋燭を食べる芸を披露していた若旦那が、急に苦しみ出して死んでしまったのだ……。
 トリックはわかりやすいかもしれませんが、犯人の動機、そして謎解き後の展開がよくできています。

「泥棒番付」
 “味競番付”で大関となった神田の蕎麦屋「天庵」では、一日てんてこ舞いの大忙し。ようやく落ち着いた深夜、今度は強盗に襲われる羽目になってしまった。番付上位の店を狙った強盗はさらに続き、割烹料理屋「茶の市」ではついに殺しが……。
 解決へとつながる手がかりは、大部分の人にはわからないでしょう。しかし、そこから犯人の指摘に至る論理はよくできています。

「砂子四千両」
 砂を金に変えるという秘薬“マテリヤプリマ”を持っているという草藤蘭魚が、さらに大量の秘薬を手に入れるため、金主を募っているという。蘭魚は金主たちの前で秘術を行い、実際に砂から金を作り出して見せた。その手順には特に怪しいところもなさそうだったが……。
 当然ながら蘭魚の“秘術”はインチキであるわけですが、その最終的な狙いには驚かされました。錬金術のトリック自体もユニークです。

「芸者の首」
 由美吉と豊菊は茶屋「小桜屋」で人気の芸者だが、その境遇は対照的だった。多田屋源兵衛という嫌な客につきまとわれる由美吉と、竹之助と名乗る謎の侍と惚れ合っている豊菊。しかしある日、なぜか豊菊が多田屋源兵衛を殺してしまった……。
 豊菊の動機があまりにも鮮烈です。と同時に、自由のない女たちの悲しみが強く印象に残ります。

「虎の女」
 腕のいい彫物師・彫重が、「トラに毒を飲まされた」と言い残して急死してしまった。彫重が女の客に虎の図柄の彫り物を入れていたことを知った夢裡庵は、目星をつけた女、彫重の兄弟弟子の女房・とらの背中をあらためる。だが、そこには……。
 ネタはわかりやすいかと思いますが、彫り物のイメージが鮮やかです。

2001.06.16再読了  [泡坂妻夫]

からくり富  泡坂妻夫
 1996年発表 (徳間文庫 あ19-2)ネタバレ感想

 『びいどろの筆』と比べて、謎解きの要素がやや少なくなっているように感じられます。夢裡庵先生の出番が少なくなっているのが残念です。
 個人的ベストは、「小判祭」「からくり富」

「もひとつ観音」
 浅草の見せ物小屋で大人気の、三つの乳房を持つ“もひとつ観音”。その観音様をつとめているお照が、ある日ふらふらとどこかへ姿を消してしまった。一方その頃、何かに喉を食いちぎられた侍の死体が発見された。その懐には、“もひとつ観音”の刷物が……。
 謎解きに若干の疑問があります。伏線が足りないように思えるのですが……。

「小判祭」
 神田明神の祭りに備えて新調された、神田伏町の山車。その愛染明王の人形の持つ{や}が血で汚されるという縁起でもないいたずらが起きていた。一方、弁天様の使いとされるを前日に殺してしまった町内の鼻つまみ者が、一向に祭りに姿を現さない……。
 意外な手がかりと、そこから展開される論理がよくできています。また、動機も一風変わったものです。

「新道の女」
 白蝶のところへ踊りを習いにきているお美音は、夫の千之助と二人でひっそりと暮らしていた。急病人が出た時にも素早く処置をするなど、しっかりしているはずのそのお美音が、なぜか暗がりに立っていた侍の姿を見て、激しく取り乱したのだ。そしてその翌日……。
 ある意味意外な展開です。ラストは……仕方ないのでしょうね。

「猿曳駒」
 納豆売りからお釣りとして珍しい一文銭を手に入れた与七は、占師の薬小路車道とともにその出所を調べていた。様子を怪しく思った岡っ引きに自身番へと連れて行かれた二人だったが、そこで出くわした女の死体が持っていた紙入れの中には……。
 古銭に関する蘊蓄が面白いと思います。ラストで夢裡庵先生は犯人を見逃しますが、そのやり方があまりにも豪快で気に入っています。

「手相拝見」
 占師・薬小路車道のところへ、相性をみてもらいにやってきた娘。手相を見てみると、親指の真下のあたり、手首のところに黒子があり、吉相だった。車道は娘に、迷うことなく思う道を進むよう助言したのだが、それが事件のきっかけとなってしまった……。
 謎解きの要素がかなり少ない作品です。冒頭で車道の客となった大工がラストにも登場し、いい味を出しています。

「天正かるた」
 正月の亀久橋に落ちていた女の指。浮世絵師の丘本聞磁は、その指にはめられた指輪に見覚えがあった。長崎から江戸にやってきた、お咲という女のものだったのだ。やがて死体となって見つかったお咲の帯の間には、三枚の南蛮かるたが残されていた……。
 捕物帳では珍しいのではないかと思いますが、この作品のメインは一種のアリバイ崩しです。このネタ自体はなるほどと思わされますが、南蛮かるたの方はもう少しひねってほしかったと思います。

「からくり富」
 蛤弁天で売り出された富くじに、江戸の町は大騒ぎ。小料理屋「青馬」でも、常連が富くじの話で盛り上がる。ところがその中の一人・石屋の庄太が、何と百両の一番富を当てたらしい。しかし、どうもおかしな様子の庄太に、千代は不審を抱く……。
 本来は完全犯罪に近いと思いますが、それが発覚するきっかけが、実に自然で納得できるものです。

2001.06.18再読了  [泡坂妻夫]

飛奴  泡坂妻夫
 2002年発表 (徳間書店)ネタバレ感想

 シリーズ最終巻です。最後の方では登場人物のリレーがやや乱れているようにも思えますが、完結にふさわしい見事な幕切れです。
 ベスト、というより強く印象に残った作品は、「風車」「夢裡庵の逃走」でしょうか。

「風車」
 仲人が趣味の医者・塗師小路正塔は、かつて自分が仲をとりもったものの別れてしまった夫婦が、町中で偶然再会するのを見かけた。そしてその夜、その夫が殺害され、現場を訪れた形跡から離縁された妻に疑いがかかったのだが……。
 事件の謎はさほどでもありませんが、登場人物の心情には胸を打たれます。

「飛奴」
 捕らえられた盗賊が、今までに盗みに入った店の名前を白状させられた。その中に、このところ天文道師の占いで大儲けしている大坂屋の隠居所の名があったが、なぜか当の大坂屋からは被害の届けがなかったのだ……。
 大坂屋が中心になってはいるものの、物語の焦点がややぼやけている印象を受けます。ただし、謎解き、特に伏線はお見事です。

「金魚狂言」
 大の金魚好きで知られる岩治の金魚が全滅してしまった。熊谷稲荷の祭礼で配られていた饅重を家人が与えたところ、たちどころに金魚が死んでしまったという。さらに、同じ饅重によると思われる事件が相次ぎ、ついに死人が出て……。
 ささやかな矛盾から事件の真相が明らかになる過程は面白いと思います。

「仙台花押」
 仙台藩蔵屋敷で花火が打ち上げられた夜、仙台堀は見物に繰り出した涼み船で一杯だった。だが、花火が終わって船も少なくなった頃、川柳の宗匠・一文斎が乗った船は、ふらふらと漂う無人の屋根船に遭遇した。その中には女の死体が……。
 船が無人で漂っていた理由は明らかだと思いますが、その奥に隠された真相が何ともいえません。

「一天地六」
 いつの間にか夢裡庵の懐に投げ込まれていた見知らぬ財布。中には金はなく、「もんしちさんをたすけてくたさい」とだけ書かれた紙と、不思議な賽が入っていた。その賽は、いつの間にかひとりでに目が変わってしまう曲賽だったのだ……。
 事件の方は謎というほどのものでもありませんが、賽の秘密はなかなか面白いと思います。

「向い天狗」
 江戸の町では、若い娘の髪を次々と切り取る髪切り魔が出没していた。つい先日も、火事見物に夢中になっていた千鳥屋の娘が被害にあったばかりだった。夢裡庵は、青馬の俵助の娘・千代をに仕立てて、髪切り魔を捕らえようとするが……。
 髪切り魔の正体もさることながら、もう一つの謎が強く印象に残ります。

「夢裡庵の逃走」
 鳥羽伏見の戦いに勝利した討幕軍が、続々と江戸に乗り込んできた。討幕軍に抵抗する彰義隊に加わった夢裡庵は、大砲の訓練で砲弾受け止めの術を披露して士気を鼓舞する。しかし、やがて戦端が開かれ、夢裡庵の奮戦もむなしく……。
 シリーズ完結篇は捕物ではなく、討幕軍との戦いを描いた作品になっています。古風な考え方の夢裡庵先生ですから、彰義隊に加わるのは非常に納得できるのですが、その安否を気遣う人々は多く、人望の厚さもうかがわせます。

2002.10.17読了  [泡坂妻夫]

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